A Guide to Guides
週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzが取り上げている「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが解題する週末ニュースレター。今週は無神論をテーマにした〈Weekly Obsession〉を引き合いに、あらゆる局面において発動されるべき「意思」について。
Atheism: A crash course
無神論のジェネロシティ
──こんにちは。調子はいかがですか?
いたって快調ですが、生活パターンは相変わらずめちゃくちゃです。今日も朝の8時に就寝しました。
──で、何時に起きたんです?
14時すぎに一度起きたのですが、また寝てしまいまして16時におきました。19時くらいに事務所に来まして、これを書いています。
──いま、ちょうど21時半ですね。
書き終えるのに大体5〜6時間かかりますので、午前3時に終わる感じですかね。
──めちゃくちゃですね。
でも、平日は用事があれば9時半に出社したりもしますよ。
──とはいえ、完全な夜型。バンパイアみたいな生活です。
日中が好きじゃなくなっている感じはするんですね。夜中になると、ようやく社会と切り離された気持ちになってほっとする感じがあります。それ以外の日中は、なんと言いますか、「社会」と関わることが鬱陶しいなというか、うんざりしている感じがありますね。
──まあ、ニュースなんかを見てもしんどい話ばかりですしね。最近ですと、パラリンピックが始まりましたし、フジロックをめぐるあれやこれやなどもありました。
パラリンピックの開会式は「見逃し配信」というので見ましたが、そもそもなんで「見逃し配信」なんていう呼び方をしているのか、よくわかりませんよね。ただの動画配信だと思うのですが。内容そのものにたどりつく前で、そういうところにいちいち引っかかってしまったりするのも、なんだかめんどくさいんですよね。
──たしかに(笑)。
似たような話ですと、例えば毎日新聞の記事を読んでいると「SNS」の記載にカッコ書きで必ず「会員制交流サイト」となっているのですが、それを見るたびに考え込んじゃうんですね。海外メディアですと、「SNS=Social Networking Service」ということばではなく、もっぱら「ソーシャルメディア」ということばが使われていますし、Googleで検索してみますと、「Social Media」の語のほうが圧倒的に検索結果の数も多いのですが、わたしの理解では、旧来のマスメディアと対置するものとして、明確に「メディア」として認識されているからだと思うんです。特にTwitterやInstagramやTikTokなどは、もちろんある意味「交流の場」ではあるのですが、社会的な認識としては、もはや従来メディアに匹敵するか、それを上回る影響力をもつ「メディア」なんですよね。
──「交流サイト」はたしかにぴんと来ません。
というあたりでまずは疲れてしまうのですが、それはそれとして、なんでしたっけ?
──見逃し配信、です。
あ、はい。パラリンピックですよね。開会式は、ざっと飛ばし飛ばしに見ましたが、それこそソーシャルメディアなどで見た限りでは評判もよかったようで、自分の感想としても、オリンピックのそれよりははるかに安心して見られるものだったと思います。安心して見られるというのは、つまり、何がやりたいのか、何を見せたいのかがわかるということで、意志が感じられるということです。
──オリンピックの開会式には、意志、なかったですもんね。
スポーツでもそうでしょうし、音楽や映画といった文化作品でもそうだと思いますが、わたしたちが、そうしたものを見て感動したり、面白いと感じたりするのは、基本、その根底に誰かしらの意志があって、その意志をなんとか成就したいがために、さまざまなアイデア、つまり戦術や戦略、あるいは工夫が編み出されるからであって、その意志がないところで、戦略みたいなものだけを羅列されても、別に面白くはないんですよね。
──オリンピックの開会式がまさにそれでした。
スポーツでもアートでもビジネスでも、なんらかの事業をつくりあげていくには、必ず無数の選択と決断とがあるわけですが、事業やプロジェクト、あるいは試合において、それがいいものであるかどうかの判断基準は、結果ではなく、むしろ、意志の一貫性だと思うんです。
