Guides:#54 デジタル広告のオルタナティブ

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A Guide to Guides

週刊だえん問答

世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzの特集〈Field Guides〉から1つをピックアップし、編集者の若林恵さんが解題する週末のニュースレター「だえん問答」。今回は「サードパーティ・クッキー廃止」について。Quartzの原文(英語)と、原稿執筆の際に流していたプレイリストとあわせてお楽しみください。

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Image: ILLUSTRATION BY CHARLIE LE MAIGNAN

このニュースレターは、現在、期間限定で配信から24時間、ウェブ上で無料で閲覧できます。ニュースレター末尾のボタンからぜひシェアしてください。

──お元気ですか。

そうでもないですね。

──またですか。機嫌がいいときがほんとに少ないですね。

そんなこともないはずですが。

──だいたい機嫌悪いですよ。で、今日はどうされました?

6月1日から無料で配布する、行政府のDXに関する冊子の校了作業を、つい先日していたのですが、その最中にある知人がメッセージを送ってきまして。それが例の、デジタル庁のロゴの公募に関するものでした。

──荒木飛呂彦さんや鳥山明さんなどがリストにあがっていたヤツですね。

はい。ここに名前のあがった個別の方々にはなんの罪もないのですが、いやしくも行政府のDXを主導することを使命とする組織が、こういうバカげたことをやっているのかと、暗然としてしまいまして、すっかりやる気をなくしたわけです。

──気持ちはなんとなくわかりますが、具体的には、どの辺が、どんよりしたポイントになりますか?

雑な言い方をしますと、要はテレビ/広告的なんですよね。人気投票をやって、有名人をキャスティングして、認知度をあげようという魂胆が、悪い意味で広告代理店的と言いますか。しかも、そこに中央官庁に勤めている人間のセンスの欠如やポピュラリティをめぐるコンプレックスが垣間見える感じも最悪ですし、そのコンプレックスを広告代理店的発想によって埋め合わそうとする手つきもみっともないものにしか見えない、という感じでしょうか。

──厳しいですね。

あ、校了の現場では、もっと口汚く罵っていたのですが、一言で言いますと、ダサいんですよね。ちなみにこの情報を送ってきた知人は、「こういう一見派手な取り組みは議員も含め、官僚もやる気出すんですよ」とコメントしていますが、それが本当だとするなら、いまだにテレビに出て喜んじゃうようなセンスしかない、相当イタい集団が、国のDX推進を管轄していることになりますので、わりと普通に考えて、その人たちが、なにか本質的な変換・転換を、この国にもたらしうると期待するのは、それ自体が妄想に近い可能性があるような気がしますね。

──クソミソじゃないですか。もう一歩でヘイトスピーチになりますよ。

これでもだいぶセーブしていますが。

──とはいえ、ちょうど、こんなニュースもありました。「10~20代の約半数、ほぼテレビ見ず『衝撃的データ』」という朝日新聞のニュースで、「NHK放送文化研究所が20日に発表した国民生活時間調査で「テレビ離れ」が加速している実態が浮かび上がった」というタイトルのままの内容ですが、記事には「衝撃的なデータ。若年層にとってテレビは毎日見る『日常メディア』ではなくなってしまった」と、このリサーチを担当した研究員のことばが引かれていますが、面白かったのは、この記事を受けたソーシャルメディアの反応でして、「これを『衝撃的』と言っている方が衝撃」といったコメントが多く見られました。

日本は言うまでもなく高齢化社会で、国民的メディアとしてテレビに親しんだ世代がマジョリティを占めていますから、相変わらずテレビ的価値観が優勢を占めているのは実態としてはそうだろうと思いますが、それでも、おそらくそこに積極的な意味を見出している人は、もはやそこまで多くないような気がしますし、そもそもある時点から、テレビはハナから「くだらねえなあ」と言いながら見るものでしかなくなっていたものですよね。それでもなんとなく人がとりあえずテレビをつけ続けてきたのは、単にオルタナティブがなかったからにすぎないんじゃないんですかね。と、ひとまず言っておきますね。

──そういう人たちが「YouTube」というオルタナティブを発見して、そこから陰謀論のラビットホールへと落ちていったという事例も、わりと報道されるようにはなりました。

