A Guide to Guides
週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzが取り上げている「世界の論点」を1つピックアップし解題する週末ニュースレター。原稿執筆時に流れていたプレイリスト(Apple Music)もあわせてお楽しみください。
Olympian sleepaway camp
オリンピック村の暗黒
──おつかれさまです。調子はいかがですか?
生活が完全におかしくなっていまして、寝るのが朝の7時とか8時になっています。
──めちゃくちゃじゃないですか。
そうですね。といって、そのサイクルで規則的に回ってはいますので、身体的にしんどいということもないのですが。
──朝までいったい何してるんですか?
映画を観てることが多いですね。一昨日くらいまでは「アベンジャーズ」シリーズを見返していたのですが、「ワンダヴィジョン」という、スカーレット・ウィッチを主人公にしたドラマシリーズが非常に凝ったつくりで面白かったです。
──「Disney+」で観てるんですよね。
オリンピック競技を観なくてすむよう開催前に加入したのですが、一番大きな理由は、『ブラック・ウィドウ』を観たかったからです。感染のことなどを考えると、劇場に行くのも気が重いですし。
──ディズニーと大手シネコンが揉めているとかで、上映劇場数がえらく少ないですしね。
劇場とSVODプラットホームでの同時公開をめぐって、劇場側が反発から起きている軋轢ですが、コロナ禍による公開延期に耐えきれなくなったアメリカの制作・配給サイドが一気に同時公開に踏み切ったことで、劇場側にとってはかなり不利な趨勢になってしまっています。とはいえ、その流れ自体は不可避の潮流だとは思いますので、日本もいつまでも古いシステムの延命策にばかり血道をあげるのではなく、その先のことを考えた方がいいとは思うんですね。敵対するのではなく、お互いのメリットになるやり方を丁寧に模索したほうがいいですよ。
──オリンピックを観ていると、いつまでテレビ/視聴率ベースのビジネスにしがみつくのか、と思いますよね。
「嵐、桑田佳祐でも…なぜ、東京五輪主題歌は苦戦しているのか」という記事を今日読んだのですが、なかなか面白いもので、テレビ局が五輪に合わせて用意した「主題歌」がこれまでのように流行っていないことの理由を考えてみた、分析というよりは雑感に近い記事ですが、面白いなと思うのは、メディアチャンネルが多様化し、とりわけ若年層のメディア消費がどんどんデジタルへと移行している現状をまるで検討していない点でして、そこをまったく考慮しないところで歌詞の内容がいまひとつ弱いなどと論じてみたところで、およそ意味などないと思うんですね。
──それこそどこのパラレルワールドだって感じですね。
選手側にしても、もはやソーシャルメディアがファンとつながる主要なチャンネルになっているようで、BBCは、TikTokがオリンピックの舞台裏を伝える非公式に公式チャンネルになっている状況を「Tokyo 2020: TikTok becomes the unofficial behind-the-scenes Olympic channel」という記事でレポートしています。
──なるほど。「主題歌」とやらも、ただ漫然とテレビで流していてもダメだということですね。
いま一応Spotifyの日本のチャートをみてみましたが、1〜3位をBTSが独占して「Permission to Dance」は再生回数1億5,000万を超えていますが、嵐の「カイト」は700万再生で、チャートの50位にも入っていません。音楽サブスク後進国の日本では、Spotifyは弱小プラットホームでしかありませんが、チャートを見たついでに「Permission to Dance」を改めて聴いてみたのですが、「ポストコロナ的時代感」という観点から言っても、この曲が公式主題歌ということでよかったんじゃないかという気がしてしまいます。