──ほお。
もちろんスポーツの試合で、相手がいる競技であれば、こちらの意志とその反映である戦術は、相手の出方次第で必ずしも思った効果をあげないこともありますが、そうした場合においても、臨機応変に戦術を変えていくにあたっては、監督やチームの意志が結局は参照されることになるわけでして、「どんな手を使ってでも勝てばいい」という意志に従ってゲームを動かすにしても、そこにはなんらかの規範めいたものはどうしたって介在せざるを得ないはずです。
──ふむ。
「結果よければすべてよし」ということばがありますが、これは基本、あるプロジェクトの最初には絶対言われないことばですよね。つまり、「結果よければすべてよし、という前提で、このプロジェクトに取り組め」とは誰も言わないわけです。
──あはは。そんなこと言う上司がいたらクビでしょうね。
ということは、「結果よければすべてよし」ということばは、プロセスのなかでさまざまな試行錯誤や苦労や紆余曲折はあったけれど、なんらかの拍子で良い結果が出てしまったという状況において語られることばであるはずですから、結局は、そのプロセスを踏まえた上での評価であるわけですし、そのプロセスの間には、無数の「選択=意志の発動」があったとすれば、それが無駄にならなかったという意味での「結果」であれ、意志の発動のしかたがそもそも間違っていたことを明らかにした「結果」であれ、「結果」は、常に「意志」とセットで測られているものであるように思えるんですね。
──なるほど。でも、オリンピックのゴタゴタに長らく付き合わされてきた多くの日本人からすると、政権や都や組織委員会のやり方は、まさに「結果よければすべてよし、という前提で、このプロジェクトに取り組め」と言わんばかりのものでしたよね。どこにも「意志」が存在せず、終わればいいことが起きるはずだ、という感じで。
おっしゃる通りでして、このことは、最近仕事のなかでも非常に強く感じるところなんですね。最近、企業の方などを相手に、「その事業のアウトカムは何なのか?」と問うことがままあるのですが、これを訊くと、驚くほど多くの方が、そこでフリーズしちゃうんですね。
──アウトカムというのは、要は、その事業を通して、どういう変化がユーザーなり、社会なりに起きるのかを定義しろ、というものですよね。
はい。アウトカムは、「未来において起こしたい変化」ということですから、事実として存在していない、あくまでも仮説上の、望ましいと想定されうる状態のことを指しているのですが、そもそもその状態を望ましいと考えているのは大前提として自分たちですし、その望ましい状態をつくり出すべく事業を実施するのも自分たちですから、「その状態をつくろうぜ」と主体的な意志をもってそれに邁進しない限りは、「その望ましい状態」は立ち現れてはこないんですよね。つまり、アウトカムを設定するということは、ある意味で、明確に意志の表明でもあるわけです。
──なるほど。この連載でも何度か言及されてきたSF作家の樋口恭介さんの新刊が『未来は予測するものではなく創造するものである』というタイトルでしたが、アウトカムは、「こうなるであろう」という「予測」ではなく、自分たちが「創造」したい状態を記述したものであるわけですね。
そうなんですが、それを記述することが、日本のサラリーマンは、恐ろしいほどにできないんですね。
──なんでなんでしょう。
いくつか考えられることはありますが、まずそもそもの前提として、仕事というものが常に「与えられるものだ」と考えている人が多いのではないかという気がします。ですから、そこに「自分の意志を介在させることができる」と、ほとんどの人が考えていないのではないかと想像したりします。もちろん、これは実態としてはそうだろうと思います。そもそも多くの事業は自分が立ち上げたものではなく、会社に入ったときからそこに所与のものとしてあったものがほとんどだとは思いますので、まずは粛々と事業の要請する任務を果たすことが第一義にならざるを得なくはなります。
──ですよね。
