🦠 「0番目の患者」を考える

「ゼロ号患者」と訳されるそのことば。COVID-19のパンデミックでも注目された「ペイシェント・ゼロ」の語が、人の認識に及ぼす影響とは。
Image for article titled 🦠 「0番目の患者」を考える
Photo: Peter Macdiarmid (Getty Images)

「ペイシェント・ゼロ(Patient Zero)」ということばは、実は単純な勘違いから生まれました

1984年、米疾病管理予防センター(CDC)が行ったエイズウイルス(HIV)のクラスターの研究で、参加者の1人だったゲタン・デュガ(Gaëtan Dugas)というカナダ人の患者に、“out of California”(カリフォルニア州外)を意味する「“O”の患者」という識別コードが割り当てられました。

その後、ある研究者がアルファベットの「O(オー)」を数字のゼロと読み間違えて北米におけるエイズの最初の患者なのだと思い込んだことがすべての始まりです。そしてその後、メディアが大騒ぎしたことで、ペイシェント・ゼロという表現は世間に広まっていきました。

もちろんデュガはエイズの最初のケースではなかったのですが、彼はこの間違いによって社会的に攻撃を受けるなど大変な被害を被りました。同時に、このことばがあるがゆえに、感染症などが発生した場合に最初の事例を特定できるという誤った認識も生まれたのです。この認識は不正確なだけなく、さまざまな問題を引き起こすこともありますが、いまも多くの人がこれを信じています。

ペイシェント・ゼロという表現は、新型コロナウイルスのパンデミックでも特にメディア報道を中心に頻繁に登場し、感染はどこから始まったのかという「謎解き」が行われるようになりました。しかし、現実は推理小説とは違います。この言葉は一見科学的に聞こえますが、感染がどのようにして広まっていくかという事実を明らかにするためではなく、誰かを暗に非難するために使われるようになったのです。

ケンブリッジ大学のリチャード・マッケイ(Richard McKay)はこれについて、「『ペイシェント・ゼロ』について書かれた文章は、感染拡大を封じ込めるための建設的な努力から気をそらす囮のようなものだ。この有害な表現を使うのを止めるべきだ」と述べています。

それでは、パンデミックを理解する上で真に重要な指標と、感染が拡大していく過程を人びとに理解してもらうためにはどう説明するのが一番いいかについて考えてみましょう。


WHAT DOES IT EVEN MEAN?

ことばの定義

Image for article titled 🦠 「0番目の患者」を考える
Photo: Topical Press Agency (Getty Images)

ペイシェント・ゼロという言葉の問題点のひとつは、定義が明確ではないことです。特定の疾患の最初のケースなのか、臨床報告の最初の事例なのか、それとも特定の集団内における感染第1号なのかといったことが曖昧なのです。疫学的には、それぞれについてきちんとした専門用語が存在します。


THE NUMBERS DO LIE

「ゼロ」に意味はない

ストックホルムにあるカロリンスカ研究所(Karolinska Institute)の名誉教授ヨハン・ギセック(Johan Giesecke)は、「アウトブレイクでプライマリー・ケースが判明することはほとんどない」と書いています。ごくたまにプライマリー・ケースとインデックス・ケースが一致することはありますが、保健当局が感染の拡大に効果的に対処し、ウイルスの系統を追跡していく上で重要な情報源となるのは、通常は集団内の最初の臨床報告事例であるインデックス・ケースです。

一方、プライマリー・ケースが判明すれば感染拡大の時系列を理解するのには役立ちますが、ペイシェント・ゼロという概念には科学的に明確な定義はありません。それはむしろ、感染症は悪で、保健当局はそれと果敢に戦う英雄だという物語を形作っているのです。

デューク大学教授のプリシラ・ウォルド(Priscilla Wald)は著書『Contagious: Cultures, Carriers, and the Outbreak Narrative』で、その危険性を指摘しています。「アウトブレイクというナラティブの神話的な枠組みは、明らかに非難の意味がこもった表現を巧妙に補完する。自然の景色や人はこうした言葉によって、危険で汚れていて病んだものとして描写されるのだ」

明らかな脅威に直面したとき、スケープゴートを探すのは簡単です。ただ、こうした「犯人探し」は健康格差の解消や社会正義の実現のためには何の役にも立たず、わたしたちの疫学に対する理解の促進にもつながりません。

ペイシェント・ゼロという考え方は、パンデミックに対応するために世界が協力していかなければならないときに、その努力を台無しにするようなナラティブを形成します。このナラティブは人間性に欠け、人びとの恐怖をあおるようにできています。結局のところ感染症は一個人の問題ではなく、わたしたち全員が巻き込まれていくものなのです。


QUOTABLE

こんな発言も……

「伝染病の歴史には常に、誰かのせいにしなければならないという一面がありました」

── 米国立アレルギー・感染症研究所(US National Institute of Allergy and Infectious Diseases)所長で大統領首席医療顧問のアンソニー・ファウチ(Anthony Fauci)


QUIZ

ここでクイズです

COVID-19のパンデミックで間違って「ペイシェント・ゼロ」の烙印を押されたのは誰でしょう。

マーチェ・ベナッシ(Maatje Benassi)

ビル・ゲイツ(Bill Gates)

ギルバート・アレナス(Gilbert Arenas)

スタンリー・トゥッチ(Stanley Tucci)

Image for article titled 🦠 「0番目の患者」を考える
Photo: Timm Schamberger (Getty Images)

答えはメールの一番下をご覧ください!


