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週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzが取り上げている「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが「架空対談」形式で解題する週末ニュースレター。毎週更新している本連載のためのプレイリスト(Apple Music)もご一緒にどうぞ。
Olympics opening ceremony
北京五輪のデュアリティ
──お疲れさまです。今週はいかがですか。
相変わらずずっとこもりっきりですね。原稿を書いたり、翻訳されたテキストを編集するような作業を地味にずっとやってます。なので、この間、世間のニュースにはだいぶ疎くなっている感じします。興味を失っている、ということもあるのですが。
──なんで興味を失っちゃっているんですか。
どうしてでしょうね。目の前にやらないといけないことが多くて、あまり世の事象をチェックできていないだけなのかもしれません。それはそれで自分的にはいいことでもあるので、世の中の出来事を追いかけていないことことに取り立てて危機感をもつこともないのかもしれません。
──オリンピックも始まりましたよ。
そうなんですよね。結局開会式も見逃してしまいました。
──昨年はかなり烈しくオリンピックについて考えたり調べたりしてたじゃないですか。
それもあって、だいぶ飽きちゃったという感じなんですね。北京五輪は、それなりに論点がたくさんあるのではないかという予測をずっとしていたのですが、いざ始まってみると、「どうでもいいな」という気持ちの方が強くなってしまいました。
──あれま。今回は〈Weekly Obession〉のお題に「オリンピック開会式」というのがあったので、それについてお話できるといいなと思っていたのですが。
一応、簡単なハイライトは見たのと、ざっと海外メディアの報道は見てみたのですが、そこまで面白い話もなかったような気がします。
──そうですか。
もちろん、最終聖火ランナーにウイグル人の選手が選ばれたことや、台湾の扱いをめぐる報道、あるいは、Lululemonが手がけたカナダ代表団のユニフォームがかっこよかったとか、それなりに論点はあったようで、政治的な論点についていえば、聖火ランナーの人選をもって「政治的プロパガンダだ」と非難するのは、それはその通りだとしても、そもそも五輪の開会式セレモニーなんていうものが政治的プロパガンダでなかったことがあるのかと考えれば、まあ、そうだろうさ、としか思いませんし、もっと言ってしまえば、20世紀を通して繁栄してきたスポーツというものが、極めて政治的なもの、根本において国家というものと分かち難く強く結びついてきたものだということが、オリンピックというものについて昨年あれこれ考えてみた結果わかったことでもあったりしますので、習近平さんの最終成果ランナーの人選は、正面から世界に喧嘩を買った感じはすごいなとは思いましたが、それ以上何か自分が語ることがあるかというと、特にないんですよね。
──それでも何か面白いところはなかったですか。
いくつかのメディアは、2008年の夏の北京五輪との比較において、昨日の開会式を論評していましたが、それは面白いところはありました。2008年というと14年前で、当時の状況と、現在の状況の間にある時間的な距離は、たしかに面白いものだと思います。例えば、『Slate』はかなり詳細な論考を掲載していまして、2008年の北京大会の開会式をこう概説しています。
2008年、張芸謀が手がけた開会式は、オリンピックのページェントというジャンルを超えて歴史的なイベントとなった。3億ドルの予算と1万5,000人のボランティアパフォーマーによるこのショーは推定20億人のテレビ視聴者に届いた。この偉業は、いまなお人びとの度肝を抜く。人類史上最大の視聴者が、月面着陸でもなく、政治的宣言でもなく、スポーツイベントでもなく、4時間のアートパフォーマンスに見入ったのだから。
──そんなに視聴されたのでしたか。すごいもんですね。ド派手だった記憶はありますが。
当時の西側のメディアの論評を、この記事は、こうまとめています。
