A Guide to Guides
週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzが取り上げている「世界の論点」を1つピックアップし解題する週末ニュースレター。Quartz Japanのニュースレター最長の力作につき、1通には収まりきらなかったため、上・下2通に分けて、1分違いでお届けしています。
このニュースレターは、1分違いでお送りしている「Guides:#64 シモン・バイルズの拒絶・上」の続きです。
──ここまでの話を前提とした上で、先の「出場辞退」をどう見るか、ということになるわけですね。
はい。先ほどもお話ししたように、カーロイ夫妻の「牧場」が閉鎖され、その独裁に終止符が打たれたからといって、その独裁そのものを放置してきた全米体操連盟や全米オリパラ委員会は免罪されてはません。「ぼったくり男爵」の命名者で喧嘩巧者の『The Washington Post』のサリー・ジェンキンズ記者は、すっかりお馴染みとなった激越さで、こう論じています。これは、バイルズ選手が辞退を明かした直後の29日に公開された「バイルズはアメリカのオリンピックの役人たちに見捨てられ、拷問はまだ続いている」(Simone Biles was abandoned by American Olympic officials, and the torment hasn’t stopped)と題されたものです。
「メンタルヘルス」ということばの問題は、シモン・バイルズの身に起きたこと、そしていまなお起きていることをすっ飛ばすことを許してしまうところにある。今日にいたるまで、全米オリンピック委員会の役人たちは彼女を裏切り続けている。彼らは、いまなお、自分たちが彼女やその他の選手をレイピストで幼児ポルノグラファーのラリー・ナサールから守る法的義務を負っていることを否定し続けているだけでなく法廷においても責任から逃れようと画策を続けている。彼女にとって虐待は現在進行中の事件だ。
全米体操連盟や全米オリパラ委員会の不祥事が過去形になったものと思ったら大間違いだ。2020年から21年にかけて、全米オリパラ委員会と全米体操連盟は隠蔽工作を継続しておこなっている。破産手続きの申請の影に隠れて責任逃れを行っている。彼らは、和解を通して、全米体操連盟の元会長のスティーブ・ペニーを筆頭とするその他の虐待者を保護しようとしている。さらに彼らはペニーやオリンピックコミッティーのスコット・ブラックマン、前会長のラリー・プロストの存在を封印したと言いながら、法廷での証言を妨害している。封印ってなんなんだ。
これらの組織が新たなページをめくって「アスリート中心」に生まれ変わったかとでもいうのだろうか。出場辞退を受けて、バイルズの決断を支持する、なんて見えすいた嘘をよくも言えたものだ。彼らは彼女の支持者でも何でもない。虐待者だ。
数多くの金メダルを得ることの代償として彼女が何を支払ったのかは、世界中の素人心理学者の格好の材料だろう。驚くなかれ。彼女は調子を崩している。というか、むしろこの状況下で、どれだけ好調でいられるとみんな思っていたのかをむしろ問いたい。「心に入り込んでくるあらゆる悪魔と戦っているようだ」。彼女は団体戦の後にそう語った。
彼女が競技に参加し続けるべきかを迷っているなか、その頭のなかを探って悪魔がどんな姿かたちなのかを他人が勝手に思い描くのは、アンフェアであるだけでなく、それ自体が欺瞞である。加えて何よりも、彼女が、ナサール事件を軽々と飛び越えて、表彰台に返り咲くことを期待することも、同じようにアンフェアである。
──なるほど。こうした事件のあとのオリンピックで、バイルズ選手が首尾よく演技を終えて、表彰台に立ち、そのことを喜ぶこと自体が欺瞞的である、とジェンキンズ記者は指摘しているわけですよね。
はい。バイルズ選手の辞退が、彼女の演技のようにダイナミックなツイストを見せるのは、この点において何ですね。事件をなんとしてでも終わったことにしたい連盟や委員会側からすると、彼女がメダルを取って、アメリカ中も熱狂して、何となくハッピーな感じで終わるのは、おそらく望ましいシナリオであったはずです。けれども、彼女の立場からすると、そうした心理的な重圧のなかでゲームを継続し、そのなかで勝つことは、結局のところ、彼女が打倒したはずの前時代的な理念に屈することにもなるんですね。
──それこそ、彼女の出場辞退について、足首を負傷していたにもかかわらず1996年の五輪で金メダルを獲得したケリ・ストラグ選手が引き合いに出され「バイルズは軟弱だ」と非難する声もありました。