また、会社としても、社員を既存の機構をつつがなく作動させるための保守点検要員とみなしているところもあるでしょうから、そうやって現状維持、縮小再生産を旨とする環境下では、業務において「意志」は邪魔なものとみなされるしかなくなりますので、結果、全体として意志のない組織ができあがっていくことにもなるのだろうと思います。そういう環境に最初からいれば、仕事というものは、その前提として意志というものを必要としないものである、という理解がどっしりと根を下ろすことにもなりそうです。自分が経験したところでは、仕事の場では、意志なんていうものを持ち出すべきではない、という感覚が根強くあるように感じるのですが、それは、こうした環境に要因がありそうです。
──なんとなくわかります。
とはいえ、先行きが不透明なこの時代にあっては、どうしたって未来を見据えながら仕事をしないといけないわけですが、意志がないところで未来を考えるというのはとても困難なことなんですね。というのも行き先の選択肢は無限にあるのが未来というもので、そこに向かって一歩踏み出すには、せめて「こっちには行きたくない」といったことでもいいので意志が必要だからです。でも、前提として意志がなければ、どうにも一歩踏み出すことができませんから、そこで何に頼るかというと、まさに樋口さんの本の表題にあったように「予測」というものに頼るんですね。
──ははあん。
より精緻な予測をして、「未来はこうなるであろう」という見通しが見えれば、どの道が安全か、あるいは危険かが多少はわかってきますから、ようやく意志を発動できるところまで選択の幅を狭めることができるようになります。もちろん、こうした予測は重要なもので、とりわけ大きなコストを背負う選択をする際に必須なものではありますが、そもそも意志というものを欠いたところで持ち出される「予測」というものの落とし穴は、そこで予測された未来が、次第に現実であるかのように取り違えられていくようなところにあると感じます。
──ほんとですか? そんな人います?
もちろん面と向かってそんなことを言う人はいませんが、とりわけ未来予測を欲しがる人は、自分の見たてでは、発動すべき意志がないのを予測で補おうと欲している様子がありありな上に、そもそもの前提として、より正確で実現性が高い未来というものを探しとれると考えている時点で、未来というものが「所与のもの」としてあると考えてしまっているんですね。
──予知能力のようなものをもったどこかの誰かが、自分が知らない未来絵図をもっている、と、そういうものとして、予測というものをあてにしちゃうわけですね。
そうなんです。「ヴィジョナリー」ということばは「予言者、幻視者」という意味も含んでいますので、それをあまりに安く使い回していけば、こうした傾向は一層加速していきます。例えばディズニーやスティーブ・ジョブズみたいな人は、たしかに「ヴィジョナリー」だったと言えるかとは思いますが、それが言えるのは、あくまでも事後のことで、過去において見られた未来が現実化したように感じられるわけですが、過去に見られた未来が現実となったからといって過去に見られたそのビジョンが合理的なものであったとはならないわけでして、その合理性を担保しているものがあるとすれば、そのビジョンを現実化するためにジョブズ氏が、絶えず、それを目指して事業を続けたからで、事業というものは過去にあった啓示とそこで幻視された「決定された未来」をつなぐ、自動化されたプロセスではないはずなんですね。
──「未来を所与のものとして考える」というのは、つまり「未来はどこかで決定されている」と考えることですよね。
そうなんです。最近はそれほどでもなくなったものの、一時猫も杓子も未来予測にお熱でしたが、その慌てぶりを見るにつけ、この人たちは、「未来はこうなる」という答えがどこかに存在していると本当に信じてるんだな、と怖くなったりしました。
──なんでそうなっちゃうのか、不思議ですね。
これは、「自分たちの運命はあらかじめ決定されているのだ」というような決定論というほど強いものでもなさそうで、どちらかというと「すべての問いには採点可能な答えがある」とする受験勉強がもたらした悪弊のような、もっとつまらないことに起因するようにも感じるのですが、そうやって、「あらゆる物事には共通した答えがある」という受験的発想に思考が規定されてしまうことの大きな問題は何かと言えば、「誰が答えても同じ」という前提を引き受けてしまうというでして、これを引き受けてしまうことで、大人になっても思考の前提が「仕事は誰がやっても同じ」というものになってしまうじゃないかと思ったりします。