2008年の式典は、これまでで最も多くの人々が観た政治劇であると同時に、最も大きな誤解を生んだ作品でもある。公演後の数日間、欧米のコメンテーターは、2,008人の鼓笛隊と太極拳の達人による一糸乱れぬ振り付けを、共産主義やファシスト国家がスタジアムで体現してきた従来のイメージに基づいて、軍の行進になぞらえた。『Economist』は、この式典を「華やかだが権威主義的」「不快な武骨さ」「国民が一斉に行進している」と評した。映画評論家のロジャー・エバートも、この「何千人もの丹念に訓練されたパフォーマーたち」は、レニ・リーフェンシュタールのナチスのプロパガンダ映画『意志の勝利』しか思い出させないと発言している。のちにESPNは、3カ月間1日16時間の訓練を受けたパフォーマーたちが、実際には軍隊のバラックで生活していたとも報じた。
NBCの実況アナウンサーは、この式典を「畏敬の念を抱かせるが、威圧的でもある」と表現せざるを得なかった。数年後、同局の『30ROCK』に出演したマイケル・シーンは「ロンドン・オリンピックはあんなふうにはできない…北京の開会式のように国民を動員することはできないよ」と語った。
いまにして思えば、2008年の開会式は、中国においては、権威主義的な支配によって国民が動員されているという印象を、世界中で上書きすることとなった。しかし、2008年のオリンピックが真の意味で歴史的だったのは、中国共産党の新星、習近平が大会運営の過程で地方の委員長から国家副主席、そして後継者になったことだ。胡錦濤政権下のIOCと中国の閣僚は、2008年のオリンピックが中国の人権スコアを改善すると世界に保証したが、習近平が国家主席になった現在、オリンピックが民主的規範を浸透させるために何かするという素振りは全くない。2008年以降の中国の軌跡は、経済的勝者としてアフリカやラテンアメリカにまで勢力を拡大し、香港や新疆における弾圧によって悪名高い独裁国家として国際的に名を馳せるというものであり、これは、2008年の北京の開会式が、新しい超大国の到来と新しい冷戦を告げるものであったというシナリオを確定的にするものである。このシナリオに従うなら、2008年の開幕式はパーティーの始まりを告げるものではなく、パーティーの破壊を告げるものだったのだ。
──なるほど。
おそらく当時は、それこそ1964年の東京五輪がそういう意味合いをもっていたように、中国がグローバル社会の一員として国際舞台にエントリーするという意味合いがあったんだと思うんですね。オリンピックを契機にして「民主的な自由世界」へと中国が入ってくることで、中国もそれまでの全体主義的な社会から民主的なものへと移行していくという期待があり、この記事によれば、胡錦濤政権は、それをIOCに対して握っていたわけですが、いざ蓋を開けてみると、たしかにパフォーマンスはすごいのだけれども「なんかやべえ感じもするな」というものだったので、そのことにとりわけ西洋のメディアは当惑したんだと思うんです。
──あれ?となったわけですね。
ただ、その段階では、西側陣営はまだ余裕があったんだと思うんです。「まあ、せいぜい頑張ってくれたまえ」という感じで、もちろん中国が巨大人口と資源を抱えたパワープレイヤーであることは認識していたとはいえ、よもやテクノロジーの分野などで遅れを取るような事態がやってくるとは思っていなかったんですよね。
──14年の間で、大きく時代が変わってしまった、と。
これは、わたしは全然知らなかったんですが、2008年の開会式においては、当初、そのクリエイティブチームに、反政府的活動で知られるアーティストのアイ・ウェイウェイや、台湾映画界の名匠アン・リーや、スティーブン・スピルバーグがいたそうなんですね。それを統括する張芸謀も、家系的には反政府の血を引いていますから、北京政府的には、2008年の開会式は、そうした政治的な意味でもリスクがなかったわけではなかったそうなんです。先の『Slate』の記事はこう書いています。かなり長いのですが、非常に面白いところなので、引用させてもらいます。
2000年頃、反逆のアウトローだった張の中国国内での立場は国家と和解したことで一変する。2002年に公開された武侠映画『英雄』は、ジェット・リーが暗殺を断念することで、中国が始皇帝のもとに統一されたという筋書きだった。張監督の映画の政治性はいまや著しく変化し、政府の反応も変化した。かつてアカデミー賞から彼の名前を消そうとしていた中国当局は、やがて彼を同賞に推すようになる。中国国民は張を西洋かぶれの監督として不信感を抱いていたが、やがてスタイルも国家神話を補強する限りにおいては役立つとみなされ、政府も彼を強力なアセットと認めるようになった。こうして2005年、張は北京の開幕式演出の入札コンペを勝ち取ったのである。
