A Guide to Guides
週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzが取り上げている「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが解題する週末ニュースレター。若林さんが原稿を書きながら聞いていたプレイリスト(Apple Music)とあわせて読むと、もっと楽しいですよ。
Building an antilibrary
積読のライブラリー
──こんにちは。ごきげんいかがですか?
感染者が急増しているのと、お盆だということもあって、人とも会わず、事務所の地下室で、ずっと内に籠もっている感じです。
──何してるんですか?
何もしてない時間が多いですね。この数年に書いた原稿なんかを読み直してみたりしています。
──面白いですか?
どうでしょうね。こんなの書いたのをすっかり忘れていた、というようなものは案外面白く読めたりしますが、自分としては同じようなことを、題材を変えて書いているだけという感じもしてきますね。
──ここでも、まあ、わりとそんな感じのところありますよね(笑)。
新しい情報が入ってきても、それを仕舞い込む引き出しはだいたい決まってきている感じがいつもしますから、それに対する飽きはあります。
──よくもあれこれと色んな話をするものだと、トークイベントなどに参加する方などは思ったりするんじゃないかとも思いますが。
色んなことを話したり書いたりするわけですけど、この間、自分はいったい何をしてるのかぼんやりと考えていまして。特に何か重要なことを考えたいとか、伝えたいとかいう気持ちは、よくよく考えるとそんなにないんですね。
──あ、そうなんですか。
先日、仲良しの編集者に「書き手になりたいんですか?」と聞かれたんですが、書き手になりたいと思ったことは、昔もいまも、実はほとんどないんです。
──そうなんですね。
ないんですよ。自分の書くものがそこまで世にとって大事なものだとは思っていなくて、深夜のファミレスで交わす会話くらいのものだといつも思ってます。この連載なんかはまさにそうじゃないですか。
──たしかに(笑)。
最近はすっかりできなくなっちゃいましたが、深夜の駄話みたいなものは、やっぱり楽しいわけですね。「あのニュース見た?」とか「あの音楽聴いた?」といったところから、あれこれしゃべっていくのは、それ自体に楽しみがあって、自分が、いまの仕事を続けていられるのは、その楽しみの延長にそれがあるからのように思ったりします。
──どの部分が面白いんですかね。
数年前に高校時代の同級生の会合に顔を出しましたら、高校以来会ってなかったような友人に、「ボブ・マーリーがいいよって教えてもらって、その日に買った」なんていう思い出話を聞かされて、「へえ」と思ったんですが、自分には彼とボブ・マーリーの話をした記憶なんて微塵もないんですね。というか、他人にボブ・マーリーを薦めた記憶そのものがないので、自分としてはとても意外だったんですが、その彼に言わせると、「そのときやってたことと、いまやってることが全然変わらないな」ということになるらしく、それについても、「ああ、そうなのか」と思ったりしました。
──あれいいよ、とか、これいいよ、とかを適当に薦めてまわる、と。
そうみたいですね。高校の頃からボブ・マーリーは好きでしたが、「これ聴かないとダメだぞ」みたいな感じで、強く人に薦めるほど強固にボブ・マーリーの良さを言語化できていたとも思えませんから、おそらく会話の流れのなかで適当に言及しただけのような気がしてならないのですが、当人は薦められたと明確に認識していたのが本当に意外で、面白いものだなと思いました。
──自分が話したことの重要性は、自分ではわからないものですよね。適当に言ったことが、わりと深刻に人に影響を与えてしまうことがありますからね。
そうですね。とはいえ、自分が薦めたことで、相手が熱心なラスタファリアンになったとか、マリファナ解禁論者になったというわけでもないので、影響を与えたといっても微々たるものだと思いますので、そこまで罪は大きくないと思いますが、音楽の情報の面白さというか、自分が好きだなと思うのは、その罪のなさというか、影響の小ささのようなところかなと思います。