テレビの間の抜けたコンテンツ密度と比べたら、YouTubeは個人チャンネルであればあるほどインテンスで、いい意味でも悪い意味でも毒性は強いものですからね。テレビのコンテンツを浴び続けて、コンテンツへの耐性が極度に下がってしまった人たちには、より強く作用するのは当然と言えますが、そういうものが世の中において大きな位置を占めるようになってから、いったいどれほどの年数が経っているのかを考えたら、いくらなんでも適応が遅すぎるだろうと思うところもなくはありません。

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──インターネットが登場して、もう30年近くなるわけですからね。

ちょうど今日、知人とランチをしながら、ニルヴァーナのカート・コベインの話をしていたのですが、ニルヴァーナの『Nevermind』というアルバムがリリースされたのが、ちょうどいまから30年前なんですね。

──あ、そうですか。

そうなんです。で、なんの話をしていたかと言いますと、90年代ってどういう時代だったんだっけ?という話をしていたんです。

──はあ。

これはちょっとだいぶ遠回りな話になってしまうのですが、まずわたし自身は90年代の音楽が本当に心底嫌いだったんです。

──そうなんですね。

というのも、自分の場合、音楽を盛んに聴き始めた中高生の時代が80年代だったものですから、80年代の音楽が好きすぎて、端的に言いますとまったく乗り切れなかったんです。個人的には、そこには非常に大きな断層があったと感じていまして、さっきたまたま、そのことばを使いましたが「オルタナティブ」ということばがメインストリームに躍り出てきたのが、まさにニルヴァーナを筆頭とするグランジミュージックの台頭とセットだったという感覚があります。

──そうなんですね。

この「オルタナティブ」ということばに込められたのは、単にそれまでの音楽のあり方の否定ではなく、「まったく違うあり方がある」という表明だったと思うんですね。

──ふむ。

チャック・クロスターマンというわたしが個人的に非常に尊敬している音楽ジャーナリスト/クリティックがいまして、この人が「カート・コベインのライバルは誰だったのか」という議論をしています。一般にそれは、パール・ジャムのエディ・ヴェッダーだと言われたりするのですが、彼は、それは違うと語っています。

──とすると、誰なんですか?

それは「アクセル・ローズだ」と言うんですね。

──ガンズ・アンド・ローゼズの。

はい。クロスターマンは、ニルヴァーナの『Nevermind』と、ガンズの『Use Your Illusion』が実は発売日が1週違いだったことを指摘していまして、実際ガンズが1991年9月16日、ニルヴァーナが1991年9月24日なんです。で、初週の売り上げは、桁違いにガンズの方が多かったことを明かしているのですが、ここは、時代の大きな転換点として記憶されるもので、この瞬間においてガンズのアクセル・ローズとカート・コベインは、コインの裏表をなしているとクロスターマンは書いています。

──面白いですね。

そうやって見ると、ガンズ・アンド・ローゼズというのは、「ロック」というものが体現してきたバッドボーイ的世界観の最後の打ち上げ花火というか総括のようなもので、一方のカート・コベインは、それをある意味葬り去る存在として、その裏に張り付いていたという図式になるんですね。

──ふむ。

わたし個人の体験で言いますと、当時やっぱりカート・コベインがほんとうにわからなかったんです。そのわからない感覚、あるいは当時は明確に嫌悪があったのですが、その嫌悪というのがいったい何に起因していたのかをいま改めて思い起こしてみると、その「生っぽさ」にあったような気がするんです。

──生っぽさ。

ほら、カーディガンとか着て出てくるあの感じですね。

──ああ、なるほど。

それを「生っぽい」と感じたというのはどういうことかと言いますと、それまで聴いていたものが逆に、いかにアーティフィシャルな、人工的なものであったかということだと思うのですが、80年代のメインストリームの音楽とMTVに代表される音楽文化は、ひたすら「つくりもの感」があったわけですね。いわばちゃんと漂白されたもので、どんなにぶっ飛んだものに見えても、リスナーはちゃんと安全圏にいられるような、そういう「プロダクト」としてあったわけです。