しかし、その時点でも、張は国際的な協力者たちのチームとともに暴走する可能性があった。天安門広場に向かって中指を立て、漢代の骨壺を叩き割った写真で有名なアイ・ウェイウェイが国立競技場のコアデザインを担当し、式典そのものには『ブロークバック・マウンテン』でアカデミー賞を受賞し、中国の検閲当局と対立した台湾人監督アン・リーと、オリンピックの暗黒の時間を描いた『ミュンヘン』を完成させたばかりのスティーブン・スピルバーグが起用されたのだ。オリンピックの計画が進むにつれ、張は、芸術的リスクを歓迎し、中国の主催者をそのなかへと道連れにする準備ができていたように思われた。
しかし、開会式が近づくにつれ、この国際チームは崩壊した。2008年2月、ミアとローナン・ファローから中国とダルフール虐殺との政治的関係を指摘され、スピルバーグはクリエイティブコンサルタントを辞任した。5月、四川大地震の後、アイ・ウェイウェイは政府および大会に対して後戻りのできない批判的態度をとるようになった。アイは次の作品を、震災による子どもの犠牲者の調査に費やした。アン・リーはアーティスティックチームの一員としてクレジットされ続けたが、大会が始まると、開会式にその名はなかった。やがて評論家も視聴者も、これが張芸謀のワンマンショーであることを悟った。
8月8日午前8時前、スタジアムの客席が埋まる頃、コスタス氏(編註:NBC Sportsのスポーツキャスター、ボブ・コスタス)は「アーティストがほぼ無限のリソースを得たときに何が起きるのかをわたしたちは目撃しようとしている」と述べた。これは、こういう言い換えることもできる。アーティストが前例のないほどの監視の目にさらされたら、どうなるのか。張は、ただ現場で1万5,000人のパフォーマーを演出したのではない。かつて中国の歴史に対する思慮深い批評家として彼を賞賛した海外の聴衆と、彼が愛国主義的な道を歩み続けている限りにおいてのみ支持を表明する国内の聴衆、それぞれの期待を、張は調整し、演出せねばならなかった。双方の陣営から首脳が列席し、テレビの向こうの視聴者は両陣営合わせて数十億に上った。張は言う。「これほど複層的で、これほどハイレベルな調整が求められる制作現場は他にはない」
張のチームメンバーたちも、どちらの陣営に付くかで意見が分かれた。スピルバーグは張をTIMEのパーソン・オブ・ザ・イヤーに推薦し、その映画作品を理想主義と国際主義の観点から「調和と平和という普遍的なテーマ」を表現した「新しいミレニアルに相応しい最も壮大なスペクタクル」と賞賛した。アイ・ウェイウェイは、鼓笛隊が開会式で見せた「外国人向けのつくり笑い」を引き合いに出し、張がつくり上げた祝祭は人道性のかけらもないプロパガンダだと非難した。
いずれもの解釈も、実は同じ過ちを犯しており、間違っている。張は、その両方をつくったのだ。スタジアムの観客が映画館の観客と異なっているのは、客席が、応援するチームによって分かれていることだ。張は二重の観客のための二重演技を行う用意ができていたのだ。おそらく、その後の批評では、彼は海外の観客よりもホームの観衆を魅了することに成功したようだったが、少なくとも彼は、4時間にわたるこのクロスオーバー作品をヒットさせたのだ。
──なあるほど。そもそも2008年の開会式は両義的なものとしてあったというわけですね。視聴者やメディアが、当惑したのもうなずけますね。
これは必ずしも関係のある話かどうかはわかりませんが、別の記事を読んでいて、そうだったのかと思ったのは、中国がオリンピックに初参加したのは、実は非常に遅く、1984年だったそうなんですね。
──ロサンゼルス大会ですね。レーガン政権下において、オリンピックが商業化・新自由主義化へと一気にシフトした、スポーツビジネスのグローバリゼーションを象徴する大会ですね。
はい。鄧小平が主導した「改革開放」政策が、78年に始まったことを踏まえると、このことには改めて大きな意味を感じられます。オリンピックがグローバル資本主義の祭典として自らをつくり変えていく方向性のなかで中国がオリンピックという船に乗ったということを考えると、中国にとっての五輪というのは、最初からグローバル経済への参入という「経済的」な側面と、ナショナリズムの称揚といった「政治的」な側面とを強くもっていたようにも感じられるわけですね。