──このご時世にレディ・ガガを提案資料に入れている電通のおじさんが重宝される大会ですからね。
前回ちらと触れましたが、来年開催のサッカーW杯のカタール大会は、放映権の価格が高すぎて、日本のテレビ局と、放映権販売を取り仕切っている電通の交渉が決裂したと報じられています。「スポーツとTV、蜜月に陰り カタールW杯放送権が暗礁」という記事で、『朝日新聞デジタル』はこう報じています。
NHKが単独で購入した98年フランス大会の国内放送権料は5億5千万円だったが、来年のカタール大会に向けて今回電通がJC(編註:ジャパンコンソーシアム)に示した金額は200億円を超えたという。別の民放キー局の幹部らは「国民的な関心事で4年に1度のお祭りだからと無理をしてやってきたが、もう耐えきれない」「我々も経営体力が落ち、スポーツ中継の赤字を他で吸収するのが難しくなっている。この状況では撤退するのが合理的な経営判断だ」と語る。
W杯の日本戦は過去に高い視聴率が出たことで知られるが、だからといって放送権の購入費を回収できるほど広告料金がつりあがるわけでもない。「たとえ視聴率が60%出るとしても、もう要らない」とはっきり言う民放幹部もいるほどだ。
スリム化にかじを切ったNHKも、コスト削減の一環として「スポーツ放送権料の絞り込み」を掲げ始めた。「いろいろなスポーツ団体との付き合いもあり、スポーツ中継は拡大の一途をたどってきた」(NHK幹部)が、取捨選択する局面に移っている。ほかの番組制作費を削るなか、公共放送が巨大なスポーツイベントに受信料をどこまで使うべきかも議論が分かれるところだろう。
「資金力のあるネット企業が日本でのW杯の放送(配信)に参画するのではないか」との臆測も飛び交っている。米メディアの今春の報道によると、米国ではNFLの一部の試合の放映権がアマゾンに移るという動きがあった。日本でもプロ野球やサッカーJリーグなどを有料配信でお金を払って見る人が増えた。W杯の日本戦も、いつかテレビで無料で見られなくなる日が来るのだろうか。
JCは26年のミラノ・コルティナダンペッツォ冬季五輪から、32年のブリスベン夏季五輪までの4大会の放送権を合わせて975億円ですでに購入ずみだ。その先がどうなるかは「想像がつかない。東京で前提が変わってしまった」と民放関係者は戸惑いを隠さない。「五輪がこれほど嫌われ、放送することが歓迎されない動きが初めて出てきた。この先みんなが忘れてしまえば別だが……」
放送権はこれからも巨額なままなのか。誰がその負担を担うのか。あるいはIOCやFIFAが歩み寄りの姿勢を見せるのか。
──これまでのビジネス構造では、コンテンツそのものを多くの人が見ることができない状況になるということですよね。『ブラック・ウィドウ』の件にしても、劇場数が絞られた結果、Disney+の加入者が増えることになれば、劇場は自分で自分の首を絞めているともいえます。
まさに「コンテンツ・イズ・キング」という状況ですね。とはいえ、オリンピックやW杯といったテレビを主戦場としてきたコンテンツはそれにかかるコストを広告費で補うという構造でしたので、コンテンツホルダー自体も難しい立ち位置に置かれることとなります。
とりわけ、大枚をはたいてグローバルイベントのスポンサーになることのリスクほど、今回のオリンピックが明らかにしたものもありませんでしたから、企業は今後、こうしたところに宣伝費を使うことにはよほど慎重になりそうです。露出が多いからと特に深い考えもなくイベントのスポンサーをしているだけでは、企業は肝心のアスリートの信頼を失うことになりかねませんし、実際、『The New York Times』は、アメリカの女子アスリートが大手企業のスポンサーを断りはじめていると報じています。
