Guides:#60 眠りの謎

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A Guide to Guides

週刊だえん問答

世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzの特集〈Field Guides〉から1つをピックアップし解題する週末ニュースレター。「Sleep in the Age of Anxiety」と題したQuartzの原文(英語)と、原稿執筆の際に流していたプレイリストとあわせてお楽しみください。本連載の書籍化第2弾は、7月下旬に発売です!

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Image: ILLUSTRATION BY HOI CHAN

Sleep in the age of anxiety

眠りの謎

──こんにちは。もう7月です。

がっかりしちゃいますね。何もしていないうちに半年が終わってしまった感じです。

──忙しかったじゃないですか。色々出版もしたりして、充実していたじゃないですか。

そうですね。先日、「blkswn jukebox」という音楽をテーマにしたコンテンツシリーズの一環で久々にトークイベントをやって上半期を振り返ってみたのですが、今年「blkswn jukebox」で取り上げた作品を見直してみても、「これ!」というものがほとんど見つからなかったんですね。それは、音楽シーンがつまらなかったということでは決してなく、こちらが何に焦点を合わせたらいいのかを決めきれずにいたことに原因があるような気がします。

──面白いもの、結構あったような気がしますけどね。

そうなんです。ただ、なんだかうまく自分とシンクロしない感じがずっとあったんですよね。そうしたらトークイベントで、お相手だった音楽ライター・編集者の小熊俊哉さんが、ブラーのデーモン・アルバーンの最近のインタビューから、こんなフレーズを教えてくださいまして、なるほどなと思ったんです。

「異文化のヴァイブレーションに周波数を合わせた時にこそ、自分が何者なのか、より大局的に捉えることができるんだよ」

──へえ。

ここで言われている「周波数を合わせる」ということばが、自分としてはとても印象的で、デーモン・アルバーンは、このことばを彼自身のアフリカ体験に寄せて語っているのですが、すぐに拡大解釈をしたがる自分としては、この半年間、自分が何者なのかを教えてくれる何かを探して、ずっと「周波数を合わせる」作業をしてきたように感じたんですね。

──何かを探して、ずっとラジオのつまみをいじっているような。

メタル少年だった中学生のころ、よく寝る前にラジオを聴いていたのですが、自分の地元のラジオ局には、あまりいいメタルの番組がなくて、少し離れた街のラジオ番組を聴いていたことがあるんですよ。音もかすかに聴こえるくらいで、ちょっとラジオの向きを変えちゃったりすると、ノイズのなかに掻き消えてしまったりして。あれ、よかったんですよね。昔、ある友人が「いい音楽って遠くで鳴っている感じがするよね」と言っていたことがあって、たしかにな、と思うんです。音楽を聴くとき、自分は、自分に近くにあるものよりも、むしろ何か遠くのものを探している感じがしますね。

──遠いってどういう感じなんですか?

よくわからないですが、いい音楽は「いま・ここ」の時間と場所を離れていく感じがあるような気がします。ついいま、これを書きながら、BGMにメアリー・ハルヴァーソンというジャズギタリストの参加している作品が流れていたのですが、彼女の弾くギターにはいつも不思議な無時間の感覚があって、とても好きです。

──最近、音楽の話ばっかりですね。

どうしてなんでしょうね。それこそ、この連載をまとめた第2集のゲラを読む作業をいましていまして、この半年で書いたものを読み返していますが、そのどこかに、「人によい影響を与えるけれど、それがなぜなのかわからないものがふたつある。庭と音楽だ」といったことを語っている文章があって、しかも、それが脳神経科学の大家オリバー・サックス先生のことばなんですね。サックス先生をしても、音楽と庭は謎なんですね。そのこと自体が、なんだか大きな救いですよね。

──わからなくていいんだ、と、ほっとします。

ほんとですね。謎なんだ、と知っておけば、それについて、あんまり深く考えこんだり、それに対して説明責任をはたそうという圧からも逃れられそうな気もしますから、安心しますよね。肩の荷が下りるといいますか。

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──今回の〈Field Guides〉は特集といっても記事はひとつしかないのですが、「眠り」です。

「眠り」も、そういう意味でいうと、謎としてとっておきたい領域のひとつかもしれませんね。自分は寝るのがとにかく大好きなので、いろんなことが科学的にわかったりしてその時間を操作的に扱うようになることを、できるだけ避けたいといつも思っています。

──そこですよね。今回登場する記事は「テックはあなたの眠りを助けたがっている」(The tech that wants to help you sleep)と題されたもので、Fitbitといったウェルネスデバイスや瞑想アプリなどの話題を中心に展開されますが、こうした話は、とかく「生産性」というものと結びつきやすいところが難点ですよね。

まさに記事のなかでアリゾナ大学の先生が「わたしたちは睡眠を、生産性の敵であると考えがちだ」と語っていますが、そのことばから導き出される結論が結局のところ、「睡眠は生産性にとって不可欠なものだ」ということになってしまうのであれば、それはそれでなんだかな、という気もします。とはいえ、「眠れないこと」はとても苦しいものですし、眠りを適切にマネージ/コントロールすることは、生きていく上で大事なことであるというのも、その通りだと思います。

──眠れないこと、あります?