──ふたつの側面がある、と。
はい。中国におけるオリンピックのありようには、さきの『Slate』が指摘していたような、国内・国外における二重性と折り重なるかたちで、経済と政治における二重性もあるのだと思います。これは、ごくごくざっくり言うと、経済における自由と平等の理念と、政治における自由と平等を、どうバランスし整合させるのかといったあたりの議論なのだと思いますが、西側陣営は基本、経済の自由は政治の自由とセットでなくてはならないと考えているところ、中国は経済の自由と政治の自由とを切り離して運営しようとしているわけでして、それが言うなれば、ここまで見てきた「両義性」の根本にあるのだと思います。
──矛盾してるじゃないか、と西側陣営は思うわけですね。
ところが、それを「矛盾」だと指摘するのは簡単なのですが、オリンピックという文脈を見てみると、むしろ、同じ矛盾がデフォルトとして組み込まれているわけです。
──と言いますと。
スポーツというものは、勝ち負けが非常に明確に設定されていて、才能のあるものが明確にヒエラルキー化されるという点で、まったく平等性はないですし、その勝利のために自由が阻害されることについては、むしろ良しとされてきたような空間でもあるわけです。
──たしかに。勝つためには、自由よりも、むしろ規律が重視されますね。
いまでこそ、「国家を代表して戦う」といった考え方は古いものとみなされるようにはなっていますが、とはいえ、規律といったものはいずれにせよ求められますので、それがどういう言い方で正当化されるかと言いますと「セルフ・ディシプリン」といった言い方なんですね。「自分を克己していく」という方向に向かうのですが、こうやって「規律を個々人の内面に内在化させて自己生産力を高めて行こう」という考え方は、言うまでもなく新自由主義と極めて相性のいいものだったりするんですね。
──スポーツという空間が、新自由主義的な成功のモデルになっているわけですね。
その一方で、オリンピックは「世界がひとつになる」みたいなことを言っているわりに、相変わらず「国家代表」という枠組みを前提にしていることからもわかる通り、ナショナルな空間でもあるんですね。つまり、1984年以降のオリンピックは、新自由主義経済とナショナリズムがハイブリッド化した、極めて両義的なものでして、その意味で、西側が中国に対して「矛盾」だと感じていることを、そっくりそのまま体現しているものでもあるんです。こうした論点は、開会式直後に『Vanity Fair』が掲載した記事「いったいなぜジョン・レノンのイマジンは北京五輪で使われなくてはならないのか」(Why, Oh Why, Did the Beijing Olympics Opening Ceremony Continue the “Imagine” Tradition?)でも語られています。
一般に、この曲は平和な世界を願う代名詞となっているが、1971年のヒット曲の歌詞を実際に聴いたことのある人なら、そこで歌われる放棄の観念と精神的な連帯というメッセージが、貴金属の塊を競う場であるオリンピックというものとは真逆のものであることがわかる。国旗のパレードを90分も見せられたあとに「国がないことを想像してごらん」という歌詞が歌われることに一体何の意味があるというのだろう。
──あはは。おっしゃる通りですね。でも、その矛盾がバッハ会長と習近平とを結びつけているということですよね。
そう考えると、2008年の開会式は、新自由主義的グローバルスペクタルであると同時に新時代におけるナショナリズムというものを視覚的に体現したひとつの到達点として、改めて見ることができるようにも思うんですね。
──なあるほど。
加えて2008年において重要なのは、それがテレビというメディアを主戦場とした大会としてのひとつの到達点に達したということで、その後、ソーシャルメディア、動画プラットフォームなどの圧倒的な浸透を受けて、「産業主義的マスメディアと新自由主義と国家」の三位一体は、おそらく2008年を境に衰退していくことになっているはずでして、これはオリンピックが1984年から採用してきた企業スポンサーと放映権を根幹としたビジネスモデルに変更を迫っている趨勢でもあるのだろうと思います。
──そうだとすると、今回の開会式は何を提起したことになるんでしょうね。