──これは前回でも議論されたことですが、結局のところ、「メディアファースト=スポンサーファースト」のビジネス構造のなかで、アスリートが奴隷化させられていたというのが、根源的な問題だったわけですもんね。
シモン・バイルズ選手に触れた前回記事の配信のあとで色々と調べてさらによくわかってきたのですが、アメリカの女子体操に起きていた問題は、チャウシェスク体制下のルーマニア代表コーチとなりナディア・コマネチを育てたカローリ夫妻が、冷戦後にアメリカに亡命し、旧東側諸国の育成システムとエトスを、ロス五輪をもって広告モデルに舵を切ったアメリカのオリンピックに持ち込んだことから起きているんですね。
──おお。話がでかい。
東側諸国がオリンピックに参加するようになったのは実は1952年で、第二次対戦後、冷戦の構図が明確になっていったなかにおいてなんですね。それまでオリンピックを「ブルジョワ的」と唾棄し、ずっと参加を拒んでいた共産・社会主義国が、オリンピックに合流したのは、ひとえにスターリンが、オリンピックを、ソビエトの国力を世界に知らしめる場所として有用だとみなしたからだと言われています。中国は1920年代から中華民国として参加してきましたが、中華人民共和国として参加するようになったのは、ソ連と同じ1952年からです。
──ああ、そうなんですね。
つまり、東側諸国は、スポーツ選手を冷戦を戦ううえでの戦略兵器としてみなし、非人格的なエリート育成システムを完備していくことになります。ちなみに、社会主義国は、オリンピックの設立当初から、その貴族主義的傾向、個人主義的傾向、記録を重視する勝利至上主義的傾向を非難していたのですが、スターリンの意向によって、より極端なやり方で、それまで反対してきた価値軸を導入することになります。
──ふむふむ。
そうやって、スターリン主義的エリートアスリート育成システムが東側に出来上がっていくわけですが、連邦が崩壊し冷戦も終わってそのシステムが崩壊したかというと実はそうではなく、それがアメリカにおいて生き延びる術を見出すわけで、その最大の成功事例が、全米体操協会において恐怖政治によって独裁政権を敷いたカローリ夫妻だったわけです。そのレジームのなかで、500件以上にも及ぶ女子選手たちへの性的虐待が起きていたというのが、バイルズの出場辞退をめぐる歴史的なコンテキストなんです。
さらに、そのカローリ夫妻の専横を許した全米体操連盟のCEOだったスティーブ・ペニーはマーケティング出身の人物で、女子体操を、スポンサービジネスへとつくり替えた人物でした。つまり、アメリカ女子体操を30年近く蝕んできた性的虐待の横行という問題は、極めて図式的な言い方をするなら、スターリニズムと新自由主義経済が結託することで起きていた悲劇だったんですね。
──怖いですね。
「商業主義によって偽装されたスターリニズム」であるというのが、少なくともアメリカの女子体操が明らかにしたオリンピックというものの、ひとつの大きな側面なんです。さらに、ここにナチズムへとつながる国家主義的な水脈もありまして、そうしたもの合流して巨大なヌエのようなものとなったのが、歴史的に見たオリンピックというものなんですね。
調べたところ、近代オリンピック運動の創始者であるクーベルタンは、オリンピックのヴィジョンをバイロイトでワーグナーの音楽に触れたことで得たそうで、イリノイ大学教授ジョン・ホバーマンが1995年に提出した「Toward a Theory of Olympic Internationalism」という論文は、ナチスを経由していまにいたるまで引き継がれたオリンピック精神の本質を、こう分析しています。