ほとんどないですし、どこでも寝られますが、それでもたまにはありますよ。

──どういうときですか?

うーん難しいですね。過去に傷ついたりしたことがばあっとよみがえってきたり、あるいは、憎しみのようなネガティブな感情が、ばあっと毒のように体に回ることもあったりして眠れなくなったりすることがあります。

──そういうときは、どうするんですか?

音楽を聴いたり映画を観たりして、なんとかやり過ごす感じですかね。気を散らすと言いますか。映画も新しいものを見ると、頭や心が無駄に動いてしまうので、何度も観て内容を知っているものを観ますね。無感覚な感じになりたいのだと思います。

──何観るんですか?

「ボーン・シリーズ」とか「ジョン・ウィック」シリーズとかですかね。本当に何度も観ているので、だいぶ無感覚になれます。

──無感覚ですか。

はい。あと、スマホでできる仕事をしたりもします。書かなくてはいけない原稿を書いてみたりとか。

──よくそんなことができますね。

書かなくてはいけない原稿を書いたりするのは、要件をうまいこと並べて配置するような作業だったりしますから、案外機械的なほうの頭を使うもののような気がします。感情的な毒がまわっているようなときには、自分にとっては案外有効だったりします。特に外に出すための記事のようなものを書く行為は、プライベートな行為というよりは、社会というものと向き合うようなところがありますので、結構よいものだなと思ったりします。

──記事は、眠りに落ちるときのイメージを、クルマを運転して赤信号で止まるようなものと書いています。つまり、ゆっくり手前からブレーキを踏んで、停止線でちゃんと止まるようなイメージをもつように、ということですが。

そうですか。記事を読んでいて面白いなと思うのは、記事全体の基調が、眠りを阻害するものが「生産性」がもたらす圧にあるとしているところで、不眠の原因を「ストレス、不安、カフェイン、ニュース、アルコール、ソーシャルメディア、働きすぎ、仕事のなさ、ブルーライト」に求めて、これらすべてが、「生産性に取り憑かれた文化がもたらしたもの」としていますが、それが本当に原因なのかな、と思うところは若干あります。

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──そうですか。

以前に一度この連載でも紹介したことがありますが、アメリカの心理学者でエリザベス・ロフタスという人がいまして、この人は、記憶のメカニズムについて研究しています。彼女は、性的暴行をめぐる裁判に、弁護側の証人として呼ばれることの多い人で、かのハーベイ・ワインスタインの裁判にも呼ばれたのですが、なぜ彼女が呼ばれるかと言いますと、彼女の研究が「記憶というものは、呼び出されるたびに歪曲されたり、捏造されたりするものである」ということをめぐるものだからです。

──ははあ。なるほど。つまり、原告である性的被害者が「性的被害を受けた」と語るとき、その記憶は必ずしも「事実」であるとは限らないということを証言するために呼ばれる、ということですね。

はい。ですから彼女は「#MeToo」運動の敵とみなされていたりするのですが、彼女のことを取り上げた『The New Yorker』の記事は、彼女自身が、実は性的暴行の被害者であることも明かしていまして、そうなってくると話は非常に錯綜してきます。つまり、彼女自身が、自分の記憶は実際に自分の身に起きたことであるのかどうか、疑っていたりするわけですから。

──ややこしいですね。

その記事自体は、とりたてて眠りというものとは関係がないのですが、自分のなかでは眠りと記憶というものは密接に関係しているという実感がありまして、寝ている時間がとても大事なのは、その時間の間に、おそらく脳が、その日にインプットした情報をプロセスしているからだと感じます。とはいえ、ロフタスさんの研究によれば、その情報処理のプロセスは、情報をファイルごとに圧縮して、フォルダに収めていくというようなやり方ではないそうです。つまり、いつでも取り出し可能な情報ファイルがそれ自体として存在しているわけではなく、どちらかというと「思い出す」というコマンドが何かの拍子に作動すると、その都度、編成されるものだと考えられています。彼女はこう言います。