おそらく張芸謀が2008年において見せた、内外に向けて別のメッセージを発動する両義的演出という部分はそんなに変わってはいないんだと思います。ただ、ウイグル人選手の聖火ランナーへの起用といった部分で開き直りとも挑発とも取れるようなメッセージを外に向けて出したのは、この14年の成長がもたらした自信の現れなのかもしれません。その一方で、全体の演出が、前回ほどには全体主義的でなかったのは、コロナの影響もあって大規模なマスゲームができなかったということも関わっていそうですが、今回の演出において徹底されていたとされる「セレブを使わない」という戦略がどういうメッセージをもっているのかは、ちょっと面白い論点かと思います。
──有名人、まったく出てこなかったみたいですね。
これは個人的にはとても興味深いところでして、東京大会でも見たように、セレブドリブンなショー演出というのは、さまざまな意味からもう難しさがあるわけですね。
──そもそも「国家的セレブ」がどんどん生まれにくくなる方向へとメディアもシフトしているわけですし、「国家的セレブ」という存在が、実際はもう過去の時代のものであることは、その体で登場する人がだいたい高齢者であったり、ロンドン大会におけるフレディ・マーキュリーのように死者であったことからもわかります。ドクター・ドレー、スヌープ、メアリー・J・ブライジ、エミネム、ケンドリック・ラマーがキャスティングされた今年のスーパーボウルのハーフタイムショーなんかを見ても、完全に懐メロ人選で、「いま」を代表するセレブを特定することが難しくなっていることの現れとも見えます。トレーラーがカッコ良かったことは認めますが。
そうしたなか、2022年の北京五輪が、開会式においてマスメディア型スターシステムを採用しなかったのは慧眼とも言えるところもありそうですが、『Vox』の「五輪開会式が居心地悪かったのはなぜか」(Why the Olympics opening ceremony felt kinda weird)はその選択の背景をこう読み解いています。
米国を含む多くの国からの人権侵害を理由とした外交ボイコット──選手団は通常通り競技に参加しているが政府特使を派遣しない──を受けて、中国は今年の開会式は控えめな態度で臨んだが、地政学的緊張がそこに反映されていないわけではなかった。
春節に合わせた演出で、10代を中心とした約3,000人の出演者は、平和、世界の結束と同時に、世界各地でパンデミックと闘った人たちの存在を盛んに強調した。それを語るを上で用いられたモチーフは「雪の結晶」という、極めて平和的なものだった。
式典の開催に向け、中国政府は選手たちに他国との「休戦壁画」に署名をするように促していた。また、政府は大会前に大規模なウィンタースポーツ・イニシアチブを展開し、特に子どもたちや10代の若者をターゲットに、3億人以上の中国国民をウィンタースポーツに参加させることに成功したと主張した。式典では、こうした市民の存在がことさら強調され、有名な歌手や俳優の出演はなかったが、これは近年のオリンピックでは初めてのことだった。
パンデミックによる厳重な封鎖期間中に著名人のライブパフォーマンスを調整することが困難であったこともこの一因だが、これは、中国がこの一年間展開してきた「清朗」キャンペーンと同様、アイドルの過度な影響力としばしば制御不能となるファンダムを抑制するための包括的な試みの一環と見ることもできる。
また、これはパンデミックが始まって以来、中国が国内に向けて発信してきたメッセージに沿ったものでもある。それは「わたしたちは全員で戦っている」「みんなで乗り越える」といったメッセージであり、そこでは、厳格な(そして、成功した)コロナ政策を末端において遂行したボランティアやエッセンシャルワーカーなどの「市井のヒーロー」の不断の努力が称揚される。これは、2021年は中国共産党の100周年で語られた、若者こそが国家(と中国の共産主義)を未来であるとするナラティブにも合致している。
そのテーマは、ステージ上で笑顔で歌うかわいい子どもたちの群れや、スキーやスケートをする幼児とあまり変わらない年齢の子どもたちの映像、聖火の受け渡しなど、開会式に大きく反映された。聖火台への点火では、数十年後に生まれた中国人アスリートが次々と聖火を受け継ぎ、最後は2000年代生まれの2人のアスリート(そのひとりは世界へとメッセージを体現していたが、これについては後述する)に引き継がれた。