ワグネリアン国際主義の存在は、この時期の国際主義者たちのプロジェクトが、ナショナリズムの否定ではなく、国家の偉業を讃えるエスノセントリックな考えに根をもつナショナリスティックな衝動を、コスモポリタンの語彙をもって文化に反映させたものであったことを示している。オリンピック運動を含めた、数ある国際主義的イニシアティブには、偽装された国家主義や当時のヨーロッパにおいてコスモポリタン的とみなされていたカルト的テーマが含まれていた。人種主義的なヨーロッパの神話に根ざした、このような理想主義的コスモポリタニズムは、近代オリンピック運動が掲げる多民族的なアジェンダを必ずしも体現してはいなかった。オリンピズム、ワグネリズム、そしてザルツブルグ音楽祭(1920年〜)は、そうしたなかでも、ヨーロッパの過去のカルト的リアプロプリエーションに根ざしたコスモポリタニズムの典型だったと言える。それらのイデオロギーの参照元は、古代ギリシアであり、ドイツの神話であり、オーストリアのバロック文化にまつわる神話だった。そして、これらのイベントは、別個のものでありながらも、当時の観客にはひとつ連なりのメタジャンルとみなされていた証拠もある。1918年、オーストリアのある評論家は、ザルツブルク音楽祭は、オリンピックの復興に匹敵する『美的体験を実現したフェスティバル』と評している。
──なるほど。IOCは、その設立当初から、国家主義を国際主義によって偽装してきたというわけですね。それが現在にいたるなかで、商業主義が新自由主義に置き換えられ、さらにそこにスターリニズムが合流したということですね。そりゃ相当気持ちが悪いですね。
そして、ドイツ人を会長に抱く、その巨大なヌエは、東京を経て、社会主義の理念を抱く巨大覇権国家であり、IT資本主義の最先端国でもある中国の首都・北京へとなだれこんで行くわけです。
──歴史が大きくうねっている感じがしますね。
「スポーツに政治を持ち込むな」なんていう人は、相変わらず多くいますが、それがどんな世迷いごとか、本当によく考えていただきたいです。
──ほんとですね。
で、唐突に『ブラック・ウィドウ』の話になるのですが、この映画を観ておきたかったのは、この映画が、身寄りのない少女たちを集めて暗殺者に仕立てあげるソビエトの養成機関をめぐる話だからでして、この映画で描かれる内容は、アメリカの女子体操を舞台にした一連の事件の完全なアナロジーになっているんですね。
──映画に描かれる「Red Room」が女子体操における「カローリ牧場」というわけですね。
『The Bulwark』というメディアは、まさにそのアナロジーに基づく論説を7月23日に配信しています。「五輪体操選手、ブラック・ウィドウ、訓練される少女たち:偉大なるスキルと才能の発掘がもたらす残虐さと非人間的規律」(Olympic Gymnasts, Black Widow, and How We Train Our Girls)というタイトルです。
映画『ブラック・ウィドウ』は勝利で終わる。けれども映画館の暗がりから出るとき、穏やかな気持ちではなかった。オープニングモンタージュで、映画は、架空の育成プログラム「Red Room」で洗脳された末、殺人者に変貌していく少女たちの姿を映し出す。そこに様式化された少女たちの姿が挟み込まれる。バレエのつま先立ち、アニメ、体操選手。とりわけ、その最後のイメージが、映画を観ている間ずっとつきまとうこととなった。
Red Roomの訓練によって変形させられ、捨てられた少女たちの物語は、この10年アメリカ体操界を揺るがしてきた物語とさほど変わらない。夏の五輪が迫るなか、わたしはどうやって代表選手たちの強靭な精神を祝福することと、彼女たちを選び出し訓練してきた虐待的なシステムを拒絶することを、どうバランスしていいのかがわからない。(映画の主人公の)ナターシャは壊滅したRed Roomの残骸から立ち昇る煙のなかで映画を終わらせることができたが、アメリカの体操選手は、自分たちを育て上げた虐待のシステムを解除しようと、いまなお戦っている最中にある。
