A Guide to Guides
週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzが取り上げている「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが「架空対談」形式で解題する週末ニュースレター。本稿のためのプレイリスト(Apple Music)もご一緒にどうぞ。
Canned food: A beginner’s guide
缶詰と栄養のナラティブ
──こんにちは。調子はいかがですか。
そうですね。忙しくしています。
──相変わらず地下に籠ってる感じで。
そうですね。ただ、少しずつ外に食事に行くことが増えてきたりもしてまして、昨日は本当に久しぶりに0時すぎに立ち食いそば屋でおそばを食べましたが、ようやくコロナが明けてきたのだな、と実感する感じがありましたね。立ち食いそば自体は、日常的に食べてはいましたが。
──相変わらず貧しそうな食生活ですね。
ほんとですね。
──気にしたりしないんですか。炭酸飲料とかジュースとかもやたらと飲むじゃないですか。
そのうち痛い目に会うのだろうな、と思ってはいますが、ほとんどそういう面では自制心というものがないので、飲料はやたらと飲みますね。昨今のコンビニには、あんまり楽しい飲み物がなくて選択に困ることが多いんですが。なんであんなにお茶とコーヒーのバリエーションが必要なんですかね。
──それしか売れないんですかね。
先日、どこかの飲料メーカーがコンブチャを出していたので「ほほう」と思って何度か買って飲んでいたのですが、つい最近も買おうと思ったら、それがゆず味になってまして、それもゆず味がやたらと強くて、ただのゆずソーダになっていました。評判悪かったんでしょうね、きっと。と思っていますが。
──コンブチャって、そもそもあれ、なんなんですか?
日本語だと紅茶キノコといいますが、紅茶キノコというのは別にキノコの種類でもなんでもなかったりするので、ネーミングのところですでに非常に厄介なものなのですが、英語版のWikipediaの解説には、こうあります。
コンブチャ(ラテン語名 Medusomyces gisevii)とは、発酵させた微発泡の甘味料入り紅茶または緑茶飲料であり、健康効果を謳って一般的に飲まれている。バクテリアや酵母の培養物と区別するために、コンブチャ・ティーと呼ばれることもある。コンブチャは、中国で最初に生まれたと考えられている。20世紀初頭には、ロシア、次いでドイツ、その他の東欧地域に広まり、現在は世界中で自家醸造されているほか、瓶詰めされて商業的に販売されている。世界のコンブチャ市場は、2019年時点で約17億米ドルの価値があるとされる。
──発祥は中国ですか。
海外のサイトだとそういう記述が多いですね。毎年2月21日が「世界コンブチャ・デー」ということらしく、それに合わせて『Vox』が今年、「コンブチャの2000年:世界が愛する発酵飲料小史」(2,000 years of kombucha: A very brief history of the world’s favorite fermented drink)という記事をあげています。それを参照しますとこうなります。
コンブチャの正確な起源は曖昧だが、最初のレシピは中国の秦代の紀元前221年にさかのぼると考えられている(だから「コンブチャの日」は2月21日なのだ)。中国北部や韓国の醸造家たちは、バクテリアと酵母の共生培養物(これらは一緒になってSCOBYと呼ばれるゼラチン状の円盤を形成する)を用いて、糖分を含んだお茶を発酵させる方法を編み出した。彼らはこれを「不老不死のお茶」と呼び、その名に嘘はないと信じていました。紀元前414年頃、朝鮮半島の医師がコンブチャの製法を日本に持ち込み、19代天皇である允恭天皇に仕え、その良さを伝えたとされる。
伝説によれば、その医師の名が「コンブ」だった。実在の人物であれば、彼こそがこの名前の由来となる。日本では「コンブチャ」と言えば「昆布茶」のことであり、全く別の飲み物である。昆布(kombu)と茶(cha)を組み合わせた語だと言えば、説明せずともそれがどういう飲み物かはわかるだろう。長い歴史を通じてコンブチャの物語は紆余曲折を経てきたが、コンブチャ愛好家にとっては、この謎めいた部分も魅力なのだ。
──あはは。そもそも謎の飲み物なんですね。だからよくわからないんですね。にしても、誰ですか、允恭天皇って。
わたしも初めて聞きました。検索しようと思って、「いんぎょう」と入れたら予測変換で一発で「允恭」って出てきて驚いたんですが、そんなメジャーな名前なんですかね。なんにせよ、Wikipediaには「5世紀前半に実在したと見られる天皇。大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第四皇子」と書かれています。とすると、『Vox』の記事の「紀元前441年」は、ただの「441年」の間違いでしょうね。
──驚くほど古い飲み物ですね。日本にお茶が入ってくるのより早いんじゃないですか?