──コロナ対策を起点とした市井のヒーローの偶像化や、アイドルとそのファンダムの政治主体化に対する警戒といったあたりはとても現代的な問題で、面白いですね。
こうして見ると、さまざまなメッセージが重層的に演出に盛り込まれていたことがわかってきますよね。ちなみに「後述する」としているのは、以下の部分です。
中国は、重要な証拠があるにもかかわらず収容所は存在せず、労働者の労働は自発的なものであり、それに反する非難は「世紀の嘘」だと主張している。したがって、開会式の最後にウイグル人選手イラムジャンを大きく取り上げるという決定は、深く政治的なものであり、開会式で語られた団結のメッセージを著しく複雑化させるものとなる(ちなみに、中国のために聖火を運んだウイグル人選手はイラムジャンが初めてではない。2008年のオリンピックで17歳の時に聖火ランナーを務めたカマルテク・ヤルクンは現在米国に在住し、中国のウイグル人迫害に何年も抗議している)。
──聖火の最終ランナーが誰であるかというのは、東京における大坂なおみ選手の場合もそうでしたが、政治性が強いですね。
上記の記事から読み解くと、イラムジャン選手は少なくとも3つの条件を満たしていたことになります。ひとつはそれが「未来の中国(もしくは世界)を担う若者である」ということ。そして「必ずしもスターではない市井の人であること」。そして最後に「ウイグル問題における中国政府の立場を明らかにする人であること」なんですね。
──3つ目の政治的メッセージはあからさまであったのはその通りだとは思いますし、そこに共感する気持ちは毛頭ないのですが、とはいえ、見たことのないフレッシュな若者が最終ランナーを務めていた映像は、絵的にはそれなりに新鮮ではありました。
実は、この聖火ランナーの候補としては、フリースキーの国際的スターである、アイリーン・グー選手の名前が囁かれていたそうですが、最終的には彼女ではなくイラムジャン選手が選ばれたのは、ふたつ目と3つ目のメッセージを、やはり重視したからなんでしょうね。
──アイリーン・グー選手といえば、美人スキーヤーとして知られ、それこそ『Vogue』や『Elle』といったメディアで表紙を飾るなどモデルとしても人気の、今大会注目の選手ですよね。
はい。今大会の政治的複雑さを体現する選手がいるとしたら、彼女こそがまさにそうなのだと思います。彼女は、アメリカ人と中国人のハーフで、サンフランシスコで生まれ、育った選手ですが、2019年に彼女が中国代表となることを表明し、アメリカで猛烈なバックラッシュを引き起こしたことでも知られています。そんな彼女に関する記事を、『The New York Times』は、「アイリーン・グーは地政学的分断を超えて舞い上がる」(Eileen Gu Is Trying to Soar Over the Geopolitical Divide)という記事を、2月4日に掲載して います。
アイリーン・グーのトレーニングが中断されるのは、ファッションイベントやファッション撮影があるときだけだ。グーはIMG所属のモデルでもある。彼女はスイスからプライベートジェットでパリに向かい、ルーブル美術館で開催されるルイ・ヴィトンのイベントに最前列で参加したが、これはニューヨーク・ファッション・ウィークとメットガラに参加するためにオーストリアでのトレーニングを切り上げた数週間後のことだった。
彼女の主要スポンサーは、スキーブランドやレッドブルだけでなく、ティファニー、ヴィクトリアズ・シークレット、時計ブランドIWCから、多数の中国企業にまでわたる。夏から秋にかけて、彼女の顔は中国版『Elle』『Marie Claire』『Vogue』の表紙を飾った。
9月の誕生日には、ドバイのヨットの上で、中国のキャデラックと、スターバックスの中国のライバルであるLuckin’ Coffeeとのパートナーシップを発表した。彼女の動向に敏感な中国メディアは、この提携の話題で持ちきりとなった。
二面性こそが彼女を特徴づけている。彼女はスキーヤーなのか、それともスーパーモデルなのか。おっちょこちょいのティーンエイジャーなのか、世界的なアイコンなのか。本好きなスタンフォード大学の学生(入学を1年延ばした)なのか、ソーシャルメディアのインフルエンサーなのか。彼女は中国人なのか、アメリカ人なのか? 彼女はすべての人にすべてのことを提供できるのか? 彼女の発言は、政治や人権についてではなく、スキー場やランウェイに関わるものだけでいいのだろうか?