──あらゆる仕事は答え合わせ、だと。
まさにそうなんです。ちょっと前に、あるソーシャルメディアプラットホームのデザイナーさんのお話をお伺いするトークイベントがありまして、この方はアメリカの方なのですが、聞いていると、ことばの端々に、自分たちのサービスを一種の実験だと考えている様子がうかがえるんですね。あるサービスをユーザーがどう使いこなし、それがどう拡張して社会のなかにどういう習慣や規範、つまりは文化をつくりあげていくのかを、社会全体として実験しているのだ、といった視点から自分たちのサービスを見ている感じでして、であればこそ、社会が最終的に何をどういうふうに選び取っていくのかはわからないのだけれど、せめてそれが健全な社会となるようにサービス事業者として、改善を重ねていくのだ、という発想になっているように感じました。
──面白いです。社会はずっと動的に動いていて、それが向かう先は読めない。けれども、プラットフォーマーとして介入することで、社会が転がっていく方向を少しは良いものにできるかもしれない、といった感じですかね。
ITの世界は、プロダクトもサービスも、基本「完成形」というものが存在しませんので、どこまで行ってもプロトタイプであり一種の実験であるという発想がその根本にあって、であればこそ失敗や間違いに大きな価値を置く文化が育まれているのだと思いますが、間違いに積極的な意義を認める考え方は、アメリカでは実は古くからあるそうで、これは「falliblism」というものだそうです。
──ほお。
この「falliblism」は、アメリカのひとつの哲学の伝統であるプラグマチズムの創始者のひとり、チャールズ・サンダーズ・パースが、その理論的骨格をつくったとされていますが、日本におけるプラグマチズムの継承者である鶴見俊輔さんは、『たまたまこの世界に生まれて:半世紀後の「アメリカ哲学」講義』という本のなかで、この考え方をこう語っています。
パースは、非常に早くからfalliblism(マチガイ主義)という考え方を持っていた。間違いを切り捨てるのではなく、間違え方から常に学んでいくような考え方。間違いの意味を大切に考えているわけ。流動している社会のなかでは、違うアイディアとアイディアがぶつかって、アイディアのマーケットのなかで、より優勢なものがわかってくる。そういう考え方をわりあいに早くからホウムズも持っていた。ファリブルな考え方を、アイディアの違う競争のなかで見極める。そういう考え方はプルーラリスティック・コンペティション(多元的な競争)なんじゃないか。
──「流動している社会のなかでは、違うアイディアとアイディアがぶつかって、アイディアのマーケットのなかで、より優勢なものがわかってくる」というところがいいですね。社会全体がアイディアのマーケットであればこそ、いろんな人がいろんなアイディアを、そこに放り込むことが重要にもなるわけですね。
在野研究者の荒木優太さんも、「日本のプラグマティズム」というウェブ連載で、この「falliblism」について解説していますが、こちらも非常に面白い内容です。
試行錯誤という方法は、哲学史的にいえばアメリカで発展してきたプラグマティズム、とりわけその可謬主義(fallibilism)の考え方と固く結ばれている。
プラグマティズムの始祖にして、可謬主義的哲学の骨格をつくったチャールズ・サンダース・パースは「「過つは人間の性」こそ、われわれがもっとも熟知している真理である」と述べた。
生きてないモノや単純なイキモノは誤りを犯さない。単に外からの力や本能に従って機械的に動くだけだ。インプットとアウトプットが一対一対応している。が、目的意識をもった理性的な人間存在は移り行く時間のなかで、一対一が崩れ、行動のランダム性に晒される。これをやっときゃ必ず成功……という公式がない。アレかな? コレかな? 別の言葉でいえば、迷ったり、悩んだりすることができる。それを肝に免じておくべし、というのが可謬主義の教えだ。
──可謬主義、いいですね。
荒木さんは、さらにこう続けます。
パースの可謬主義は、彼が重視していた方法、つまり帰納でもなければ演繹でもない仮説形成(これを彼は後年にabductionと命名した)によく表れている。
inductionでもなくdeductionでもなくabduction。(中略)