そうなんです。彼女がそのキャリアのなかでずっと戦ってきたのは、まさにそれなんですね。つまり「どこかが痛かろうが、病気であろうが、怪我をしてようがお構いなし」という価値観そのものを彼女は打倒したはずだったわけです。であればこそ、不調だった彼女が、この東京五輪において、不調をおしてでもゲームに出場するか、もしくはそこから身を引くか、は大袈裟に言えば、時代を前に進めるのか、それとも過去へと押し戻すのかの重大な分岐でもあったわけです。
──そして彼女は、辞退を選ぶことで、時代を前に進めた、と。
はい。
──であるがゆえに、それは「彼女のキャリアにおける最も重要な達成だった」とされるわけですね。
彼女をそう称えたのは、アメリカのアントレプレナーでライターのケイシー・ジェラードで、彼は『The Guardian』に寄せた文章でこう書いています。
彼女の数ある達成のなかで、東京でメダルを得る可能性を自ら手放したことは、彼女の最大の達成だと思う。史上最高の体操選手とされるバイルズは、世界で最も大きな舞台で、これまでよりもさらに大きなことを達成した。それは、有名無名を問わず、国家が差し出す成功を前にして、それを拒否するという選択がありうるという希望を、ブラックアメリカンの次世代に向けて与えたのだ。
──なるほど。辞退ではなく、ジェラードさんは、それをさらに積極的に「拒絶」と見たんですね。
この連載でも以前触れましたが、68年のメキシコ五輪のカーロスとスミスの「黒い拳」以来、オリンピックにおけるプロテストは、競技のなかに身を置いて、そのなかでメッセージを発し、イベントのなかにおいて、イベントを「内破」する戦略を取ってきたと言えますが、ジェラードは、バイルズの取った道は、それを更新するものだと論じています。
幾多の重みを背負ったバイルズは辞退したのではない。彼女は拒絶したのだ。その勇敢な決断をもって彼女は、わたしが「逃亡というブラックアート」と呼ぶところの、美しく、ラジカルでいて、忘れられた伝統へと足を踏み入れた。その伝統は、黒人を破壊することで成り立っている国において、黒人たちが生き抜くことを可能にしてきたものだ。わたしたちは、これまで抵抗とプロテストの戦略について多く教えられてきた。オリンピックにおける模範例はもちろん、トミー・スミスとジョン・カーロスが黒い手袋をして、メキシコ五輪の表彰台で行った「黒い敬礼」だ。あるいはわたしたちは、特別であることによって尊敬を得るという戦略についても聞かされてきた。それは陸上競技で4つのメダルを獲得した初のアメリカ人選手、ジェシー・オーウェンスが体現したものだ。彼はその偉業をヒトラーが見下ろすなか達成した。
バイルズの決断は、これらとは異なる第3のサバイバル戦略へと連なっている。それは「逃亡」だ。
ディアスポラの間では、逃亡したアフリカ人の物語は、奴隷となった人びとに希望を授けてきた。主人や国が奴隷である自分たちを、どのように扱おうとも、心のうちには自由があり、その自由は誰かに与えられてものではなく、誰かによって奪われもしないという希望をだ。そのフォークロアの伝統はトニ・モリソンの小説『ソロモンの歌』のインスピレーションとなっている。小説のなかでギターはミルクマンに語る。「飛びたければ、自分を押さえ付けてるクソみたいなものを捨てるしかない」
──ひとつの決断が壮大な物語へとつながっているんですね。
もっともバイルズ選手の「拒絶」がもたらしたインパクトは、黒人選手にだけ及ぶものではありません。元体操選手のケイトリン・オオハシ選手は、『TIME』に、「若い体操選手たちは自分の体は自分のものではないと教わる:シモン・バイルズはそれを拒絶した」(Young Gymnasts Are Taught That Their Bodies Are Not Their Own. Simone Biles Refused to Accept That)というとても感動的な文章を寄せています。
どんなスポーツにも虐待があります。とりわけエリートクラスにおいてそれは顕著です。しかし、体操競技においてそれが暴露されたことは極めて重要です。わたしたちはあまりに若く競技生活に入り、自分の体を自分のものでなくさせられます。多くの選手が受けた身体的、もしくは性的な虐待のことだけではありません。あらゆる瞬間においてギリギリまで体を追い込むことを要求され、危険に身を晒し続けます。成長と性徴を止めるべく、摂食障害が歓迎されます。着る物だって見てください。尻に食い込み、性器が見えてしまいかねないレオタードを身につけることを強要されています。今大会でドイツの選手団は足首まで覆ったスーツを身につけていますが、そんなことすら論議の的となっています。時間は進んでいるのに、体操界のイデオロギーは旧弊なままです。
シモンの決断は、自分のすべてを他人のために捧げてきたアスリートが、自分自身のために声をあげた瞬間として、スポーツの歴史を貫いて響き続けるでしょう。スポーツ界のシステムは、自分の体が自分のものではないと思わせること、あなたはあなたのものではない、と教えることで成り立ってきました。わたしたちがいま目撃しているのは、アスリートが自らの主権を奪還するという宣言であり、勝利の意味の再定義を促す宣言でもあります。