ウィドウたちを育てたプログラムは、武器として利用できる女性のパーツにしか興味を示さず、余剰はすべて捨て去れる。オリンピックはそこまで残虐ではないが、体操選手に限らず多くの女性選手は、過酷な訓練体制のなかで月ごとのサイクルを失う。妊娠したアスリートはスポンサーに罰せられる。ハードル競技のチャンピオン、ブリアンナ・マクニールは、昨年7月に開催される予定だった東京五輪に参加するために、2020年1月に堕胎をおこなった。
──うーん。しんどい話ですね。
記事が言及している『ブラック・ウィドウ』のオープニングシーンは、ダークなバラードとしてアレンジされたニルヴァーナの「Smells Like Teen Spirit」のカバーが流れる暗鬱でいて美しいものでして、オリンピックを覆う暗鬱な状況を、エモーショナルに抉るものでもあるように思いますので、ぜひ観ていただきたいです。
──希望がない感じしますね。
ここまでお話してきたことは、少女たちを餌食にし使い捨てにすることで成り立ってきた体制をめぐるものですが、これは獄中死した幼児性愛犯罪者のジェフリー・エプスティーンの問題とも一直線につながっている話でして、巨額の献金とともに家出した少女の性接待を受け取ることで、エプスティーンとのウィンウィンの関係を築いてきた科学界が、まったくもってアメリカの体操界と変わらないことを明かしていたわけです。
にもかかわらず、ここにきて、エプスティーンとの不適切な関係を告発されMITを追われた元メディアラボ所長の伊藤穰一が、「デジタル庁の事務方トップに」なんていう話が出てくるのを見るにつけ、政府にも、それとつながる民間にも、オリンピックでいまわたしたちが目の当たりにしていることや、マーベルのブロックバスター映画で問題提起されていることのコンテクストすら理解できていないことに暗然としてしまいます。
──いやあ、あれはまたキツいニュースでした。
マーベル映画を観る観ないはどちらでもいいのですが、そもそも一般大衆向けのものであるディズニー映画で語られていることの意味をろくに把握できないということは、ほとんど、世の中のことがわからないということでしょうから、この人選に関わった人たちは、もはや暗愚と言っていいんじゃないですかね。
──言ってもG指定の映画ですからね。
伊藤穰一の問題については、他の大学もエプスティーンのお金を受け取っていたじゃないか、という擁護論もあるようですが、他の大学に先んじて金銭授受を認めて謝罪した点はよかったですし、ハーバード大学などが完全にほっかむりしたのに比べれば、人のよさも感じなくはないものの、結果として、その謝罪で嘘をついていたのがバレたところがしょぼい上に悪質だったとも言えます。その辺の経緯については以前に書いたことがあるので、そちらを読んでいただけたらと思います。
──海外に向けて発信されるメッセージも最悪ですよね。
伊藤は科学界のボーイズクラブのなかでも稀有なアジア人で、しかもアンチエスタブリッシュメントの気風を強く謳う人でしたから、白人ボーイズクラブがリベラル風を偽装し、その痕跡をロンダリングするには便利なアイコンだったのだろうと感じますが、といって、その名前が政府のど真ん中にあって「誰も取り残さない」とか言ってみたところで、海外はもちろん、日本でもちょっと通用しないんじゃないですかね。
──ですよね。
無理ですよ。
──どうしたらいいんですかね。
民間からそれっぽい人を連れてきたところで、筋の悪い官僚と暗愚な政治家に木偶人形化させられるだけだと思いますので、本気でちゃんとやろうと思うなら、官僚の奸計やバカな政治家の扱いにも長けた肝の据わった切れ物を内部から起用するしかないと思います。どうせ、デジタル庁は出だしから躓きますし、打ち上げ花火としてもすでに不発ですから、良識ある官僚がいるのであれば、その後のことを見据えて、地に足のついた地味な作業を積みあげて、小さくてもいいので結果を出していくしかないと思います。
──結果というと?