中国政府や国民を喜ばせながら、米国内や世界で自分を売り込むという彼女の探求は、北京の雪の上で彼女が披露するどんな技よりも難しいかもしれない。
──面白いですね。今回ずっと話題となっている、まさに中国の二面性を体現しているわけですね。
彼女の存在がことさらデリケートなのは、彼女がアメリカ生まれ、アメリカ育ちだからです。彼女が中国代表として五輪出場を決定する発表をしたことは、いまだにアメリカ国内でくすぶっていまして、例えば『FOX News』は、開会式直前の2月3日に、「アイリーン・グーのスポンサーはアメリカ企業の腐敗と弱腰の象徴」(Eileen Gu’s sponsors show ‘the corrupt and weak corporations of America)という記事をあげ、右派コラムニストのウィル・ケインによる批判というより悪口を掲載しています。
「自分を育ててくれただけでなく、一流の訓練と設備で世界的なスキーヤーへと育ててくれたアメリカを裏切り、背を向けるとは、恩知らずもいいところだ」とケインはグーを罵った。「金と引き換えに国を裏切るとは、恥知らずだ」。ケインは彼女を「温かい家庭」から出て行く子どもにたとえ、「すぐに……後悔するようになるだろう」と警告した。(中略)
ケインはさらに、「アイリーン・グーは、アメリカのパスポートを犠牲にすることとなる」とも述べる。「アメリカを裏切って手に入れたスターダムと富が、その価値に見あったものであることを願うよ。あなたは、それを売り払ってしまったのだから」
──批判というよりは、もはや中国に選手を取られてしまった嫉妬のようですね。
そこからケイン氏は、今度は彼女を支援するスポンサー企業に批判の矛先を向けます。
「アイリーン・グーと同じことをしていないアメリカ企業はほとんどないと言ってもいい」とケインは言う。「それらの企業は中国から得ることのできる富と引き換えに、アメリカ合衆国に背を向けている。アイリーン・グーは、そうした状況の象徴にすぎず、本当に怒りを向けるべきは、アメリカを裏切った恩知らず子どもではなく、腐敗し軟弱になったアメリカ企業だ」。ケインは、それを「道徳や原則を失った資本主義に内在する不道徳性だ」と指摘する。
──ふむ。
『The New York Times』は、ふたつの超大国の綱引きの綱の上を歩く、アイリーン・グーのこうした危険な綱渡りをこう評しています。
アイリーン・グーの母親ヤン・グーとアイリーンのスポーツエージェント、トム・ヤプスは、彼女の語ることが中国でどう解釈されるかが問題であることを認めた。
ここまでつくり上げたペルソナを台無しにしたら、失うものも大きい。特に中国では、ナショナリズムの台頭により、裏切りや不誠実さを嗅ぎつける市民が増えている。
映画『ノマドランド』でアカデミー賞監督賞を受賞したクロエ・チャオに起きた問題が象徴的だ。ジャオは、彼女の古い投稿を引っ張り出され、一部の中国人から非国民とみなされ、激しい反発を受けた。政府はジャオと彼女の作品に関する情報を封印し、『ノマドランド』とそれに続く、大予算のスーパーヒーロー映画『エターナルズ』は中国で公開されていない。
スポーツ界を含め、中国でビジネスをする人々が恐れているのは商業的な反発だ。IOCは、米国を含む数カ国が抗議として外交的ボイコットをしているにもかかわらず、中国がこの大会を開催することに何の問題もないかのように装っている。
グーは、中立的な二面性を保ちたいと考えている。「アメリカにいるときはアメリカ人、中国にいるときは中国人」と彼女はよく語っている。(中略)
気さくで、自虐的で、思慮深い。ファンからも、かつてのアメリカ人チームメイトを含む競技仲間からも、彼女は人気がある。しかし中国の話題になると、香港、ウイグル、ぺン・シューアイの失踪、女子テニス協会の中国からの撤退といった話題が出る前に、彼女はマネージャーにちらりと視線を送り、インタビューを打ち切ろうとする。