伊藤園のウェブサイトを見ると、日本にお茶の種を持ち込んだのは遣唐使だったとの記載がありますね。以降の歴史は次の通りです。
平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠(えいちゅう)が近江(現在の滋賀県大津市)の梵釈寺(ぼんしゃくじ)において茶を煎じて奉った」と記述されています。これが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれています。
このころのお茶は非常に貴重で、上流階級などの限られた人々だけが口にすることができました。鎌倉初期(1191年)に栄西(えいさい)禅師が宋から帰国する際、日本にお茶を持ち帰りました。栄西は、お茶の効用からお茶の製法などについて著した『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(1214年)を書き上げました。
──ふむふむ。とするとコンブチャは、歴史のなかに消え去った飲み物ということになるんでしょうね。
飲料メーカーもそういう切り口からマーケティングすればよかったのかもしれません。
──「1,500年前に日本にやってきた幻の飲み物」って言われても飲みたいかどうかは微妙ですが。
マテ茶なんかは「インカ帝国の頃から飲まれていた」といったキャッチフレーズが、よく枕詞として使われる気がしますが、まあ、でも允恭天皇とか言われても、誰もピンとこないのはたしかにそうですね。
──なんの話ですか、これ。
今回の〈Weekly Obsession〉のお題が「缶詰」でして、小特集の背景としては、コロナ禍で缶詰の需要が増したことがあるのですが、それはそれでいいとして、缶詰について何か面白い話がないかな、と思って調べていたら、なんとなくコンブチャに行き着いたんです。
──変わった調べ方してますね。で、何か面白い話はありました?
そうですね。例によって〈Weekly Obsession〉では、まずは缶詰の歴史を遡ることをするわけですが、缶詰って、ナポレオンが発祥なんですね。
──どういうことですか。
『History.com』というサイトの「缶詰はいかにわたしたちの食を革命的に変えたか」(How Canned Food Revolutionized The Way We Eat)という記事はこう説明しています。
漬け物や塩漬け、燻製や乾燥など、人類は有史以前から食べ物を長持ちさせる方法を模索してきた。だが、18世紀になっても真の意味で効率的な保存方法は見つかっていなかった。
1795年、フランス政府はこの問題に取り組むことを決断した。この年、フランスはイタリア、オランダ、ドイツ、カリブ海で戦争を行っており、遠く離れた兵士や船員のために安定した食料が必要とされていた。そこでフランス政府は、食品の保存に関する画期的な技術を開発した人に、産業奨励協会を通じて1万2,000フランの賞金を与えることを決定した。
シャンパーニュ地方の若きシェフ、ニコラ・アペールは、この賞金を獲得することを決意した。貴族の料理人として活躍していたアペールは、食品保存の研究に没頭した。彼が開発したのは食品を、チーズとライムを混ぜたものとともにシャンパンボトル内に気密性高く封じ込めるという奇妙だが効果的な方法だった。この方法によって、彼は、空気を抜いたり熱保存したりする従来の方法の問題を克服した。
──へえ、えらい人がいたもんですね。この時のフランス軍というのは、要はナポレオンの軍隊ということですよね。フランス政府も面白いことを考えますね。
Quartzの特集によれば、その後の缶詰の歴史は、こうなります。