──そうですか。
たしかに、長い目で見てそれが人に大きな影響を与えることはあるのかもしれませんが、それはその人が、その情報を自分の人生のなかで自ら大きく育てたということでしょうからあまり自分とは関係がないように思いますし、ほとんどの情報は、そんなふうにはならず一過性のものとしてやり過ごされるものです。言っているほうだって忘れているくらいですし、こちらとしても、映画であれ、音楽であれ、本であれ、そのときにはそれが面白く思えたという程度のことだったりしますから、そこまで人生を賭けて薦めたりはしないですし、そんなことを考えてたら、深夜の駄話なんかできませんよね。
──たしかに。
それがメディアの仕事となってきますとそれなりの責任を負いますが、例えば雑誌のカルチャー欄で本や映画を取り上げるにしたって、メディアごとの条件はあるので純粋に主観的に選べるわけではないにせよ、そもそも自分のアンテナに引っかかった情報には、情報を取れる量や経路に限界がありますし、自分の興味の範疇にも限界もありますから、客観的にありとあらゆるものをスキャンした上で選びとるなんてことはできないわけですね。自分に近いところにある情報というものは、そうやってすでに主観的に選び取られているわけですから、まあ、だいたいのところが、情報の取捨選択なんていうのは、主観に基づくものなんです。
メディアに載ると、それがあたかも「全部」のなかから選ばれたように感じ取られるかもしれませんが、実際はありあわせを見繕ったというのが、自分の感覚としては近いように感じますし、それは高校の同級生にボブ・マーリーを薦めたのと、実態としてはあまり変わらないように感じます。というのも、たぶん、そのときそれを薦めたのは、それが「客観的に良い」からではなく、自分がそのとき好きだったからという要因のほうが大きかったはずですから。
──でも、少なくとも、人からは、より広範にスキャニングしていて、より客観的な情報をもっているように見えるんですよね。きっと。
高校当時の記憶をたどると、仲の良い友人とは音楽の話しかしていなかったように思いますので、はたからすると、たしかに情報をたくさんもっていたように見えたのかもしれませんが、といって百科事典的な知識をもっていたわけではありませんし、それはいまも別にそんなことはなくて、新譜紹介のマイクロコンテンツをやっていますが、実際のところ、紹介するもののうち、自分がよく知っているアーティストの作品なんて、多くて3割くらいで、紹介するにあたって初めて知ったというのがほとんどだったりするんです。
──あ、そうなんですか。あたかも“よく知ってる”感じの書きぶりじゃないですか。
「へえ、面白い音楽があるもんだ」と発見して、「で、どういう人がつくってんの?」とちょっとしたリサーチなどをして、その上で書いているので、結果として知ったかぶり感は出るわけですが、その作品を投稿を通して初めて知った人がいたとしても、その体験の実質的な時間差はほんとうに1日分くらいだったりしますので、特段こっちが何かをよく知っているというわけでもないですし、特殊な情報源をもっているわけでもないんです。
──ふむ。
加えて、毎日のように自分が面白いと思う新譜を探し続けることが作業として持続するためには、そこに自分にとっての発見のプロセスがどうしたって必要で、逆にいえば、「面白いもの見つけた!」というわりとシンプルな喜びがあるからこそ、日々続けられるということなんだと思います。
──なるほど。色々あるものの中からキュレーションしている、という感覚とは違うんですね。
違うんですよね。自分が聴きたいものを探しているだけという感じに近く、そのプロセスのなかで「いいもの見つけたぞ!」と嬉しくなって人に見せびらかしたいだけなんです。いいものを見つけると、どうしても人に話したくなる、という性行が自分にはとても強くあるという自覚はあります。
──しゃべりたくなっちゃう。
ですね。かつ、その「面白いものをみつけた」という感覚は、もちろん、その内容と深く関わってはいるのですが、それ以上に、「自分がなぜそれを面白いと思うにいたったか」というところに大きな比重がありまして、音楽については、ストリーミングの時代になってからは、何かを発見することと、その内容に実際に触れることにほとんどタイムラグはありませんが、音楽をレコードやCDで購入していた時代や、あるいは本といったものは、「発見の喜び」と「コンテンツの喜び」は時間差がありますから、「発見の喜び」は「コンテンツの喜び」は、実際は、異なるものだったりするんですね。