仮説形成とは《なんか似てる》の力を借りた推論の形式だといってもいい。パース曰く、「ある思考が、別の思考と似ている、あるいは、それを表しているという認識は、無媒介な直接的知覚からは導き出しえないのであって、このような認識は一つの仮説形成といわねばならない」。
未知の世界に触れたさい、《コレってアレじゃね?》と思いつくとき、多くの場合、その《アレ》は様々なアレ的ななものから統計的に抽出した与件として立項しているのではなく、もっと具体的で特殊なかつての経験であるところの《アレ》とよく知らない目の前の《コレ》を、《なんか似てる》と細かい手続きなしに一足飛びに結びつけているにすぎない。
勿論、素人臭いといえばそうなのだが、そのビギナーの──より厳密にいえば発想のビギニングの──観点が、その道の専門家には思いも寄らなかった大きな発見や概念の結びつきに結実することだってあるのかもしれない。
可謬主義はこうして、仮説形成といういささか頼りなさげでも我々にとって身近な戦い方でもって失敗のなかを突き進む思考を促しているのだ。プラグマティズムもこの基調を共有している。(原文ママ)
──荒木さんのこの文章を読みますと、先のアウトカムの話や、予測というものに関する問題は、「仮説形成」の部分に問題があるように思えてきますね。つまり、アウトカムにおける仮説や、「ジョブズの未来予測」というものが仮にあったとして、それらを帰納的、もしくは演繹的に導き出されたものだと考えてしまうと、なんだかとんちんかんなものになってしまうように思えます。
そうですね。スタートアップのピッチなどは、必ず最初に自分たちが取り組んでいる「課題」をエピソードふうに語るのが定石となっていますが、それは、多くの場合、帰納的にも演繹的にもなんの結論にも至らないようなものですが、アブダクションという観点から見ると、荒木さん言うところの「発想のビギニング」となっていて、それが「専門家には思いも寄らなかった大きな発見や概念の結びつきに結実する」可能性の萌芽となるわけですよね。
──たしかに。
また、その観点から見れば、そうした仮説形成からはじまった事業は、それを世に出して商売をすること自体が、仮説の検証であるという意味で、「実験」とみなされてもいるわけです。
──あらゆるビジネスは、実験であると。
ビジネスに限らず、政治も含め、人が行うあらゆる行為が、多かれ少なかれ実験であるという考えは、宇野重規さんが、プラグマティストたちについて解説した以下のような文章(『民主主義のつくり方』)とも響きあっているように思います。以前にも引用したことがあるように思いますが。
プラグマティストたちは、ある理念がそれ自体として真理であるかどうかには、ほとんど関心をもたなかった。というよりも、それを真理であると証明することは不可能であると考えていた。そうだとすれば、ある理念に基づいて行動し、その結果、期待された結果が得られれば、さしあたりそれを真理と呼んでもかまわない。彼らはそのように主張したのである。
重要なのはむしろ、各自が自らの理念をもつことに関する平等性と寛容性である。デューイによれば、各人は自らの運命の主人公であり、その運命にはあらかじめ決定された結論はない。人々が思想を徹底的に使い尽くすことこそが重要であり、だからこそ、その試みを尊重する必要性がある。
さらにいえば、民主主義そのものが実験であり、実験の本性上、つまずくこともありえる。人民の単一の意志の優越という民主主義モデルから、実験としての民主主義モデルへの転換が、ここにはみられる。
──なるほど。政治もまた実験である、と。ここで語られた、あらかじめ決定された運命はない、というジョン・デューイのことばや考え方が果たして、どれほどまでにアメリカにおいて浸透しているのかはわかりませんが、ようやくここで、今週の〈Weekly Obsession〉のお題である「無神論」とつなげますと、今回の記事によれば、アメリカでは「神を信じない」という人が、わずか9%しかいないそうですから、そうした信心深さと、行動においてどんな実験もアリなのだ、という志向が、どういうふうにつながっているのか、よくわからなくなってきます。
おそらく、どんな信仰であれ、それを理念として信じることは自由であると考えるのがプラグマティズムで、宇野先生の御本によれば、プラグマティストたちは、「人々の『信じようとする権利』を最大限に重視した」とされています。