信頼の回復ということです。
──この1年半でだいぶマイナスが貯まってしまいましたからね。
回復を焦って、悪目立ちするような人事案ばかり巡らせていると、さらに負債が増えるだけなんですけどね。なぜそれがわからないのかが、ほんとうに理解できません。
──どこにも希望がない感じです。
そんなこともないんですよ。今週1週間は、ずっとオリンピックに関する自由研究をしていまして、その一環で『スティック・イット!』という2006年公開の女子体操映画を観たのですが、これなどを観ると、希望のようなものが、面白いかたちで今回の五輪に引き継がれていることがよくわかります。
──『スティック・イット!」? 知らないですね。
これはキルスティン・ダンストが主演したチアリーダー映画『チアーズ!』の監督が『チアーズ!』に続いてつくった作品なのですが、まず前提として『チアーズ!』が、どういう点で画期的だったかを説明する必要があります。
──ほお。
『チアーズ!』は、まず白人による黒人文化のアプロプリエーション(文化盗用)をストーリーのど真ん中においたという意味で、ティーン向けの青春スポーツ映画としては大きな功績があったとされています。かつ、こうした問題を正面に据えたことで、それまでのスポーツ映画にあるような、主人公のチームが大会に勝ってハッピーエンドになるという結末を選びとることができないようになっています。
──アプロプリエーションを問題にしておきながら、結局勝つのは白人かい、となってはただただウォッシングですもんね。
はい。ですから映画は主人公のチームは、エンディングで優勝を逃すのですが、その代わりに主人公は、とても大事なものを手に入れることとなり、その点においてハッピーなエンディングとなっているんですね。
──大事なもの、とは。
こう言ってしまうとクサいのですが、それは、たとえば友情であったり、他者へのリスペクトであったり、チアそのものへの愛であったり喜びであったり、といったことですね。
──面白いですね。ある意味、「勝利」というものが相対化されているわけですね。
はい。で、その次作の『スティック・イット!』で監督のジェシカ・ベンディンガーは、女子体操の世界を舞台に、同じことをやるんですね。
──なるほど。
ただし、今作で問題になるのは、オリンピックでの金メダルと引き換えに、自分のすべてを採点対象として差し出させられ、しかも減点法という採点方式によって、自己肯定感はおろか、青春時代のすべてを奪い取っていく体操競技のシステムそのものなんです。
スポイラーになってしまいますが、映画はラストで、選手全員が競技をサボタージュすることで、勝者を決める権限を審判団や競技主催者から、自分たちの手に奪取するという、非常に胸のすくハッピーエンドを迎えます。ここでも、表彰台に立つことへのコミットメントを捨て去ることでもっと大事な何かを手に入れることができる、というメッセージが非常に強く打ち出されていまして、それこそ今回のオリンピックで衝撃を与えたシモン・バイルズ選手の出場辞退を先取りしていたとさえ言えます。
──2006年にそんな予言的な映画が。
『チアーズ!』と『スティック・イット!』については、アートフィルムのSVODプラットホーム「MUBI」が配信している「The Take」という、非常にためになって面白い映画解説動画シリーズがありまして、「自己言及的ティーン映画は、いかにティーン映画そのものを殺しかけたか」(How Self-Aware Teen Movies Almost Killed the Genre)という回で、詳細に検討されています。さらに動画後半には、ベンディンガー監督自身のインタビューも収録されていまして、そのなかで彼女はこんなことを語っています。
Patriarchy(家父長制)を原理としたスポーツは、勝者を決めるためには敗者が必要だとするゼロサムゲームです。一方、Matriarchy(家母長制)が考えるスポーツは、そうではなく、みんなが勝者になれると考えるんです。
──ああ、なるほど。
スポーツというものをめぐるこうしたオルタナティブな考え方は、それだけ聞くと、そんな考えでみんなが感動できるスポーツになるわけないじゃないか、といったことを言う人もいそうですが、今回のオリンピックは、そうしたオルタナティブなスポーツの面白さや気持ちのよさに、みんなが気づいた大会でもあったんですよね。
──と言いますと?