──主権性の奪還、回復。素晴らしいですね。
それを象徴するフレーズが、記事にあります。
それは彼女の体であり、彼女の心であり、彼女の旅であり、彼女のスポーツなのです。
──日本では、アメリカで起きたような大規模な性的虐待は、いまのところ知られてはいませんが、だからと言って、バイルズ選手が提起したことは対岸の火事かといえば全くそんなことはありませんよね。
競技は違えど、例えば身につけるウェアについてバレーボールの大山加奈さんが語っていたことなどを読むにつけ、問題系はまったく同じと見ていいと思いますし、そうした性的な問題を抜きにしたとしても、スポーツ選手が「自分のすべてを他人のために捧げてきた」という構図は、今回のオリンピックで最も鮮明に明らかになったことでもありますよね。
──すべての努力が、バッハやガースーや汐留の某企業のためでしかなかったのかい、と。
冒頭の話に戻りますと、最近では日本でも、先の大山さんや冒頭の平尾さんのように引退された選手が、システムそのものの問題を強く批判することが目に見えて増えてはきましたが、一番大きな問題は、結局のところ自分のキャリアと引き換えに沈黙と服従を強いられているのは現役選手だということです。引退してキャリアを盾に取られるリスクがなくなった引退選手が、いくら外からことばを投げかけても、外野の声として黙殺されてしまいかねないところが問題で、バイルズ選手が現役選手としてチームに残り続けるのは、彼女がもはやナサールの毒牙にかかった最後の現役選手だからでもあるんですね。
──ああ、そうなのか。
はい。彼女は、ですから単に競技面でチームを引っ張っているだけでなく、現役選手にとっての庇護者でもあって、『The New York Times』の「シモン・バイルズは金メダルを取らずとも勝者である」(Simone Biles Doesn’t Need a Gold Medal to Win)という記事は、彼女が東京五輪の代表に選ばれた20歳のジョーダン・チャイルズのメンターを務めていることを明かし、後継者を育てている姿に、「バイルズのレガシーはむしろいまから始まる」との感慨を語っています。
体操選手として長いこと負け犬であったチャイルズは、2019年にバイルズの両親が経営するジムに加わり、バイルズとともに練習するようになった。ジムではチャイルズの技術を磨くことよりも、彼女の自信を積み上げることに重きが置かれた。「以前のわたしは、本当に気が狂ったこの競技にうんざりしていました。わたしはここにいるべきでないと感じていたんです」と、チャイルズは明かす。「けれどもシモンのように『ここにいていいんだよ』『ここがあなたの居場所だよ』と伝えてくれる人がいると、まったくく心もちが変わってくるんです」
6月の全米チャンピオンシップで鉄棒の演技を終えると、バイルズはすぐさま自信を失って泣き出したチャイルズの元に駆け寄った。3位を獲得し表彰台に上ったチャイルズのキャリアは、そこで大きく変わった。
「あなたはここにいるのに相応しい。こんなに一生懸命やってきたじゃない、と彼女に伝えたんです」とバイルズは語る。「一緒に前に進むの。これまでそうしてきたように、五輪の選考会でもね」
6月27日の選考会でバイルズとチャイルズはともに東京行きのチームに選ばれた。
バイルズはすでに、さらに若い体操選手を育て始めている。とりわけ有色人種の選手をだ。全国大会では彼女は、同じジムに通う15歳のゾー・ミラー選手の面倒を見ていた。バイルズは、ミラーが困難に直面したティーンエイジの女の子が見せる虚ろな表情のミラーの髪に白いバンドを結いていた。
「わたし自身が通ってきた道ですから、彼女に何が起きているのかはわかっていました」。バイルズは語る。「ですから、自信をもって、冷静になれるように、光を与えてあげることができるのであれば、それがわたしのすべきことです。わたしはベテランです。わたしはそこを通ってきたました」
──いやあ、なんか感動的ですね。
バイルズが出場を拒絶したことに対して、チームに対する責任のようなことを語る非難もありましたが、彼女は、出場しようがしまいが、すでに大きくチームに対する責任を果たしているんですね。むしろチームは彼女を選手として失ったことで、「彼女のために勝つ」という大義を授かったとも言えますので、団体戦で激しく巻き返して銀メダルを獲得したことは、むしろこれ以上にないものだったとも言えそうです。
──つまり、ほかの選手たちが、彼女のために戦うことで、結果として、バイルズの当初の参加の大義であった「サバイバーたちのため」の思いが、結果的にバイルズ自身ではなく、ほかのチームメンバーによって成し遂げられたとも言えるわけですね。