──ああ、なるほど。たしかに。
「良さそうなのを見つけた!」というところの喜びや楽しさは、実際のコンテンツの喜びや楽しさとは切れているように自分は感じていまして、かつ、自分の場合、「良さそうなのを見つける」ことの喜びにかなり大きな比重がありまして、映画なんかだとよくあるのですが、「面白そうだなあ」と思ってワクワクしているうちに満足してしまって、結局観ない、なんていうこともままあります。
──そうか。今回の〈Weekly Obsession〉は「Tsundoku=積読」をお題としていますが、この話をされていたわけですね。
「積読」ということばは、日本語ですと明治期からあるそうですが、欧米では2017〜18年くらいを境に英語として一般化したようです。それまで英語には「積読」という状態を表すことばがなかったそうで、『TLS』というメディアに掲載された「積読の治癒?」(A cure for Tsundoku?)では、このことばの発見のインパクトを、こんなふうに紹介しています。
それはまるで西欧医学では症状として認定されておらず未知な病状に、名前があったと知るのに似ている。
──あはは。みんなやってることなのに、名前がない行為だった、と。
2017年の『HuffPost』の記事「実際読めるよりも多くの本を買い込んでしまう人には日本語名がある」(There’s A Japanese Word For People Who Buy More Books Than They Can Actually Read)では、それまで英語に対応することばとして、「Book Hoarding」をあげていますが、これは「本を買いだめする」という意味です。
──積読とはだいぶニュアンスが違いますね。
この記事は『LA Times』の別の記事「本を買いだめしてる? それには名前がある」(Are you a book hoarder? There’s a word for that)を紹介していまして、そこでは「Book Hoaarding」をひとつの症候群としています。あるいは、その最も重度な症状の持ち主として、いわゆる「Bibliomania」(蔵書狂)を取り上げていまして、実際に19世紀には、これはひとつの病気として恐れられていたそうなのですが、いずれにせよ、読み切れないほどの本を集めるという行為は病気だとみなされてきたという認識が、欧米人が「積読」というものを理解する上での基盤としてあったわけですね。
──積読は、収集・蒐集という行為とも違いますから、コレクションをつくっていく行為とは違いますよね。病気と言われるのも、ちょっと違うと思いますし。
であればこそ、その行為をある意味ニュートラルに捉えた「積読」の語にインパクトがあったのだとは思いますが、それでも記事を読むにつけ、それは「やめた方がいい習慣」であるといったニュアンスで語られるものが多いんですね。
そんななかで面白い視座を授けてくれるのは、ナシーム・ニコラス・タレブでして、彼は「蔵書」というものが何であるのか『ブラックスワン』のなかで言及しています。日本語版がすぐ出てこなかったので、『FS』というメディアに掲載された記事「反図書館:読んでいない本が最も重要な理由」(The Antilibrary: Why Unread Books Are The Most Important)で引用された部分を日本語に起こした下手な訳で申し訳ないのですが、タレブはこんなことを書いています。
作家のウンベルト・エーコは博覧強記で深い洞察をもち退屈させない、数少ない学者のひとりである。彼は私設の巨大な図書館をもっているが(3万冊の蔵書が収められている)、ここを訪れる訪問者は2種類に分類することができる。ひとつ目は、「エーコ先生、なんと素晴らしい図書館でしょう。すべて読まれたのですか?」と尋ねる類で、ふたつ目は、私設図書館とは肥大したエゴの従属物ではなく、リサーチの道具であることをわきまえた、ごくごく少数のマイノリティだ。図書館とは、自分の知らないことを、自分の懐が許す範囲で、蓄えておくためのものなのだ。年を経るごとに知識は増え、本も増える。そして未読のままの本は、棚から恨めしげにあなたを見下ろす。そうなのだ。知識が増えるほど、未読の本の列も増えていく。こうした未読の本のコレクションを、アンチライブラリーと呼ぶとしよう。