『日刊スポーツ』から、荻島弘一さんという記者の方が書いた「『国も順位もなし』がスケボーの常識 このカルチャーで『五輪が変わる』」というコラムが配信されたのを読んだのですが、これがとても面白い記事だったんです。
スケートボードならではの光景だった。選手は1本滑り終わるたびに他の選手とハイタッチし、抱き合った。高度なトリックが決まるとボードをコンクリートにたたきつけて喜び、歓声をあげる。心からスケートを楽しみ、笑顔で滑る。新しい五輪の風景は、テレビを通して伝わった。首をかしげる人もいただろう。しかし、多くの人にはポジティブにうつったはずだ。
スケートボードに国境はない-。もともと国という意識は薄い。プロツアーでも、Xゲームでも、選手は個人で参加する。国歌もなければ国旗もない。国を意識することもない。
6年前、スケートボードが東京五輪の追加種目候補になった会見に、堀米雄斗と瀬尻凌が並んだ。「好きな選手は?」という記者の質問に「ナイジャ・ヒューストン」。記者が「どこの国の選手ですか?」と聞くと、2人は顔を見合わせて「知りません」。それがスケボーの常識なのだ。
──あはは。出場国を知らないっていいですね。Z世代感あります。
さらに記事は、こう書いています。
スケートボードに順位はない-。より上位を目指すのがスポーツだが、スケーターにその意識は薄い。もちろん、結果としてのメダルは求めても、最終目標ではない。岡本は金メダル狙いで大技をやったのではという質問に反論した。「目標は金メダルではなく、自分のルーティンをすることでした」。だから、仲間たちは挑戦をたたえた。
大会で、ある選手が大技に挑んだ。失敗して滑走を終えると、他の選手たちが「もう1度」とばかりにボードを慣らす(原文ママ)。観客も呼応して歓声をあげる。再度大技に挑戦して失敗、さらにもう1度…。5度目くらいで成功すると、優勝者以上の拍手と歓声が起きる。もちろん、競技は中断したままだが、オフィシャルもやめさせようとはしない。不思議そうに見ている記者に「これ、普通ですよ」と関係者が耳打ちしてくれた。
国も背負わない、順位にも捕らわれない。それが、スケボーやサーフィン、BMXフリースタイルなどエクストリームスポーツのカルチャー。国を背負って順位を争う五輪の仲間入りすることで、本質が失われることを危惧する声は今もある。国際サーフィン連盟のアギーレ会長は笑いながら言った。「我々のカルチャーは変わらない。五輪が変わるんだ」
──今大会はたしかに、エクストリームスポーツに馴染みのない人が、それに触れる絶好の機会だったわけで、実際、五輪にまつわる重苦しい気分のなかで、国や順位を気にしないスケボー文化に救いを感じたと言う知り合いもいましたので、それも今回のひとつのレガシーですね。
スケボー競技で一躍注目を集めた宮崎出身の英国代表スカイ・ブラウン選手も、自分は初めて知ったのですが、その活動の主戦場が完全にYouTubeになっていまして、チャンネル登録者数は30万人以上、一番観られている動画は300万再生回数なんですね。つまりファンとのコミュニケーション回路も、ビジネスモデルも完全にデジタルデフォルトになっているということでして、その辺も含めて、エクストリームスポーツが、スポーツ全体にもたらすものは大きいはずです。デジタルトランスフォーメーションとダイバーシティトランスフォーメーションは、基本“セット”ですから。
──なるほど。
『スティック・イット!』の先見性は、実はそういったところにもあるんです。主人公はメンタルの問題から、国際大会の本番前に会場からトンズラして、チームの五輪出場を不意にしてしまい、自分は自分で体操界から追放されるんです。それで、やさぐれてしまうのですが、その彼女が、体操に代わる情熱の対象とするのが、BMXなんです。
──へえ。よくできてますねえ。
映画の冒頭は、スケボーとBMXのバトルのシーンから始まるんですが、「あれ? 観てる映画間違えたかな?」と思ったほどです。で、その彼女が体操界に復帰して、BMX的なカルチャーを所属ジムに吹き込んでいくこととなります。という意味で、これはたしかに予言的な映画なんです。
──観ないとですね。
ただ、残念ながら自分が加入しているSVODプラットホームにはなかったので、検索して探してみてください。加えて、勝利を捨てることで、より大きな何かを得ることができる、というテーマについては、そうした体験を実際に生きた、アメリカの体操選手ケイトリン・オオハシさんのミニドキュメンタリーをおすすめします。また、エリートコースを離れて、大学へと活動の場を移したオオハシ選手を支えたUCLAの伝説的コーチ、ヴァロリー・コンドス・フィールズさんのドキュメンタリーも感動的で、ともにボディシェイミングの問題にも強く光をあてています。