はい。バイルズ選手のレガシーはすでに彼女自身を離れ、すでに後続の選手に引き継がれているのだとすれば、それはすごいことですし、それは、実際のところ、東京オリンピックにおいて生まれた、大きなレガシーとみなしていいものだと思います。といって、東京五輪はなんらそこに貢献はしていませんが、これは、オリンピックをめぐるゴタゴタのすべての根幹にある、スポーツにおける選手の主権性をめぐる問題であり、スポーツビジネスそのものの転回点と、その未来を指し示す出来事と言えるかと思いますので、今回のオリンピックを最も象徴しているのは間違いないかと思います。
──ほんとにそうですね。いや、今回は長い回でしたが、本当は文春がすっぱ抜いた、開会式の佐々木某案のうすら寒さであったりにも触れたかったのですが、バイルズ選手の話を聞いた後では、物事と向き合っている目線のレベルが違いすぎて、触れる気も起きなくなってきます。
ひとつ大きなエポックを刻むポジティブなストーリーが目の前で起きていたことを知ると、ほんとにどうでもよくなってきます。また、スポーツビジネスの限界ということで言えば、次回のサッカーワールドカップの放映権に関する、面白いニュースもあって、それも触れたかったのですが、たどりつきませんでした。これも電通絡みですが。
──電通が売りに出している放映権料の値段が高すぎて、日本のテレビ局と交渉が決裂した、という話ですね。
テレビ側は、もはや「仮に60%の視聴率が出たとしても買わない」とまで言っていますから、状況は相当深刻です。ここにスポンサーの国際イベントに対する不信が重なれば、もはやFIFAやIOCは、ビジネスモデルが崩壊することにもなりますので、非常に興味深い成り行きです。今回の五輪もアメリカの視聴者数が前回比で40%減で、NBCはCMスポンサーに補償をせざるを得ないのではないかとの憶測も出ています。
──たしか2032年までの放映権をNBCは買ったとされていますが、ここに来て「失敗した」と思っているかもしれませんね。
バッハ会長も慌てているかもしれませんね。いずれにせよ、こうした話とバイルズ選手をめぐる話は、決して無関係なものではありませんから、バイルズ選手が、選手の側から、オリンピックそのものに大きな「NO」を突きつけたのは、なおさら意義が大きいとも言えます。
──オリンピックをめぐる騒動に心底うんざりしている立場からするとざまあないや、と非常に胸のすくお話ですが、それはそうと、今回は結局本来のお題である〈Field Guides〉に触れませんでしたよね。
そうなんです。最後にお伝えするのも何なのですが、実は〈Field Guides〉という特集枠が更新をストップしてしまいまして、今後は『Quartz』が毎週配信している「Weekly Obsession」というミニ特集枠からお題を拾うことになってしまいました。
──あら、残念。
この「Weekly Obsession」は、まさに週ごとに気になるキーワードを取り上げて、その歴史などをさっくりと概観するものですが、今週は「Tsundoku(=積読)」がお題だったりと、ちょっと変わった内容を取り上げていまして、過去には「ラスプーチン」「スイスアーミーナイフ」「ウォークウォッシング」なんていうお題がありました。
──変わってますね。
はい。このシリーズは、あえて王道的なニュースのサイクルから外れよう、というものですから、むしろ、この連載向きかもしれません。どうなりますか、やってみないとわかりませんが。
──ちなみに今回は、何がお題だったんですか?
あ、そうでした。それを言うの忘れてましたね。「シモン・バイルズ」です。
──なんだ。そうだったんですね。ばっちりのお題だった、と。
はい。そうなんです。バイルズ選手の話題は、この東京オリンピックがもたらした、非常に大きな希望だと思いますが、日本でそれがどの程度報じられているのか、よくわからなかったので、お伝えしとかないとなと思いましたが、とても長いものになってしまいました。
──東京五輪最大のレガシーと呼べるかもしれない出来事を、日本人が知らずにいるとなれば、これまた、いかにも日本的な事態ですね。
だとしたら、もったいないですよね。それこそなんのためのオリンピックだったのか、という話です。
このニュースレターは、1分違いでお送りしている「Guides:#64 シモン・バイルズの拒絶・上」の続きです。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。本連載の書籍化第2弾『はりぼて王国年代記』のお求めは全国書店のほか、Amazonでも。
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