1810年:フランス人シェフ、ニコラ・アペールは、ガラス瓶で食品を保存するための最初のガイド「The Art of Preserving, all Animal and Vegetable Substances, for several Years」を出版。
同年、イギリスの発明家ピーター・デュランが、ガラスの代わりに錫メッキを施した鉄缶を使った保存方法を特許化。
1812年:米国初の缶詰工場がニューヨークに開設される。3年後、缶詰は英国植民地時代の探検家とともにオーストラリアに渡った。
1840年代:北極圏の長距離探検に缶詰が活躍。
1862年:フランスの化学者ルイ・パスツールが、缶詰の科学的根拠を説明。
1895年:マサチューセッツ工科大学(MIT)の科学者が、微生物を死滅させることで食品の安全性を高める高温缶詰製造法を開発。現在も使用されている。
1897年:キャンベル・プレザーブ・カンパニーのジェネラルマネジャーの甥にあたる化学者、ジョン・ドランスがコンデンス・トマト・スープを発明。
1910年代:第一次世界大戦の兵士が塹壕の中で生き残るために缶詰が役立った。
1930年代:世界大恐慌の時代、缶詰はアメリカの多くの家庭の主食となる。
1940年代:冷蔵庫の普及に伴い、家庭での缶詰作りは衰退していく。
1964年:リサイクル可能なアルミニウムが缶詰メーカーに選ばれてから数年後、プルタブ缶が発明される。
──ふむ、こうやって年表を見ると、当たり前かもしれませんが、戦争や探検が缶詰食を広めるドライバーになってきたことがわかりますね。
そうなんです。そうした、いわゆる「非常食」として考えられてきたものが、家庭にどっと浸透するきっかけになったのが、アメリカの場合ですと、世界大恐慌だというんですね。以下、『The Atlantic』から、「いかに大恐慌はアメリカの食をいまなお規定し続けているか」(How the Great Depression Still Shapes the Way Americans Eat)という記事の引用です。
1929年の金融危機は、アメリカ家庭の台所に届く食材や野菜の種類から、食生活や食慣習に関する知識人や政治家の考え方にいたるまで、大きな影響を与えた。
ジェーン・ジーゲルマンとアンドリュー・コーは『A Square Meal』という本の中で、大恐慌時代の国民の飢えと習慣について強い関心を寄せている。ふたりは、アメリカ人が食料を確保できたときに何を食べたかを追跡しただけでなく、飢餓との戦いにおいて政府の戦略を導いた多様な理念を紹介する。元大統領のハーバート・フーバーは、アイオワ州の孤児として窮乏を経験し、第一次世界大戦後のヨーロッパを襲った飢餓を軽減するために英雄的な活動を行い、ホワイトハウスへと出世を果たした。「彼は偉大な人道主義者だった」とコーは朝食を食べながらわたしに語った。「彼には技術があり、知識があり、経験もあった。すべてが揃っていたんだ」
フーバーが権力を握ったのは、「狂乱の20年代」の末期であり、任期が始まって1年も経たないうちに「ブラックチューズデー」に見舞われた。フーバーは、一次大戦後のヨーロッパで多く国々の食糧援助に貢献してきたが、アメリカで飢餓が拡大するという見通しに直面すると、政府による直接的な救済には断固として反対し、自給自足という国家信条を維持することを優先した。フーバーは楽観主義を貫き、ホワイトハウスで豪華な晩餐会を開いて自信を示すとともに、「実際に飢えている人はいない」と繰り返し主張した。しかし、1931年になると国の怠慢は明らかになっていった。干ばつや洪水でアメリカの農業は壊滅的な打撃を受け、失業率は25%に達し、ニューヨークのパン屋では1日に8万5千食もの食事が無料配給されていた。1928年の大統領選挙で米国史上最大の大差をつけて当選したフーバーは、1932年にはフランクリン・ルーズベルトにさらなる大差をつけられて敗北した。