──それはなんとなくわかります。ちゃんと「エンタメ」の領分に収まっていたという感じですよね。

もちろん、そこからはみ出していく「リアル」なものは、いつの時代もありましたし、80年代においてもそうしたものはあったわけですが、まだ音楽を聴きはじめたばかりの中学生には、そこまで踏み込むことができずにいましたし、お子さまとしては、それくらいの距離感からロックなりが体現していた「ヒリヒリ感」を、ほどよい安全な距離から体感するのはちょうどよかったんですよね。

──ロックの神話世界を、ある種のファンタジーとして楽しむ感じですよね。

まさにそんな感じです。ところが、そこにいきなり「ティーンのリアリティ」みたいなものが、ニルヴァーナといったバンドが挿しこんでくるわけですから、それ自体が正直興醒めというか、「いや、そういうのいらんよ」という感じがあったんですね。それは、おそらくヒップホップが台頭してきたときも同じで、こちらはある意味「漂白された」ブラックミュージックを聴いて楽しく過ごしていたところに、いきなり「ストリートのリアリティ」みたいなものが挿しこまれてきますと、「うっ」ってなるわけですね。

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──なるほど。

というわけでわたしは本当に90年代という時代にまったく乗れず、その当時はジャズやワールドミュージックといった方面に逃避していたのですが、この時代に起きた「オルタナティブなもの」の台頭というのは、インターネットの登場も含めて、やはり大きな断層だったと改めて思うんです。

──そうですか。

以上のような経緯で自分は、ほとんどカート・コベインという人に興味をもつことなく過ごしたんですが、数年前に、Mediumに掲載されたあるエッセイを読んで、「あれ? これどういうことだ?」と思ったことがあるんです。2016年にポストされた「ニルヴァーナとパール・ジャムがフェミニズムのために立ち上がったとき」(When Nirvana and Pearl Jam Stood Up for Feminism)という記事なのですが、ここで書かれていることはかなり重要なんです。

──へえ。

ここで語られるのは、カート・コベインとエディ・ヴェッダーが、その登場以前に全盛を極めたヘアメタルを葬り去ったことは知られているものの、ただ単に何かに対してアンチを表明しただけでなく、実はかなり明確に「オルタナティブな価値観」を表明していた、ということで、その主題のひとつがフェミニズムだったということなんです。

──そうなんですね。

記事は、2014年にニルヴァーナがロックの殿堂入りをした際の記念パフォーマンスに言及することから始めています。ここでカート・コベインの代わりに4人がボーカルを取ったのですが、その4人はすべて女性だったんですね。ジョーン・ジェット、キム・ゴードン、セイント・ヴィンセント、ロードがその任を務めたのですが、女性にカートのポジションを務めてもらうというアイデアを、メンバーのクリスト・ノヴォセリックは、「バンドが何と戦っていたかに敬意を払うのにふさわしい」もので「バンドの精神を呼び起こさせる」とブログに記したとされています。もちろんデイヴ・グロールも、大賛成だったそうです。

──アツいですね。知らなかったです。

そこから記事は、ニルヴァーナが、ライオット・ガール・ムーブメントの代表格であるビキニ・キルのメンバーと非常に近い関係性があり、カートはビキニ・キルのドラマーとパートナーだった時期もあり、かつ、かの有名曲「Smells like teen spirit」のタイトルはビキニ・キルのキャスリーン・ハンナがつけたものだそうなんです。

──へえ。

そうした影響関係のなかからカートがよく女装をしていたことなどが語られ、かつ、「Been a Son」「Sappy」がジェンダーロールについて、「Polly」「Rape Me」がレイプの問題について歌ったものであること、あるいは、カートがアクセル・ローズの歌詞におけるホモフォビアとセクシズムを強烈に批判したことなどが明かされています。

──なるほど。

カート・コベインが、自分が有名人であることを心底嫌っていたことは知られていますが、記事は、単に有名であることを嫌っていたのではないと分析していまして、むしろカートは、有名になったことで、自分たちの価値観と相入れない「asshole」が、ファンになっていることを嫌ったのだと語っています。カートは1992年の『Spin』誌のインタビューでこう語ったそうです。