──なるほど。信仰の自由な発露を可能にするメタフレームとして「信じようとする権利」が用意されている、という位置付けになるんでしょうかね。
そこはあまり迂闊なことは言えませんが、今回の記事のなかで面白いのは、カンサスシティで創設された「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教会」という、いわば新興宗教について、わざわざ触れている点でして、概要が、こう記されています。
2005年に物理専攻の学生であったボビー・ヘンダーソンはインテリジェント・デザイン教育について意義申し立ての手紙をカンザス中の学校に宛てて送った。もしインテリジェント・デザイン──あらゆるものの創造が神の手になるという実証されていない定理──を学校で教えていいのなら、なぜ宇宙は空飛ぶスパゲッティモンスターによって創られたとする、彼の理念ではダメなのか。
こうして「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教会」(FSM)、もしくはパスタファリアニズムは生まれた。融通無碍にしてばかげた、この宗教/風刺は、主に宗教組織が孕む矛盾を暴露し、それを国家行政が支援していることを批判するために存在している。信者たちは、例えば、パスタの水切りザルをかぶって運転免許証の写真を撮ることの権利のために戦い、ターバンやヒジャブが許されているなら、スパゲッティの濾過器だって許されるべきだと主張している。
パスタファリアニズムは、幾多の挫折に直面しており、空飛ぶスパゲッティモンスター教会の礼拝を受けられるよう求めた、ある受刑者の請願は、連邦判事によって却下されている。判事は判決において、FSMを宗教とはみなさないとしたが、無碍に却下したわけではない。彼は判決文にこう記した。「FSMは科学や生命の進化、そして公共教育における信仰の位置付けに関する議論を促す意図に基づいている。それらは社会的に重大な問題であり、FSMイズムは、一考に値する議題を含んでいる。
──おお。この判決文は、まさに、「信じようとする権利」を体現しているように感じますし、鶴見先生がおっしゃった、「ファリブルな考え方を、アイディアの違う競争のなかで見極める」という感覚にも通じているようにも見えますね。
少なくとも、「くだらない」と一刀両断に斬り捨てないところには、ユニークな寛容さがあるように見えますよね。ちなみにこうした寛容さについて神学・宗教学者の森本あんりさんは、『不寛容論:アメリカが生んだ共存の哲学』という本のなかで、もう少し現実的な見地から、こんなことを書かれています。
人は、未知のものには不寛容に、既知のものには不寛容になりやすい。特にこれは、宗教や性の問題に関する態度決定で顕著である。自分の周りにそういう人がどれだけいるか、自分の知り合いでそういう人を思い浮かべることができるかどうかは、寛容の判断では大きな要素になる。パットナムらは、これを「スーザンおばさん原理(The Aunt Susan Theory)」と呼んでいる。多様性と流動性は、アメリカ社会の寛容さを全体として下支えしている。
だから、「自分の宗教だけが真実だ」と信じるハードコア信者はほんの一部で、アメリカ人の八割は「多くの宗教に真実がある」と考えている。
──なるほど。ただ、今回の記事では、Gallupによる面白い調査結果が紹介されていまして、これは2007年に、「大統領に投票したくない人はどんな人か」を調査したものなのですが、「カトリック教徒」「黒人」「ユダヤ教徒」「女性」「ヒスパニック」「モルモン教徒」「3回結婚している」「72歳以上」「ホモセクシャル」「無神論者」といった選択肢のなかで、最も「投票したくない率」が高かったのが、「無神論者」だったそうですから、多宗教に対して寛容であったとしても、”無”宗教には、いまなお抵抗感が強いところがあるのかもしれません。
この調査は、宗教や人種や性別における拒絶反応が時代を経るごとに緩和していることがわかったりもして、非常に面白いものですが、「無宗教」というものに対する感覚について、森本さんの本にはヴォルテールを引き合いにこんなことが書かれています。