ルーズベルトは、アメリカの福祉制度を確立したにもかかわらず、飢餓救済のために政府の資金を投入することには当初難色を示した。だが、ルーズベルトは、選挙の数日前に、選挙運動の一環として、「当面の責任は、地方、公共、民間の慈善事業にあるが、これらが不十分な場合には、州がその重荷を背負わなければならない。そして州政府がその責務を果たせないときに連邦政府は積極的に介入する責任を負っている」と語った。
──飢餓対策として政府が、市民の食生活に介入を始める契機になったわけですね。
はい。記事はこう続きます。
ジーゲルマンは、世界大恐慌によって、19世紀の食文化が終わり、現代の食文化が始まったという。「政府がアメリカ人が何を食べるかについて非常に積極的に介入したことで、栄養意識が市民の間に芽生えたのです」と彼女は説明する。「食品群、ビタミン、ミネラルなどの観点から食品を考え、それに基づいて食品を評価するようになったのです。シリアルの箱の側面を見て、砂糖が何グラムで食物繊維が何グラムかを確認し、その計算に基づいて判断するようになったんです」
──なるほど。面白いですね。わたしたちも小学校の頃から、やたらと栄養について教えられてきましたが、飢餓に直面した行政府が、なんらかの食糧政策を発動するとなったら、当然最も効率のよい安価なやり方を考える必要がありますよね。栄養学は、そのひとつの大きな根拠になるわけですね。
はい。近代栄養学の父祖と言えるのは、フランスのラヴォアジエという学者だそうでして、この人は空気中の酸素を発見した人だそうです。
──へえ。
ヤクルトのウェブサイトに「時代とともに変化する 日本の『栄養』」と題された、日本栄養士会会長の中村丁次さんという方のインタビューが掲載されているのですが、こちらで先生は栄養学の発祥を、こんなふうに概説しています。
18世紀後半、空気中の酸素を発見したと言われているフランスのラヴォアジエという学者が、食物と人間のエネルギー代謝の概念をつくりました。私はこれが栄養学の出発点だと思っていますが、その後、人間が食べ物からエネルギーを得ているとしたら、その源は何かという研究がドイツで 始まり、炭水化物、脂質、タンパク質といった三大栄養素の発見、さらにビタミン、ミネラルといった身体の調子を整える栄養素の発見が加わり、五大栄養素となりました。
──栄養素の発見から始まった、と。
はい。そして中村先生は、その後の栄養学の歴史をこう概説します。
1968年に、米国の外科医、ダドリック博士は、学会で「ここ数カ月、一切食べていないが元気に生きている」という一匹のビーグル犬を紹介しました。すべての栄養素を血液に直接投与する完全静脈栄養法の始まりです。口から食べていなくても生きていけるようになったのです。これはつまり、人間にとって生命に必要な全ての栄養素が解明されたということを意味する大きな出来事なのです。
そして今や、実際にクローン病や潰瘍性大腸炎の治療のために消化管を摘出し、鎖骨下静脈から血液を通して栄養剤を入れる IVH(中心静脈栄養法)によって、 20年も30年も生命を維持しておられるという患者さんが存在するのです。(中略)
栄養学は人類に対して、非常に大きな貢献をしました。と同時に食べ物の中にある命の元、つまり栄養素を体系化してきた近代栄養学は、これらの栄養素を溶かしてとにかく体内に補給すれば生きていけるまでになったという事実によって、ある意味で完結したと言えるでしょう。