「オーディエンスのなかにいる反同性愛主義者、セクシスト、レイシストたちと縁を切りたいと思っている。いるのはわかっているんだ。本当にイヤなんだ」

で、実際、彼はそうした人たちに、自分たちのことをほっといてくれというメッセージを発しています。これはコンピレーションアルバム『Insecticides』にカート本人が寄せた文章です。

「ファンのみんなにお願いがある。ホモセクシャルや肌の色が違う人間や女性が、どんな程度であれ嫌いだという人がいるなら、このお願いを聴いて欲しい。俺らのことはほっといてくれ! ライブに来ないでくれ。レコードも買わないでくれ。ふたりの生まれ損ないが、『Polly』の歌詞を歌いながら女の子をレイプするということが昨年起きた。オーディエンスのなかにそうしたヤツらがいることを知りながらバンドを続けていくことはとても困難だ」

──いまですら滅多に見ることのないような、激越なメッセージですね。

ここではパール・ジャムの話は割愛させてもらいましたが、記事は、これほどの有名な男性バンドが、これだけ率直にフェミニズムとの連帯を明らかにした例は、その後もほかにないと語っていまして、かつ、それがいまだに、バンドのレガシーにおけるちょっとした脚注でしかないことに疑義を呈しています。

──ほんとですね。さらに言えば、カート・コベインが何に絶望をし、何が彼を自死にまで追い込んだのかを改めて考えさせられもしますね。

カート・コベインがテーマにした問題は、いまでこそようやく社会の前景に置かれるようになりましたし、いまであれば、バンドのメッセージも喝采を浴びるのかもしれませんが、考えさせられてしまうのは、それがメッセージとして提出されてから、実に30年近く経ってようやく、カート・コベインがいたスタート地点に戻ったとしか感じられないことで、そう考えると、この30年近い時間はいったいなんだったのか、ということです。

──その時間の間に、むしろ時代は退行していたようにすら感じてしまいます。

そうなんです。数年前のSXSWで「カントリー音楽における女性」というパネルセッションを聴いたことがあるのですが、そこで問題にされていたのは、実際それだったんです。つまり、90年代のほうがはるかにカントリー・チャートには女性シンガーが多かったのが、この20年強の間にそれが徐々に減っていき、同時にカントリーにおける女性のステレオタイプがどんどん強化されていったということが語られていまして、たしかにそうかも、と思ったんです。

──何が原因なんですかね。

そこでは言及されはしませんでしたが、個人的には「9.11」が大きかったのではないかと思うのですが、そのセッションでハッとさせられたのは、いままさにおっしゃったように、この20年で起きていたのは、まさに「退行」とでも呼べるような現象で、しかも、大方は、それが退行であると認識することもなく、それが音もなく起きていたかもしれないことです。

──怖いですね。

そうなんです。怖いんですよね。日本で言えば平成の30年を、そのスタート地点に戻しただけの30年ということにもなるわけですし、その間にいったい何を得たのかと考えると、考えれば考えるほど何もない、という感じもしてきてしまうんですね。

──そう言われると、なんだか不機嫌にもならざるをえないですね。

というのは、別に人を批判するわけでなく、自分ごととしても、よほどぼんやりしてたんだと、反省というか、腹立たしさすら感じるわけですが、実は今回の〈Field Guides〉のお題も話としては、同じ構造のなかにあるんですね。

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The end of third-party cookies

デジタル広告のオルタナティブ

──そうですか。今回は「サードパーティクッキーの死」(The end of third-party cookies)というお題ですが。

今回の特集は、話としましては、この30年弱の間、ウェブ上のユーザーの行動を追跡することを可能にし、デジタル空間を広告空間としてつくりかえ、結果としてグーグルとフェイスブックというテックジャイアントを肥大化させるにいたった「サードパーティ・クッキー」というものが、ついに締め出されるという事態を受けたものです。これによって、デジタル広告の世界は激甚な転換に見舞われることを予測していますが、今回の特集に収録されたふたつの記事のうちのひとつは、「クッキー」そのものを発明したとされる人物のインタビューでして、これは面白いものになっています。

──「デジタルクッキーの発明者のいくつかの後悔」(The inventor of the digital cookie has some regrets)という記事ですね。