彼がフランス旧体制の象徴としてカトリック教会を嫌悪していたことは、日本でもよく知られているが、その彼が『哲学書簡』(一七三四年)では冒頭から長々と「クエーカー」と呼ばれる人びとの信仰を好意的に紹介していることは、あまり知られていない。権威主義化した宗教には容赦のない批判と揶揄を浴びせかけたヴォルテールだが、人間が信仰をもつということは、彼にとって人間が理性をもつということと同じくらい当然で貴重なことだったのである。
──それこそ、Quartzの記事内にも、かの有名な「神は死んだ」というニーチェのことばが引かれていますが、現在の世界を見ても、神の存在を信じない人は20%だそうですから、神を信じる人からすれば、ヴォルテールのように「人間が信仰をもつのは当然」「そうでないのは不自然」と感じる感覚はあるのかもしれませんね。
ちなみにQuartzの記事によると世界で最も無神論の人が多いのは中国とされていまして、実に82.6%が神を信じていないそうですが、森本あんりさんは前掲書のなかで、『現代日本の宗教事情』という本から中国、インド、アメリカ、ブラジル、パキスタン、日本の6カ国で行われた価値観の調査を引いていまして、こう記しています。
日本は、細かな数字を省略して順位だけ記すと、「他宗教の信者を信頼する」人の割合では中国に次いで下から二番目、「他宗教の信者も道徳的」と考える人の割合が最低である。「他宗教の信者と隣人になりたくない」と答える人は六つの国の中でいちばん多く、「移民・外国人労働者と隣人になりたくない」はインドに次いで多い。これらの数字は、宗教的にきわめて不寛容な現実を浮かび上がらせている。
この調査でもう一つ興味深いのは、寛容度の低い日本と中国では、宗教を重視する度合いも低い、という事実である。つまりこの両国では、なんの宗教であるかを問わず、そもそも宗教というものに対する寛容度が低いのである。
──ふむ。
森本さんによれば、『自由論』で知られるジョン・スチュワート・ミルは、「寛容な宗教」というものが存在しうる可能性については悲観的で、宗教に対する寛容は、宗教に無関心な社会でしか実現しないと確信していたそうなのですが、実際の統計で見ると、「日本と中国が代表例だが、宗教を重要視する度合いが低い国では、寛容度も低い」わけですから、ことはむしろ逆かもしれず、森本さんの『不寛容論』は、ロジャー・ウィリアムズという非常に戦闘的な教師、牧師、アクティビストが、建国前のアメリカで展開した活動をたどりながら、彼が実践したユニークな「寛容」のあり方を紐解いて行きますが、その考えをひとことで結論づけますとこうなります。
人がある価値や倫理を主張しようとする時、何らかの始点が必要となる。無宗教や無神論から出発する場合でも、この点に変わりはない。ウィリアムズの出発点は、明らかに彼自身の信仰である。自分にとって自分の信仰はかけがえのない尊いものである。だから他者にとっても、つまりカトリックやムスリムや無宗教者にとっても、自分の信念は大切であるに違いない、というのが彼の論理である。この論理は、出発点にある信念の如何に依存しない。ここに、万人の平等へのまなざしがある。
──自分が大事と感じているくらい大事なものが人にはある、と認めるということですね。
はい。ただ、森本さんはこうも書いています。
「相手を心から受け入れ、違いを喜びなさい」というポストモダンのお説教は、ときにウィリアムズよりずっと不寛容である。
心の中でどう考えるかは、そもそも他人にはわからないことなので、放っておけばよいではないか。その拒否感や嫌悪感を伝える場合でも、礼節をもって会話を続ける態度があれば、それでよいではないか、ということである。相手にどういう態度で接するかだけでなく、内心で相手をどう評価するかについてまで寛容であれと要求するのは、潜在的にとても不寛容である。(中略)
人格とは秘密をもった存在である。人間が人間である以上、つまり各人が心という自分だけの内面世界をもった存在である以上、どんなに親しくても、完全にわかり合えるということはない。それでも、受け入れることはできる。そして、理解できないままに受け入れることを、愛と呼ぶ。
──ふむ。とても感動的ではありますが、いったい何の話をしていたのだか、だんだんわからなくなってきてしまいましたね。