わたしたちは、自分の知識を、それを保護し守るべき私有財産であると考えがちだ。であればこそ、それは自分を高い地位に上げてくれる飾りだと思ってしまう。エーコの図書館を、既知であることに基づいて賞賛することは、人間の精神の働き全体に及ぶバイアスをなしている。人は、あなたが何を学ばず、何を経験せずにきたかを記した反履歴書を持ち歩いたりはしない(それはあなたの競合者がやることだ)が、本当はそれをすべきなのだ。わたしたちは、図書館をめぐる論理を転倒させるだけでなく、知識というものをめぐる考え方をひっくり返す必要がある。
──面白いです。
記事は、タレブのこの見解に、わかりやすい解説を加えてくれていますので、それも引用しておきましょう。
いい図書館は読んだことのない本に満ちている。だから意味があるのだ。未知なるものとの関わり方こそがタレブの解説によって有名になった問題、すなわちブラックスワンという問題の根底にある。自分たちが知らないことの価値を過小評価し、知っていることを過大評価することで、わたしたちは想定外のことが起きる可能性を根本から見誤るのだ。
──なるほどなるほど。その見方でいくと、積読された本は、読まれてはいないという意味では「未知」ではありますが、少なくとも購入者にとって、「それが未知である」と認識されている上では「既知の未知」と言えそうです。
まさにそうです。本を買うという行為が、それ自体とても重要なのは、それが自分にとって完全な「未知」ではないからです。つまり、自分が聞いたこともないような領域に関する本を、人は買うことはできないわけでして、逆に言えば、ある本を買うとき、人は、自分にとって既知の知識に足りていないかもしれない「未知」を探り当てていることになります。であればこそ、積読されている本は、未知と既知の境にあって、固有の位置付けをもったものなんですよね。
──たしかに。その本を完全に既知のものとみなすのであれば、わざわざ買わないでしょうし、わざわざ買うからには、そこに自分の既知を拡張してくれる未知が見つかるかもしれないと感じるからですよね。
未読の本は、そういう意味では、自分の既知と未知の境界を描くものでして、タレブがいうように、知識が増えるほど未読の本も増えるというのは、だからこそなんですね。自分が知っている領域が大きくなればなるほど、未知と接する境界線も当然長くなっていくわけですから。
──ウンベルト・エーコの図書館は、どこでエーコが未知というものと接しているのかを明かすものだということになりそうですし、部屋のなかで積読された本も、まさに同じですよね。
そうした新たな未知を見つけることは、おそらく、それ自体が知的な営為だと思いますし、案外そこが一番わくわくする部分でもあるのかもしれません。というのも、そこには常に「期待」というものがあるからですし、その期待は、それ自体が自足的な喜びなんだと思うんです。つまり、知らない世界への扉を手にしているわけですから。
──そう考えると積読というのは、ひどくロマンチックなものでもありますね。
未知を身の回りに置いておくということですからね。ちなみに、ライブラリーということでいえば、この秋に早稲田大学に「村上春樹ライブラリー」なるものが開館し、氏の蔵書やレコードコレクションなどが収蔵されるそうですが、村上さんは、このライブラリーについて、今年の4月にこんなふうに語っています。毎日新聞の「『物語を拓こう、心を語ろう』 早大、村上春樹ライブラリー開設へ」という記事の引用です。
「ライブラリーのモットーというか、入り口に掲げられる言葉は、『物語を拓(ひら)こう、心を語ろう』というものです」
その「心を語る」ことは簡単そうで難しいと村上さんは述べ、こう続けた。「僕らが普段『これは自分の心だ』と思っているものは、心の全体のうちの、ほんの一部分にすぎない。(中略)残りの領域は手つかずで、未知の領域として残されています。でも、僕らを本当に動かしていくのは、その残されたほうの心です。意識や論理じゃなく、もっと広い、大きい心です」