──言うなれば、栄養学の要素還元的な思考のおかげで、サプリだけ食べてれば生きていける、みたいな考え方も必然的に出てくるということですよね。
そうですね。ちなみに日本の栄養学の始祖である佐伯矩という方は、北里柴三郎の門下のひとりだそうですが、1920年に内務省の栄養研究所(現在の国立健康・栄養研究所)が設立された際に初代所長となったレジェンダリーな方ですが、「偏食」ということばをつくったとも言われる人でして、その対概念として「完全食」(完全栄養食)を提唱しています。
佐伯矩の栄養学では、1日分の必要な栄養が含まれた食事のことを完全食、あるいは標準食と呼ぶ。そうでない食事は偏食である。1日単位で見ると必要な栄養素の量を満たしているのだが、1食毎で見ると1日分の等分ではない場合は不完全で偏食であり、理想的な食事ではないとされる。等分された場合は、完全食と呼ばれる。
1日3回に分けて食べる場合、必要な栄養素が3等分された毎回完全のほうがよいことをラットと人間での実験を根拠に主張しており、そのことを毎回食完全(EMP:Each Meal Perfect)と呼ぶ。毎回食完全の理論が完成されたのは、1924年(大正13年)頃とされている。
──ふむ。
この佐伯さんという方は非常に面白い方で、日本人の主食を何にするのかをめぐって、「胚芽米か、七分づき米か」といった論点をめぐって戦前に対立があったそうなのですが、佐伯先生は、胚芽米推しの軍部と対立したりしていたそうなんです。
──そんな論争があったんですね。
国家方針として主食を何にすべきかは戦時中まで論争があり、世論も揺れ動いていたというんですね。フーズアンドヘルス研究会という組織のウェブサイトの「学校給食の裏面史」という記事には、こんなふうに解説されています。
戦前、国民病とも言われた脚気の治療、研究を巡って主食論争という大きな論争があった。ビタミンB1を多く含む胚芽を取り去った白米では健康を保てないから、胚芽のついた胚芽米がいい、いや胚芽とある程度の糠の残った七分づき米がいいという、いわゆる胚芽米論争である。両陣営は感情的なまでの論争を繰り広げ、昭和14年法定米は七分づき米に決着した。日本の栄養学史に残る大論争であったがそのしこりは深く残った。
ところが戦後は法定米が七分づき米から一転して白米になった。戦前まで主食の米のあり方をめぐって栄養学界を二分するほどの大論争があったというのに、何故こうもあっさり法定米は白米になったのか。
戦後の食糧難時代に厚生省は栄養課を新設し初代課長に戦前からの胚芽米論者である有本邦太郎、課長補佐に七分づき米論者の大磯敏男を迎えた。つまり両陣営から一人ずつ選んだのである。こうなると法定米をどちらに決めても戦前の論争がぶり返され収拾がつかなくなることは容易に想像できる。このことも一因だったと思われるが、戦後の法定米はそれ以外の白米にせざるを得なかった。
しかし戦前の主食論争は白米に問題ありという点では両陣営とも一致していたわけで、戦後になって白米を学校給食に供するには栄養学者の間に戸惑いがあったのではないだろうか。
──ウケますね。「白米は問題あり」と一致していたにもかかわらず、それが選ばれてしまうという。日本っぽいです(笑)。
いずれにせよ、白米が主食、というのは消費者が選んだからそうなったというものではなく、完全に政治的な決定だったことは、よくわかりますよね。それが悪いということではなく、当然それは、産業振興に大きく関わる部分ですから、市場まかせでなんでもいいじゃん、というわけには国としてはいかないわけですね。特に大きな戦争をやっていたような時代であればなおさらです。
──食の安全保障なんて言い方もありますが、コロナのような事態において、それはなおさら重要な問題ですよね。