出だしはこんな感じです。

「ルー・モンタリが1994年にクッキーを発明したとき、彼は23歳で、インターネット初期における人気ブラウザを生み出した『Netscape』のエンジニアだった。当時、彼は初期のウェブサイトが抱える大きな問題の解決に取り組んでいた。ウェブサイトは記憶力が悪すぎたのだ。ユーザーが新たなページをロードするたびに、ウェブサイトは初めて訪ねてきた見知らぬ他人のようにユーザーを扱うのだ。この問題がある限り、わたしたちは、例えばEコマースサイトを動き回りながらもカートのなかには、ずっとちゃんとそこに入れたものが保存されるといった、当たり前のベーシックな機能をつくりあげることはできなかった。

モンタリはこれを解決するためにいくつもの解決策を用意していたと、のちにブログに書いている。最もシンプルな解決策はユーザーにID番号を与えるというものだったが、モンタリとNetscapeのチームは第三者が人の行動を閲覧できてしまう可能性を考慮して不採用とした。代わりに彼らはクッキーを使うことにした。ユーザーのコンピューターとウェブサイトの間でやり取りされる、この短いテキストファイルによって、ウェブサイトは来訪者を記憶することができ、一方ユーザーは追跡されることがないはずだった。

しかし、2年ものうちに、広告主たちはクッキーをハックすることで、まさにモンタリたちが阻止しようとしていたことを可能にした。つまり人をインターネット中追い回すということだ。それが、わたしたちがいま目にしているクッキー・ベースの追跡広告システムへの道を開いた。27年後、モンタリは、自分の発明の使われ方について不安について語ると同時に、それに変わるオルタナティブが果たしてそれよりもマシなのかどうか疑念も抱いている」

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──面白そうな出だしですね。

基本的なバックグラウンドをお話しておきますと、EUでのGDPRの施行以降、個人データ保護をめぐる規制が強まったことで、ブラウザの運営者や広告主ではない「第三者」がクッキーを取得してユーザーを追い回すアドビジネスへの締め付けが厳しくなり、Firefoxなどがまずサードパーティ・クッキーを禁止し、それに追随するかたちでSafari、そして最終的にGoogle Chromeがその流れに乗ったことで、全体の潮流として全面的に禁止になりつつあります。これによって、追跡広告でビジネスをしていたデジタル広告企業は、かなりの苦境に立たされることとなります。といってデジタル広告が完全になくなるかというともちろんそんなことはなく、グーグルは「FLoC」(Federated Learning of Cohorts)なる新たな追跡機能をすでにヨーロッパ以外で実験中ですし、かつてあった統一IDを復活させる動きも出てきています。一方、広告が収益の重要な柱であるメディア企業は、自社サイトにやってきたユーザーの「ファーストパーティ・クッキー」のみを用いて広告を運用するための新たな戦略を立て始めています。IDについてはローカルメディアを束ねるコンソーシアムが導入を検討していますし、ファーストパーティ・クッキーについてはVICEの戦略の概要が『DIGIDAY』の「プロセスを再設計する:VICEはサードパーティ・クッキー後の世界にどう備えているか」(‘Re-architecting the entire process’: How Vice is preparing for life after the third-party cookie)という記事でレポートされています。

──なるほど。

で、先のモンタリさんのインタビューなのですが、まず彼は、ネットスケープを含めた初期のインターネット企業は、極めてプライバシーに敏感だったと語っています。というのも、当時構想されていた「自由なインターネット」はユーザーの主権性というものを非常に重く考えていたからです。ところが、数年もすると、その理念を広告というものが侵食し始めることが起き、ネットスケープ社内でも問題となり、当時ブラウザ市場を牛耳っていたマイクロソフトを相手に戦ったりもしていたと語っています。そうしたなかモンタリは、クッキーについては3つの選択肢があった、と回想しています。

「第一の選択肢は『何もしない』でした。何もなかったフリをして、広告主たちに好きにサードパーティ・クッキーを使わせるがままにしておくということです。第二の選択肢はサードパーティ・クッキーを完全にブロックすることです。そして第三は、より精緻なソリューションを考案し、クッキーのコントロールをユーザーに戻すということです。わたしたちが選び取ったのは第三の選択肢でした」