BRIEF HISTORY

感染症との戦いの歴史

  • 西暦541年頃:ユスティアヌス1世の時代に腺ペストが流行。東ローマ帝国の全域に拡大し、ユーラシア大陸西部で確認されている最初のペストのアウトブレイクとなる
  • 1346年:モンゴル帝国で腺ペストが発生。1348年にイタリアのジェノバ経由で欧州に侵入し、「黒死病(Black Death)」と呼ばれ大流行する
  • 1504年:ヨーロッパから広州経由で中国に梅毒がもたらされる
  • 1619年:フランスのルイ12世の宮廷医だったシャルル・ド・ロルム(Charles de Lorme)が、ペストの治療を専門に行う医師の装束を考案。全身を覆う防護服と、くちばしのような突起の付いたマスクが特徴
  • 1796年:英国の医学者エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)が初の天然痘の予防接種(種痘)を実施。人為的に牛痘に感染させると天然痘には感染しないことが証明された。WHOは1980年に天然痘の根絶宣言をしている
  • 1861年:フランスの細菌学者ルイ・パスツール(Louis Pasteur)が微生物の発生について画期的な理論を発表
  • 1918年:「スペイン風邪」として知られるインフルエンザのパンデミックが発生。死者は推定で5,000万人に上り、人類史上最悪のインフルエンザの流行となった
  • 1928年:英国の細菌学者アレクサンダー・フレミング(Alexander Fleming)がカビの生えたペトリ皿からペニシリンを発見。大量生産の可能な抗生物質が誕生する
  • 1981年:ヒト免疫不全ウイルス(HIV)の流行が確認される。この年には「重度の免疫不全」の症例が337件報告されている
  • 2002年:中国を中心に動物由来のコロナウイルス感染症とみられる重症急性呼吸器症候群(SARS)が流行。21世紀で最初のパンデミックとなる
  • 2020年:12月8日に一般へのCOVID-19のワクチン接種開始。中国の武漢で新型コロナウイルス「SARS-CoV-2」が確認されてから1年足らずであり、疫学史上最速で完成したワクチンだった

FUN FACT

ちょっとトリビア

台湾の疾病管制署は、感染症についての理解を広めるためにウイルスをアニメの悪役キャラクターとして擬人化して注意喚起を行っています。


WATCH THIS

動画で観る

Image for article titled 🦠 「0番目の患者」を考える
Screenshot: YouTube (Other)

「チフスのメアリー」のあだ名で知られるメアリー・マローン(Mary Mallon)は、米国で初めて確認された腸チフスの無症候性キャリアでした。マローンの事例では、感染症における接触者追跡がどう発展したかを知ることができますが、同時に公衆衛生と患者の人権を巡る倫理的な問いも提示されています。


TAKE ME DOWN TO THIS 🐰 HOLE!

もっと知りたい人へ

1854年、ロンドンのソーホー(Soho)地区でコレラの感染拡大が起き、2週間で550人以上が死亡しました。このとき、ジョン・スノウ(John Snow)という医師が発生源を調べるための調査を行いましたが、これが疫学の発展に重要な役割を果たすことになります。

当時、コレラなどの感染症の原因には瘴気説細菌説という2つの説がありました。前者は瘴気と呼ばれるカビやほこり、腐敗した有機物などの混じった「悪い空気」によって感染が起こるという古代ギリシャ時代にまで遡る古い考え方で、いまでは時代遅れにみえます。現在では科学的に証明されている細菌説は、感染の原因は病原菌という微生物であるとの理論に基づくものでした。

スノウは瘴気説には懐疑的で、感染の原因は病原菌に汚染された水ではないかという仮説を立てました。そして死亡事例を調べていくと、ほぼすべてがブロード・ストリート(Broad Street、現在のブロードウィック・ストリート[Broadwick Street])の飲料水の公共ポンプに近い場所で起きていることがわかったのです。スノウは周辺の住民に聞き取り調査を行い、ポンプではなく井戸水を飲んでいた人はコレラにかかっていないことを突き止めました。

スノウはこうして、ポンプを通じて供給されていた水こそが感染源だという結論に達し、当局に問題のポンプの使用を停止するよう求めたところ、感染拡大は終息しました。スノウの調査の結果、議会でロンドンの上下水道システムの衛生状態の改善を求める声が高まったほか、コレラは汚染された水によって媒介されることが証明され、細菌説が広く受け入れられるようになりました。同時に、現代の公衆衛生分野での調査の基礎が確立されていったのです。

Image for article titled 🦠 「0番目の患者」を考える
Photo: Philip Fong (Getty Images)

クイズの答えは「 マーチェ・ベナッシ(Maatje Benassi)」です。ベナッシは米陸軍の予備役で、2019年に武漢で開かれたミリタリー・ワールド・ゲームズの参加者が感染を持ち帰ったという陰謀論の標的になりました。なお、ビル・ゲイツについてはCOVID-19をつくり出したのはゲイツだという陰謀論があります。元NBAプレイヤーのギルバート・アレナスは、現役時代のあだ名が「エージェント・ゼロ」でした。スタンリー・トゥッチは、『インフェクテッドZ』(2018年、原題は”Patient Zero”)というゾンビ映画に出演しています。