「パスします」とグーは言う。「分断に加担するつもりはありません。わたしは、わたしがすることはすべて、インクルージョンに関わっていると思っています。みんなができるだけつながっていると感じられるようにしたいんです」
問題は、関係が悪化しているライバル国の代表として、世間体を気にすることなく、公人として、その姿勢を維持できるかどうかである。
「彼女は中国メディアの監視にどう対処するか、つまりアメリカの政治についてどうコメントするか、米中関係についてどうコメントするかを気にしなければなりません」とマーは言う。「さらにもうひとつ1つの課題は、米国側からの影響だ。彼女は米国で持っているものをすべて手放すつもりはないと思う」。グーは、国籍についての質問に対して答えを明らかにしていない。中国は二重国籍を認めていないが、彼女が米国籍を離脱したという公式記録はない。
──彼女が、この綱渡りをどういうふうに遂行し続けられるのかは、本当に興味深いところですね。
おそらく中国政府からしても、彼女の中国に対するコミットメントがどの程度であるかは、まだ半信半疑なところもあると思うんです。というのも、彼女は、政府が警戒する「インフルエンサー」でありますし、また、彼女がアメリカ、中国の双方において、両義性を辛うじて保っていられるのも、彼女が参加している競技がフリースキーというエクストリームスポーツでもあるからです。
──そこは重要ですか。
と、思うんです。というのは、中国ではウィンタースポーツ自体がそもそもマイナーなものだったのは、今回の五輪を機に、ウィンタースポーツのマーケットにテコ入れをしようという中国政府の意向からも明らかですし、さらにそれがフリースキーのような競技となりますと、彼女以前には、ほとんどプレイヤーがいなかったんですね。という意味で、フリースキーをはじめとするエクストリームスポーツや夏の大会で言えばスケボーなどのストリートスポーツが、どういったカルチャーをもつものであるかを十分に測り切れていないとも思うからです。
──そうした競技が、オリンピック種目となっているのは、IOCが若者離れに危機感を抱いているからだとも言われていますが、これらのスポーツは、その発生の起源からして精神性としては、オリンピックとは真逆の方向性をもっていますから、うまく扱い切れていないという感じはとてもします。
そうなんです。アイリーン・グーがレッドブル主催の大会に出ている限りにおいては、誰も彼女の活動について異論がないはずなのに、それがオリンピックという舞台に移った瞬間、分断と対立を引き起こすのは、逆に言えば、オリンピックという舞台が、いかにいま望まれているスポーツのあり方や面白さからズレているかを端的に表しているようにも感じるんですね。
──なるほど、とするなら、大国間で危ない綱渡りをしているのは、アイリーン・グーではなく、むしろオリンピックの方なのかもしれません。
おっしゃる通り、アイリーン・グーがオリンピックによって引き裂かれているという見方もできそうで、そうだとすると、今大会での彼女の活躍と、それをめぐる米中の反応などは、注目しておいた方がいいものなのかも知れませんね。
──たしかに。今回の五輪に、少し楽しみができました。
それはよかったです。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。
꩜ 「だえん問答」は毎週日曜配信。次回は2022年2月13日(日)配信予定です。本連載のアーカイブはすべてこちらからお読みいただけます(要ログイン)。
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