──ケイトリン・オオハシさんは、前回ここで紹介したシモン・バイルズ選手をめぐる『TIMES』の記事を書かれた方ですよね。
はい。彼女自身のストーリーを知ると、バイルズ選手について書いた「それは旅であり、彼女のスポーツなのだ」ということばもいっそう胸に迫ります。
──今回も結局『Quartz』の特集に触れずじまいでした。
今回は〈Weekly Obsession〉から「選手村」というテーマを選ぶつもりだったのですが、段ボールベッドとか、コンドームとか、わりと知っている話が多かったんですね。唯一面白かったのは、選手村の歴史年表ですが、男女が同じ区域で寝泊まりするようになったのは、1956年のメルボルン大会だったそうで、その当時は、フェンスで男女の区域が仕切られていたそうなんです。ところが大会中に、フェンス近くに男性の足跡があったことから誰が境界侵犯したのか調査したら、犯人は棒高跳びの選手だった、というエピソードがありまして、これは笑いました。
──今回のQuartzの小特集もそうですが、「平和」や「調和」といってる割には、選手村の話題となるとセックスしかないというのも、なんだかなですよね。
それは、おそらく冒頭にお話した、そもそもの五輪の偽装性とも関わるところではないかと思います。スターリン式の軍事訓練的なプログラムのなかにセックスをどう位置付けるかというと、基本ひたすら禁欲を強いるか、性処理という観点から実利的に対処するかになると思うのですが、端的にいえば、表向きに謳われる高貴さの装いを保つために必要とされる隔離された処理空間と、主催者側は、現状の選手村をみなしているのではないでしょうか。
──それをバッハ会長がにたにた監視している、という構図ですか。まじえぐいですね。選手村の何が人を落ち着かない気持ちにさせるのか、ちょっとわかった気がします。
そういう気持ち悪さが、いたるところでつきまとうのが、結局のところオリンピックというものなんですね。そもそもなんであんなふうに、選手を監禁状態におかねばならないのか、よくよく考えたら意味不明じゃないですか。そこが友情を育む場所であるということはあるにはあるんでしょうけれど、隔離する意味はわからないですよね。結局のところ、土台の発想が、軍隊か、せいぜいボーイスカウトなんですね。
──ほんとに気持ち悪いです。
ちなみにボーイスカウトというものも、冒頭の方に紹介した19世紀の国際主義の興隆のなかから生まれたムーブメントなんだそうです。
──あれま。いい加減、そういう「よくよく考えるとなんでそれが当たり前になっているのかよくわからない慣例」みたいなものを、批判的に理解して、ちゃんと解除したほうがいいですね。
リオ五輪では45万個のコンドームが必要となったそうですが、それほどの数のコンドームが必要な巨大隔離施設が、巨額の予算を投じて都市の内部につくられて、それでもって「平和」と「調和」の祭典であると言われて納得してしまっているのだとしたら、そのこと自体のばかばかしさに、いいかげん気づきたいですね。
──音楽フェスでそんなことやったら大ブーイングでしょうからね。
そのオリンピックも、ようやく本日で終わりですが、今回の〈Weekly Obsession〉には選手村を含む、新たなインフラが、いかに大きな爪痕を残してきたかを明かす記事やレポートが紹介されていまして、こうした検証も今後必要だろうと思います。間違いなく負の遺産は多く出てきますでしょうから、それらの負債が今後の東京にどういう影響を与えるのかは重大な問題ですが、冥土の土産としてオリンピック開催に血道をあげた人たちは、気分よく死ねるのだとしたら、本当にいい気なもんです。
──その前にパラリンピックは、果たして開催できるのかという問題もあります。
どうでしょうね。ここでもまた悶着がありそうですね。バッハ会長は、IOCの損失は保険でカバーできると改めて明言していますから、一方的に政府と組織委に決定の下駄を預けられた格好になってしまいましたよね。政府としてはIOCやNBCの意向にすることもできませんから、開催するも地獄、しないも地獄、まさに八方塞がりです。よくもまあ、そんな苦しいコーナーに自分を追い詰めたもんだと感心しますが、どうなりますか。
──いつになったら晴々とした気持ちになれるんでしょうか。
ほんとですね。わたしもそれが知りたいです。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。本連載の書籍化第2弾『はりぼて王国年代記』のお求めは全国書店のほか、Amazonでも。
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