こうした話をつらつら読みながら思い出していたのは、たぶん自分が生まれてきてこの方ずっと、「食生活の乱れ」「食の崩壊」みたいなことが社会的に言われてきたということと、そして、それとセットで常に「栄養価を気にしろ」という言説が発動されてきたということです。つまり、それって栄養価を気にすることと、食生活が乱脈になっているという、矛盾するとも見えることがずっと同時進行で起きているということだと思うのですが、さっきもちらっとお話にありましたけれど、栄養学の発達が、結局は「サプリでいいじゃん」という思考を加速させているということだとするなら、ある意味、食というものの機能化を進めてしまっているのは、栄養学というものそのものだということにもなるのではないかと思ったりするわけですね。
──たしかに。
加えて、「1日3食完全食を」とか「1日30品目を」といったことを国が言うのはいいのですが、普通に考えて「それ、誰がつくるの?」という疑問も出てくるわけですね。
──そらそうですね。
また当然そこを目がけて、1本で1日分のビタミンが摂れるとか、1本で10品目の栄養価が摂れるといった商品も出てきますから、その結果「食生活の乱れ」──それが何を意味するにせよ──が一層進行してしまいますよね。
──ほんとですね。
栄養という話からちょっとズレるのですが、「食生活の崩壊」という現象についていえば、文化人類学者の久保明教さんが『家庭料理という戦場:暮らしはデザインできるか?』という本で、非常に面白い分析を行っています。本書の第2章「カレーライスでもいい。ただしそれはインスタントではない」は、こんなふうに始まります。
本章で中心的に扱うのは一つの矛盾、一つの謎である。
第一章で私は次のように書いた。「白米を中心に和洋折衷の美味しい一汁一菜を女性(妻/母)が心をこめて手作りすることが家庭生活の潤滑油となる」と言う家庭料理の理念的なあり方は高度経済成長期(1950年代中盤〜1970年台前半)に確立された、と。
しかしながら、この時期はインスタントラーメン(1958年「チキンラーメン」発売)、カレールゥ(1960年「印度カレー」発売)、即席味噌汁(1961年山印醸造製造開始)、ダシの素(1962年「ハイミー」、1970年「ほんだし」発売)、チルドハンバーグ(1970年発売)といった家庭用加工食品のブームが次々と起こり、食の簡易化が進められた時期でもある。
手作りの重視と食の簡易化と言う、一見すると矛盾しているように思われる二つの特徴はいかに共存していたのだろうか。
──面白そうです。
久保さんは、まずは、2003年に出版された岩村暢子さんの『変わる家族 変わる食卓』という本を分析し、「食の簡易化」によって「本来の家庭料理のあり方がいまやどんどん失われている」というナラティブが、そこに強く作動していることを指摘しています。
「本来の家庭料理」なるものがどこかに存在しているはずだという一般的な発想を自明視した上で、そこからの「堕落」が丹念に描かれる。
と、久保さんは指摘するのですが、これはかなり一般的な物言いですよね。「食生活の乱れ・崩壊」を指摘する言説には、必ず、どこかに「ちゃんとした食生活」が想定されていて、わたしみたいな乱脈な食生活を送っているようなのは、そこからの「堕落」であるとみなさられるということです。
──一般的な発想としてはそうですよね。
けれども、そう考えている限り、最初に提示された「手作りの重視」と「簡易化」が、なぜ、どう同居しているのか、という矛盾の答えにはたどりつかないと久保さんは言います。
──ふむ。
そこで久保さんが指摘するのは、そもそも「手作り重視」という価値観を可能にしたのが「食の簡易化」だったということなんです。
──どういうことでしょう?