──その時点で、禁止することもできたわけですね。

それをしなかったのは、当時のウェブサイトには広告しか収益源がしかなかったことからだとモンタリさんは語っているのですが、記者は、「いま、その判断は正しかったと思いますか?」とやや意地悪な質問を投げかけています。

──答えが気になります。

その質問に対するモンタリさんの答えは、非常に優れたもので、それは「広告」というものをどう見るかによって変わると言います。

──ほお。

「広告というものと引き換えに無料でコンテンツにアクセスができることを、社会的意義のある理にかなったものだと考え、そしてそのとき広告がトラッキングという方法に依存せざるをえないのであれば、クッキーを用いた追跡は、意義あるものと言うことができるはずです」

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──なるほど。

「一方で、別の見方もありまして、これは最近になって思うようになったことです。最近思うのは、ウェブがその収益源として広告に依存してきたことは、社会にとって極めて有毒であったということです。広告はユーザー体験を倒錯させます。それはクオリティではなく、インタラクションの増大を優先化させます。そうしたインタラクション優先のビジネスモデルは人を非理性的な行動に走らせ、公共の善を損なわせます。わたしたちは広告モデルから身を引き、オンライン体験に正気を取り戻す必要があります。ウェブがこうなってしまったことの責任の一端はわたしにありますが、歳を取ったいま昔を振り返ると、ウェブが量ではなく質を価値化できるよう、マイクロペイメントやサブスクリプション型コンテンツの開発にもっと時間を割いていたなら、もう少しはマシな世界になっていたのかもしれないと感じずにはいられません」

──悲痛な告白ですね。

はい。この告白を受けて、サードパーティ・クッキーの消滅以降提案されているソリューションについては、こんな見解を述べています。

「FLoC:これはユーザーのプリファレンスを、トラッキングという手法を用いずに特定する新しいやり方で、技術的には非常に興味深いものですが、どういう仕組みなのかがわかりにくいものですから、ユーザーにとっては最初は相当気味の悪いものと受け止められるのではないかと思います。

統一ID 2.0:これは基本的にはクッキーと同じことですから、ほとんどのユーザーが使わないと思います。

ファーストパーティ・データ:トップ100のウェブサイトにとっては有用でしょうが、小規模ウェブサイトには役に立たないでしょう。トラフィックが少ないサイトでデータを取ったところで、広告サービスには役に立ちませんよね」

──なるほど。この感じですと、どうもグーグルの「FLoC」の一人勝ちになる感じしかしませんね。

そうなんですね。そう考えると、先にモンタリさんが語ったことは、やはり重要な意味をもつんですね。

──つまり、「別の広告のやり方」を考えるのではなく、「広告ではないやり方」を考えるということですよね。

はい。ニルヴァーナの話に戻ると、「オルタナティブ」とは何かということなんですよね。広告というもののなかで選択肢を考えるのではなく、広告の外に、別のやり方を探るということでして、カート・コベインのオルタナティブ性は、ロックというものを成立させてきた、すごく大きな枠の外に身を置いたことにあると思うんです。

──と言いますと。

先に引用したことばのなかで、いまも刺さるのは、敢然と「ライブに来ないでくれ。レコードも買わないでくれ」と語ったところなんです。つまり「チケットやレコードを買ってくれる客なら誰でもいい」という考えを取らなかったことです。それは、いくら反体制を謳い、反社会的な身振りをしようと、ロックミュージックが巨大ビジネスである以上は、決して超えることのできない一線だったはずなんです。でも、彼は、数を取れさえすれば質は問わないというビジネスのあり方を真っ向から否定したんですね。

──オルタナティブ、ですね。

それは、コーポレートの原理に守られた「エンタメ」のプロトコルを否定しつつ、その人工空間に生身の人間として入っていった行為とも言えるもので、その後ソーシャルメディアが浸透していくことで、ミュージシャンが剥き身の人間として社会や世間と向き合わならなくてはならなくなった状況の先駆けだったと言えるのかもしれません。

──カート・コベインの自殺は、近年に起きたミュージシャンや俳優の自殺につながっている、と。

というふうに見るのであれば、世の中はこの30年どこにも行かなかったということになりませんか。

──30年を経て、振り出しに戻っただけという。

悲しくなってきませんか。

若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。原稿執筆時のBGMをプレイリストで公開しています。


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