「記憶は、固定された不変のもので、まるで石板に刻まれたかのように保存されたものではありません。それは生きていて、常に形を変え、伸びたり縮んだり、また伸びたりするアメーバのようなクリーチャーなのです」

──アメーバですか。

はい。それは、わたしたちに身近なものでいうと、夢と似ているのかもしれません。少なくとも記憶力がめっぽう悪い自分にとっては、記憶のあやふやさは、夢のあやふやさに近い感覚があります。

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──ふむ。

まったく科学的なことは言っていませんので、その前提で聞いていただけたらと思うのですが、記憶というものは、「自分」というものの一貫性を成り立たせている重要な要素ではあるわけですよね。自分が体験したことは自分に起きた出来事である、ということが記憶として蓄積されているからこそ、10年前の自分と、1年前の自分と、昨日の自分とは、一応、ひとつながりになった同じ自分であると認識することができるわけですよね。

──ふむ。

その「ひとつながりである感覚」をもたらすメカニズムを、これまでわたしたちは、おそらく機械的なものとして、テキパキとそれこそコンピュータが情報を「メモリ」として処理するようなアナロジーで理解してきたように思うんです。つまり、脳のなかに「記憶」を貯めておくハードディスクがあって、そこにメモリが蓄積されていくような理解です。そのとき、眠りというものは、プロセッサがフル稼働していてシューシュー言っているパソコンを休ませるような時間、もしくは、動画がプロセスされるのを待っている「待ち時間」のように理解してきた感じがします。

──眠りは「休息」であるという理解ですよね。先の自動車のアナロジーは、まさに猛スピードで走っているエンジンの回転速度をスローダウンさせるというイメージでした。

ところが、記憶というものがロフタスさんの語るようなものであるなら、それは、もっとややこしい、不思議なやり方で、情報をプロセスしていることになりますし、ここでおそらく重要なのは、記憶というもののメカニズムについて、わたしたちは、それがいったいどのように作動しているのか、まったくよくわからないということです。

──ふむ。

個人的に面白いのは、そのよくわからないメカニズムを通して、自分自身が「ひとつながりである感覚」というものが、なんとなく生まれているように思える点で、ものすごく乱暴なことを言ってしまうと、眠りが、「わたし」というものに輪郭を与えているのだいう気すらしてきます。

──わたしは夜につくられる(笑)。

眠りと生産性をめぐる議論は、その基本的な建て付けとして、夜が昼に従属している格好になっていて、眠りの時間にあまり積極的な価値が与えられていないんですね。

──結局のところ「昼(=生産性)のために夜はよく休もう」という話ですもんね。

もちろん肉体を休めるという意味では、生産性の議論はその通りだと思うのですが、眠りの時間のなかで頭か心のなかで起きていることは、単なる休息ではないような気がしますし、むしろ昼よりもアクティブになっている可能性だってありそうです。

──そこでは何が行われているんでしょうね。

自分がうまく眠りに落ちていけないときのことを考えてみると、先にもお話したように、かなりパーソナルな感情をめぐる何かであることが多いんです。しかも、それはどうしても昼の頭では処理しきれない、ほとんど身体的な感情だったりしますので、それをめがけていくら「昼間の理性」がなだめにかかっても、プロセッサが空転するような感じになるんですね。個人的な感覚では、ほんとうは、そうした感情は、夜の時間において癒されたり、うまいこと処理されているのかな、と思ったりします。

──昼の理性と、夜の感情。

と言ってしまうといかにもありきたりな図式ですが、もし夜の時間が、昼とは違う原理において動いているのだとすると、眠れなくなるという事態は、夜の時間のなかで取り扱われる何かが、昼の時間に浸食している状態のように感じます。夜の時間に属する何かがオーバーフローして昼に漏れ出していく感じでしょうか。

──眠れないからそうなるのではなく、そうなるから眠れない、ということですかね。

自分の感覚的にはそんな感じがします。

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──どうなんでしょうね。

アイデンティティのようなものと、記憶、そして眠りがどこかで関わり合っているのではないかと感じるのは、以前自分が『WIRED』の編集長をやっていたころに、「アイデンティティ」をテーマにした特集に当事者研究の熊谷晋一郎さんに登場いただいたことありまして、そこで「傷」というものが、アイデンティティに深く関わっているというお話を覚えているからです。