毎日毎日、新しい料理にトライして家庭の食卓に「手作り料理」を乗せ続ける高度経済成長期の女性の姿を、生活史研究家の阿古真理さんの『うちのご飯の60年:祖母・母・娘の食卓』という本から抜き出した上で、久保さんは以下のように分析しています。ちなみに、文中に登場する「秀子」は著者の阿古さんのお母さまで、「立ち流し式のキッチン、冷蔵庫や冷凍庫、ガスコンロや換気扇に囲まれ、当時全盛期を迎えた主婦向け雑誌や料理番組(『主婦の友』や『きょうの料理』)を参考にしながら」、毎日料理に勤しむ高度経済成長期の「母親」です。
秀子の多彩な「手作り」料理を支えていたのもまた、「食の簡易化」を進めてきた諸関係の変化に他ならない。祖母世代が自分の畑で食材を育て、味噌やコンニャクを自作し、薪で火をおこすところから「手作り」していたのに対して、秀子が扱うのはスーパーで購入した食材であり、その調理もまた、スーパーで購入できる食材を前提にして構成された料理レシピ、すぐに着火するガスコンロ、高火力での炒め物や揚げ物を可能にした換気扇、馴染みのない洋食や中華の味付けを簡単にしてくれる化学調味料によって簡易化されている。意外に思われるかもしれないが、江上トミや土井勝といった有名な料理研究家がこの当時に著したレシピの多くに化学調味料やその商品名が記載されている(ただし、その表記は80年代以降に彼女たちのレシピ本が復刻されるにつれて次第に消去されていく)。
最新の調理機器、標準化された多様なレシピ、次々と発売される加工食品、それらを自分一人が掌握する台所に結集させ、組織化し、創意工夫しながら活用していくことで、秀子の多彩な「手作り」料理は可能になる。
──なるほど。面白いです。
こうした状況を、久保さんはこうまとめています。
家庭料理の標準化と簡易化が推進されるなかで、その対極にある(と同時にそれが可能にする)ものとしての「手作りの凝った料理」が理想化される。
「手抜き」ができるからこそ「手作り」が意味をもつ。
そして、こうした理想化のひとつの表現として、料理研究家の土井勝さんが「おふくろの味」ということばが広まり、そしてそれがやがて「家庭料理=愛情」といった等式が強化されるようになったと本は分析していくわけです。
──なあるほど。
本当はもっと精緻な分析なので、詳細はぜひ直接本にあたっていただけたらと思うのですが、今回のお題である「缶詰」というものを考える上で、久保さんが、戦後日本における家庭料理というものについて指摘されたこと、あるいは、その背後にあって「わたしたちは何を食べるべきなのか」を規定してきた栄養学の影響はおそらく見逃せないものだと思うんですね。というのも、つい先日、SNSでサバ缶を使った美味しそうな丼の写真を見かけたのですが、そうしたものを見るにつけ、「そこに『一手間』が加わってこそ料理」というナラティブはいまも生きている感じがするからです。
──あるいは、そこに「ひとり暮らし」という観点が加わることで、そこにさらに別のひねりというかコンテキストが加わっているといったこともありそうです。いずれにせよ、わたしたちは普段、自分の好きなものを好きなように食べていると思いがちですが、必ずしもそうではないということはよくわかりました。
今回面白かったのは、先にみた日本栄養士学会会長の中村先生が「栄養学」というものが完結してしまったと指摘しておられるところでして、栄養というフレームだけで食というものを考えることの限界を、こんなふうに率直に認められています。
アポロ計画の際、NASAは排便の必要がない完全栄養食品を開発しました。3人の宇宙飛行士は、全ての栄養素が含まれた宇宙食によって命をつなぎ、無事に帰還した時には「アメリカ栄養学の勝利だ」と研究開発に携わった学者たちは賞賛されました。ところが、 その研究は結局、頓挫してしまう。なぜでしょう? 宇宙飛行士たちが、歯磨きのチューブのような食事ではストレスになって、日常の仕事ができないと訴えたからなのです。2、3 日、耐えることはできても、そんなものは食べ続けられなかったのでしょう。(中略)
完全な栄養を摂っても、それによって人が幸福感を得ることができず、食べることが私たちに幸せをもたらしているのは間違いないとすれば、美味しいものを 楽しく食べるとどうして幸せになるのか、どのような食べ方がいっそうの幸福をもたらすのか。これも、栄養学が今後考えていくべきテーマとなるでしょう。
──なるほど。とはいえ、食と幸福というものを、これまでのように要素還元的に分析していって、「これが幸福な食事の食べ方です」みたいなことを厚生労働省あたりに言われたりするのも、なんだか癪な話ですし、それが定式化されたら、また「幸福な食」を簡易化することに拍車がかかることにもなりそうですよね。