ほんとですね。おそらく、ここで大事なのは、「人がある価値や倫理を主張しようとする時、何らかの始点が必要となる」という部分のように思うのですが、冒頭にお話をした意志の話は、ここで言われている「始点」というものと関わっているような気がします。森本さんは、「自分が無関心でどうでもよいと思っていることに対しては、寛容にも不寛容にも慣れない。だから日本は、寛容でも不寛容でもなく『無寛容』なのかもしれない」と書き、そうした「無寛容」が不寛容へと堕していく可能性に警鐘を鳴らしていますが、この「無寛容」ということばにある虚無感が、意志なく働く人たちの姿に重なる感じがして怖いんですよね。
──それこそ冒頭のオリパラの話に戻れば、電通的な建て付けのなかで語られる「多様性」や「寛容」は、まさに「無寛容」の際たる感じだった気がしてきます。
その点、パラリンピックの開会式は、音楽や出演者の選択のなかに、なんらかの意志は感じることができて、その点だけでもほっとさせるものでしたが、最後にとても気になったことがありまして、それは布袋先生がデコトラに乗って登場するシーンなのですが、布袋さんの「ロック」とデコトラとの相性を考えれば、デザイン的には整合性は取れていたとはいえ、なぜ、あそこだけ出演者の衣装やヘアメイクが「マッドマックス」みたいなものである必要であったのかが、よくわからなかったんですね。
──なんだそれ。
そもそもモヒカンヘアでロックを弾くというのは、もはや音楽のメインストリームでもインディシーンでも現実にはほとんど存在していない様式で、それが様式としてまかり通っているのは「マッドマックス」くらいだと思うんです。戦闘シーンで、巨大アンプを積んだ改造トラックの上でモヒカン野郎がギターを弾くというのは、「怒りのデスロード」でも最高に笑えてカッコいいシーンでしたが、あのポスト・アポカリプス世界は、だからといって決していい世界ではなく、兵士はみな薬物でハイになっていますし、人びとは完全な族長支配のなか奴隷状態で生きていますから、そこにダイバーシティというものがあったとしても、それをダイバーシティと呼ぶのはとても憚れるようなものだと思うんです。
──まあ、そうですね。
少なくとも「怒りのデスロード」では、そうしたモヒカンロックに代表される体制は打破されるべきものとして描かれていて、実際のところ映画でも、族長が葬り去られて幕を閉じるのですが、開会式で、その様式が、何やらポジティブなものとして描かれているふうでしたので、そこが、いったいどういうふうな論理だてになっているのか、よくわからなかったんですよね。少なくとも、いまモヒカンにフェイスペイントしてエレキギターをかき鳴らすというのは、ある種のパロディとしてしか機能しない表象だとしか自分には思えないのですが、あれが普通に「カッコいい!」となっていたのだとすると、ポップカルチャーの言語が読み解けなくなっているということでしょうから、なかなかしんどいなと思うところでした。開会式はオリンピックもパラリンピックも、ともに、なんの文化性も時代性も発動しない衣装デザインが正直かなり疑問でした。
──パラリンピックとマッドマックスって、実際どういうことなんでしょうね。
フジロックの問題でも、「あんなものロックじゃない」とか「これぞロックだ」いった言説が飛び交っていましたが、どちらの陣営も「ロック」というものに対する認識が古すぎて、そのことになんだかとてもびびってしまいましたが、ロックということばをめぐるイメージが、実体としてある音楽文化とあまりに乖離しているように見える点では、パラリンピックの話とも通底している気もします。
──「反体制=ロック」とか、「トンガっている=ロック」の認識の人、多いですよね。いつの時代だよ、という。
はい。というわけで長々と書いていたら、5時半になってしまいました。この辺でお開きとさせてください。
──お疲れさまでした。ロックの話は、もうちょっと聞きたいですけどね。
またどこかで機会があれば。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。本連載の書籍化第2弾『週刊だえん問答第2集 はりぼて王国年代記』のお求めは全国書店のほか、Amazonでも。
📺 『Off Topic』とコラボレーションしてお届けするウェビナーシリーズの第2回開催日が9月28日(火)に決定しました。詳細はこちらにて。先日開催した第1回のセッション全編動画も公開しています。
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