──傷ですか。

はい。熊谷先生は「傷の記憶は、まだ意味を付与されていない記憶といえます」と語っています。

──ふむ。意味を付与されていない、というのは、ここまで話にあった、プロセスされていない状態、と言えるのかもしれませんね。

続けて引用しますと、こうです。

「予期を裏切る新しい経験=傷を痛まないものにするために意味を付与する方法はふたつしかありません。傷を、経験のなかで反復するパターンの一部にしてしまうか、一回きりの物語の一部にしてしまうかです。同じような出来事が何回も起きればパターンとして受け入れることができます。一方で、物語は一度しか起きなかったことを、他者を呼びこむことによって反復パターンの一例にしてくれる。たとえば、世の中には盲腸炎のように一回しか経験されないことがある。誰しも盲腸炎は想定外の出来事ですが、それがトラウマになる人はまれです。一回きりの出来事なのに痛まないのは、人類規模に視野を広げれば、複数の主体間で繰り返されている出来事だからです。ひとりでは繰り返されていなくても、2人以上で反復する『あるある』になれば、物語のレヴェルで意味を付与された経験として回収される。だから、物語にするには他者が必要です。『パターン』はひとりでつくり出せますが、『物語』は他者を必要とする。そのどちらかのやり方で、出来事=傷に意味を与えるしかない。そしてパターンと物語の両方が、人のアイデンティティを形づくる。

つまり、アイデンティティには『永続性』と『連続性』のふたつがあるということです。変わることなく自分はこういう存在だと『パターン』として理解される永続性と、一回しか起きないけれど経時的に連続しているという連続性。そのふたつがアイデンティティを構成します」

──面白いです。

そして、熊谷先生は、人は、昼の時間を「過去」、つまり「傷」を切断して能動体的に生きているけれど、夕方には、その日の出来事=傷を引き受ける中動態的な生き方を、使い分けながら生きているのだと語っています。

「普通、日中は過去を遮断して未来に向けて活動していて、夕暮れ時になるとその日一日を振り返って反省する。そういうリズムをもってわたしたちは生きています。いわば、日中は能動態的で、夕暮れ時に中動態的になっています。どちらにも機能があり、能動や切断が悪とは必ずしも言えません」

──わたしたちは、日々の出来事を、パターンにするか物語にするか、いずれかのやり方でプロセスするための時間をもっているということですね。かつ、そのときの向き合いかたが、実は違っていて、その双方の時間に同等の機能があるという。

熊谷先生は、そこでは眠りについては触れていませんが、「暇なとき」や「覚醒度」が中途半端なときに、辛い過去を思い出してしまうことがある、とおっしゃっています。それはちょうど眠ろうと思って横になったときに、何かが溢れ出てきて眠れなくなるときの感覚に、とても合致するような気がします。

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──なるほど。それにしても、眠りの時間のなかで、わたしたちのなかでは、一体何が起きているんでしょうね。

これは眠りとはなんの関係もない話なのですが、今週の木曜日に、「I am human」(わたしは人である)というツイートが投稿されて、アメリカ国内で少なからず話題になったのですが、このニュースを読んで、人であるというのは、「傷」を負うことなんだなと思ったりしたのでした。

──どういうことですか?

このツイートは、シャカリ・リチャードソンというアメリカ女子100メートル走の21歳の新星によるものです。彼女に何が起きたかといいますと、マリファナの使用でドーピング検査に引っ掛かり、1カ月間の出場停止処分を受けたのですが、そのことによって東京オリンピックの出場資格を失うこととなりました。彼女の説明によると、母親の死にショックを受け、その痛みを和らげるためにマリファナを使用したとのことなのですが、彼女がそれを服用したオレゴン州はレクリエーション目的の使用は合法化されています。それでも、出場規定には反しているということで競技から排除されることとなりました。

──ちょっと可哀想な気がしますね。

早速『The New York Times』が彼女を擁護するコラムを掲載していまして、競技そのものだけでなく、ロールモデルであることが求められることから来る強大なプレッシャーが、いかにアスリートを脆弱な存在にしているかを語り、さらに黒人選手には、些細なミスを犯しただけで凄まじい非難が集まることから、そこにかかるプレッシャーがさらに大きなものとなっている状況を、他の黒人選手のコメントを通して明かしてもいます。

──でも彼女は、そのプレッシャーに負けたわけではないんですよね。

彼女は、母親の死を自分のなかでプロセスすべく、その時間をマリファナの助けを借りて過ごしたわけですが、彼女には、その傷を押し隠して、昼の時間に出ていくすべがなかったのだと語っていまして、それができなかったのは、彼女の若さにももちろん原因はあったはずですが、取りも直さず、彼女への世間の期待があまり大きかったからです。彼女はあるテレビ番組で、こう語っています。