たしかに、結局際限のないイタチごっこを繰り返すことになりそうですよね。そういうこともあって、なんだか、自分の食生活について考えたりすることが徒労のように感じてしまうんですね。どこまで行っても堂々めぐりと言いますか。
──本当ですね。
おそらくは、「これが正しい食のあり方」なんていうものは、ないんじゃないかという気もするんですよね。社会を反映しながら、そのあり方がただどんどん変化しているだけで、そこに「進歩」や「勝利」を想定するものでもないのかもしれませんよね。「1日3食」という現状の当たり前ですら、経緯はあっても根拠はなさそうで「3食は多すぎる」といった批判も昨今は強く提出されていますし、『The New York Times』の「残念、朝食には特別なことは何もなかった」(Sorry, There’s Nothing Magical About Breakfast)という2016年の記事は、「朝食が大事」という言説にも特段信憑性はなかったことを明かしています。
──いい加減なもんですね。
はい。その辺のことも調べていましたら、「1日3食は、陰謀だった! その歴史は西洋でも200年と浅い」なんていうブログを見つけました。こんなことが書かれています。
近年、「朝食抜き」の生活習慣を改めさせ、“朝食の大切さ”を訴えている論調も多く、農林水産省も朝食推進運動を展開しています。朝食の経済効果は1.5兆円にも上ります。つまり、「朝食抜き」が増えると、食品業界、薬品業界、医療業界が経済的にも大打撃を受けるわけです。1985年、厚生省が「一日30品目」を推奨する食生活指針を発表しましたが、これも政治的な背景があることはおわかりになるでしょう。当時、日米貿易摩擦の解消のために「プラザ合意」がなされ、円高が一気に進行し、米国の輸入食品が安く大量に出回るようになりますが、それを後押しするための政策だったわけです。その後、空前のバブル時代を迎え、日本は飽食の時代を迎えたのです。「1日30品目」は2000年に指針から削除されますが、未だにこの“信仰”は生きているようです。「栄養はバランス良く」 ここから栄養補助食品(サプリメント)などを普及させる素地となっています。勿論、これもサプリ大国の米国の思惑ですね。
──あはは。陰謀論。
でも、一概にそうとも言えないところもあると思うんですよね。1985年に厚生省が出した「一日30品」が、2000年にしれっと撤回されたのは本当だそうで、『ダイアモンド・オンライン』の「『1日30品目神話』は過去の話に、米国心臓協会が声明」はこう解説しています。
1985年、当時の厚生省が提唱した食生活指針に「1日30品目」というものがある。
ようは多品目をバランスよく食べましょう、ということなのだが、実は、この「30」という数字にはこれといった根拠はない。
結局、15年後の2000年には、指針から1日30品目という言葉が消え、「主食、主菜、副菜」を基本にバランスの良い食事を、という目標に変わった。
さらに今年8月、米国心臓協会(AHA)が、「多品目を食べることが、適正体重の維持につながるという“エビデンス”はない」という声明を出した。
──適当だなあ。って、しかもこれ、ごく最近、2018年の記事なんですね。つい最近まで神話は生きていた、と。
さるミュージシャンの方が、「だいたい人間ってのは、なんでも食べ過ぎなんだよ。動物は毎日決まったものしか食べないだろ」と仰っていたのを思い出しましたが、たしかになと思うんですよね。その方は、毎日同じお蕎麦屋さんに行って同じものを食べるみたいなことを仰っていて、多少の誇張はあるとは思うのですが、気持ちはよくわかるんです。自分も、決まった店で決まったメニューを食べるタイプでして、今日は違うものを試そうとか、ほとんど思わないんですよね。かたや、「あれやこれや食べたがるのが人間の欲望の本質だ」みたいな言い方もあると思うのですが、自分はどちからかというと、その意見には懐疑的ですね。
──なるほど。ちなみに今日の夕飯なんですか?
ウーバーイーツで、いつも頼んでるバーガー屋の、いつも頼んでるバーガーを頼みました。
──ちなみに、それ何食目ですか?
えーと、いま夜の9時40分ですが、これが一食目ですね。夕方にコンビニのサンドイッチ食べましたけど。
──うん。やっぱ、その生活やめた方がいいですよ(笑)。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。本連載の書籍化第2弾『週刊だえん問答第2集 はりぼて王国年代記』のお求めは全国書店のほか、Amazonでも。