この未知の領域を探り当てる役割を果たすものの一つが「物語」であり、「言葉にならない心をフィクションという形に変えて、比喩的に浮かび上がらせていく」のが小説家のやろうとしていることだ、と語った。「一段階、置き換えられた形でしか表現できない」小説は「直接的には社会の役にはほとんど立たない」けれど、「小説という働きを抜きにしては、社会は健やかに前に進んでいけない」
これは必ずしもタレブが語ったことと対応しているわけではないのですが、タレブが知識というものが「既知」にフォーカスを置きすぎていて、それが人間の精神に大きなバイアスを与えていると語るとき、当然、そこでは人間の心というものも大いなる未知として捨象されているわけでして、その未知を、わたしたちは、ほんの一部の知識・既知でもって、その全体を無理矢理推しはかろうとしてしまうか、存在すらしないことにしてしまっているわけですよね。
村上さんは、物語というものが、少なくとも心という未知なる領域の知られざる姿を映し出すメタファーになりうると考えるわけですが、こうやって村上さんが、わたしたちが、こんなに科学やデータが発達した社会にあっても、広大な未知のなかに生きていると認識していることは、それ自体が嬉しいことだな、と個人的には感じます。
──わからないことだらけだ、と。
村上さんは、「心の全体」ということばを使われていますが、これを読むときに大切なのは、「心の全体」というものが、所与のものとして存在しているわけではないということだと思いますし、なんならそんな「全体」が存在するかどうかすらわからないことが、未知なるものの未知たる所以だと思うんです。図書館の話で言いますと、昔から、世界のあらゆる知識を詰め込んだ「ユニバーサル・ライブラリー」というようなアイデアはありまして、グーグルなんかはそうしたアイデアに強く感化されてきたはずですが、タレブが転倒しなくてはならないと指摘しているのは、まさにこうした発想に隠れたバイアスなのだと思うんです。つまり「全体がある」という発想そのものですね。
──ふむ。
もちろん「テキストや記号として情報化されたもののすべてを収蔵する」という野心は、それはそれで現実味はあるのかもしれませんし、あらゆるモノやデータをインデックス化していくことも、人の生活がデジタル化していけば可能にもなっていくのかもしれませんが、それにしたって、データ化できることがデータ化されるにすぎませんので、結局は、「全体」を描き出すには、どこまでいっても至らないのではないかと思わざるをえません。
──つまり「知識全体」といったときに何をさすのか、ということですよね。
はい。例えば「世界の音楽のすべて」といったときに、そんなものを捕捉することはできませんし、情報化されたものだけに限っても、それをすべて集約するようなことが可能とも思えません。それは西欧文明においては、見果てぬ夢なのかもしれませんが、自分にはそれが魅力的な夢には思えませんし、タレブの言うように、知っているにしたがって知らないことが増えていくのであれば、知識全体というもの自体が、フィクションでしかない気もしてきます。既知が増えていけば未知が減っていく、という考えは、どうも知識というものをめぐる実感的な体験とは違っているようにしか思えませんし、むしろそれはコインの表裏をなしていると考える方がまだしっくりきます。
──未知や未読は、欠如とみなされているわけですよね。であればこそ「病気」として認識されてしまう。
何かを知らないことは欠如でも欠落でもないですよね。知識の裏には常に反知識が貼りついていて、知識が増えれば増えるだけ、それも増えるわけで、だからこそ、さらに知識を求めるのだと思いますが、それは、それ自体が面白いからであって、反知識を減らしたいからではないはずです。それは、ただただ健全な好奇心ですよね。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。本連載の書籍化第2弾『週刊だえん問答第2集 はりぼて王国年代記』のお求めは全国書店のほか、Amazonでも。
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