「わたしたちはみながそれぞれの苦しみと戦っています。そのことは分かっています。しかし、わたしは人前に出て、自分の悲しみを隠すすべを知りませんでした。その悲しみを乗り越える方法も知りませんでした。これまでに経験したことがない悲しみだったのです」

──ふむ。

以前ここでもご紹介したことのある、黒人陸上選手で、国家斉唱の際に国旗に背を向けたことで厳重注意を受けたこともあるグウェン・ベリー選手は、先の『The New York Times』にコメントを寄せていまして、こんなことを語っています。

「困難な環境に育った黒人アスリートに、まず何よりも必要なのは、その潜在力を資本化する人間ではなく、支援してくれる人です。彼女は痛みによって、トラウマによって、誤った判断をしてしまいましたが、彼女はまだ若く、助けが必要なのです。けれどもその助けを得る代わりに、罰せられたのです」

──痛みや傷というのは、いい大人になっても扱うのが難しいものですもんね。

記事は、彼女の「I am human」という投稿について、「リチャードソンは、そのツイートで、自明のことを語った。だが、それは言われなくてはならないことだった」と書いていますが、彼女に限らず、人が、最も脆弱になった瞬間において、「自分は人である」と感じて、そう表明する必要を感じるというのは、興味深いことだな、と改めて感じます。というのも、じゃあ、そうやって脆弱ではない時間におけるわたしたちは一体何なのか、とも思ってしまうからです。

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 ──たしかに。制御できない痛みや苦しみを抱えているときに、自分が「人間である」と感じるのだとすると、普段は、基本的には、「人間である」ことを、ある意味押し隠しながら生きているということですもんね。

そうなんですよね。もちろん、傷を押し隠している昼の時間は、そのなかで意志をもって、責任を果たして生きているわけですが、その時間における原理を、どんどん夕方から夜の時間にまで侵食させ、全てを「意志」の制御下に置こうとする方向に向かっているのは、必ずしもアスリートだけが受けているプレッシャーではないようにも感じます。熊谷先生のことばを引用した記事には、哲学者の國分功一郎先生も登場していまして、現代を「意志の時代」と語っています。また、國分先生は「意志というのは『切断』し、過去と決別して何かを始める力」と説明していまして、これが「自己責任」というものを発動させるのだと説明しています。

 ──昼の時間において人は、過去を切断し、未来に向かうという感じですか。

簡単にいうと、そうなるのだと思いますが、とはいえ、先ほどの熊谷先生のお話に戻れば、わたしがわたしであると感じるためには、日中に起きた出来事が、記憶としてプロセスしていく、傷に意味を与えていくことが必要なのであれば、過去を「切断」することはできないはずなんです。

──なるほど、自己責任を前提に語られるいまどきの「未来」が、なぜひたすら空疎なのかが見えてくるような気がします。

今回の〈Field Guides〉に戻りますと、眠りの時間をうまく管理・制御しようと考えることは、もちろん生きていく上でとても大事なことなのですが、それを全面的に自分の「意志」の管轄下においていくような考えから、それをすることは、余計に自分を苦しめていくことになるような気もしてしまいます。

──最も人間的である時間を自分で奪っていることになるわけですもんね。

ただ、過去を振り返るとき、ひとりでやらないようにすることが大事で、むしろ誰かと話すことに治癒の効果があると熊谷先生も國分先生もおっしゃっていまして、そこに他者が介在することが大事だとしています。「他者の存在は『いま・ここ』に人を立たせます」と熊谷先生はおっしゃっています。

──「いま・ここ」がアンカーとしてあることが重要なんですね。

そうなのだと思います。

──そう言われてみると、音楽の意義もわかってくるような気もしますね。音楽はそれを聴いているとき、「いま・ここ」に自分を、常につなぎとめてくれる何かとして、あるようにも感じます。

たしかにそうかもしれませんね。それが「遠くで鳴っている」と感じるとき、「いま・ここ」から離れているのはむしろ自分で、そのとき自分は遠い過去をさまよっているということなのかもしれません。そのとき、音楽は、自分が戻るべき「いま・ここ」を照らしているということになるのでしょうか。

──よくわかりませんね。

はい。よくわかりません。すみません。今回は、要領をえない話でお恥ずかしい限りです。

──よく寝てください。

はい。そうします。


若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。7月下旬に発売となる本連載の書籍化第2弾のタイトルは『はりぼて王国年代記』。Amazonでも予約がスタートしています。


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