Guides:#70 ネイバーフッドの設計原理

Guides:#70 ネイバーフッドの設計原理

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週刊だえん問答

世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzが取り上げている「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが解題する週末ニュースレター。今週は最新の〈Weekly Obsession〉が取り上げている「マーチェッティの定数」から考察する貴重な都市論です。プレイリスト(Apple Music)もご一緒にどうぞ。

Image: Giphy

Fantasy sports: A crash course

ネイバーフッドの設計原理

──先週に続いて、まだ、地下室にこもってる感じですか?

そうですね。ぼんやりしていましたらどんどん仕事がたまってしまい、あくせくとやっつけているところです。

──先週は、ユニコーンの原稿を書いたと言っていましたが。

今週は「Pファンク」ですね。いいのが書けました。

──この連載でも何度も言及されていますがよほど好きなんですね、Pファンク。原稿はどういう内容ですか?

2021年においてなぜPファンクはセラピーでありうるのか、というお題で、1万字くらいにまとめたものです。

──面白そうは面白そうですが、実際のところ、セラピーになるんですか?

さあ(笑)。

──適当すね。

少なくとも自分にとってはそうでして、必ず数カ月に一度くらいは必ずPファンクか、これもこの連載で何度か言及しているCANの音楽に、戻ってきてしまうんですね。それをセラピーと呼ぶかどうかはおいたとしても、そこに戻ってくるにはきっとなんらかの理由があるはずでして、それが何なのか、そこに戻ってくるたびにやっぱり考えはするんですね。

──何が特別なんでしょうね。

これは必ずしも、PファンクなりCANの音楽に備わった属性だけに起因するものではなく、おそらく自分のこれまでの経験とも関わっていて、それが相互に作用してなんらかの状態が発生しているものなので、誰しもにとってPファンクがそういうものとなりうるのかは不明なのですが、この間、原稿をまとめるにあたって、ずっとPファンクの音源を聴いていて改めて感じたのは、そこにある、ある種の「不真面目さ」の感覚なんですね。

──基本、真面目なのか、不真面目なのか、よくわからないですもんね。

そうなんです。Pファンクの総帥ジョージ・クリントンという人は、基本的に「真面目なこと」を本当に信用していなくて、「いかなる類のものであれ、永遠の真実を宣伝することに興味はなかった」と自伝でも語っているんですね。ですから、音楽を商品としてパッケージ化するにあたっては、人がいかにそれを真面目に受け取らないか、という点に非常に腐心するわけでして、そうした戦略が、むしろ音楽の面白さというか、純粋さを守ることになっている感じがするんです。

──なるほど。

ですから、Pファンクの諸作は、非常にコンセプト性が高いわりには、実際の音楽はかなり勝手気ままなものでして、もちろんものによっては非常に緻密にアレンジされてもいるのですが、といって、音楽をストーリーやメッセージに従属させるようなところがないんですね。コントロール=制御と自由をめぐる感覚が絶妙といいますか。

──それはCANにも共通するところですよね。

はい。Pファンクにおいて重要なのは、首謀者であるところのジョージ・クリントンという人が、これは本人が認めていることですが、楽器もろくに弾けず歌も下手くそという、いい意味でシロウトだったところじゃないかと思います。Pファンクという大所帯のコレクティブを束ねるにあたっても、ジョージ・クリントンは、決して管理的にあれこれ設計するのではなく、「今回は宇宙がテーマね」といった感じで作品のフレーミングだけをして、あとは、みんなを自由に遊ばせる感じなんですね。そうしたフレーミング=枠取りが抜群にうまかったのがジョージ・クリントンという人だったように思うのですが、そういう意味では、優れたアーティストというよりは有能なファシリテーターなんですよね。

──真ん中にいるわりには、何をやってんのかよくわかんない人ですもんね。

その結果、音楽がそれ自体として、非常に自由なものとなっているように感じるのですが、おそらくジョージ・クリントンにしてみると、「真面目さ」というものの、ちゃんとした設計を求め、管理を求めるものであるところがイヤなんですね。というか、音楽、あるいは「ファンク」って、本来そういうものじゃないでしょ、という考えなんだと思うんです。

──ああ、なるほど。

ちょうど今年の6月から7月にかけて、ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーでわれらがブライアン・イーノ先生が「In a Garden」というエキシビションを開催したそうでして、もちろん現場で見てはいないのですが、そのエキシビションのウェブサイトにイーノ先生のこんな文章が掲載されています。これは、イーノ先生の仕事や発言に追いかけている人にとってはお馴染みの論点だとは思いますが、自分としてはPファンクの音楽にも通底している発想のようにも読めるんです。ちょっと引用してみますね。

庭について考え、わたしたちがなぜそれが好きなのかに思いを馳せることは、実りの多い逸脱だった。人はアートを建築のように考えがちだ。つまり、何かをつくる前には必ず「プラン」や「ビジョン」が必要で、それができてからつくり始めるものと想像してしまう。しかしわたしの感覚では、アートの制作を考えるにあたって有用なのは、むしろそれをガーデニングのようなものとして考えることだ。いくつかの種類の種を植え、それらの間で何が起き、どう関係しあいながら育つかを眺める。そこにはまったくプランがないわけではないが、こうしたプロセスは自分とその対象が関係しあいながら起きるものなので、ペースを握っているのはむしろその対象の側なのだ。こうしたやり方は「手続き型」(procedural)と呼ばれたりもするが、わたしはこれを「生成型」(generative)と呼びたい。庭が毎年その姿を変えるように、生成型のアートは観るたび、聴くたびにその姿を変えるだろう。これが意味するのは、こうした作品には終わりがないということだ。つまり完成形というものが存在しないのである。

──いいですね。庭師。このアナロジーで行きますと、Pファンクは「パーラメント」と「ファンカデリック」というふたつの庭をもっていて、クリントンは、それらをうまいやり方で育てた庭師だったということになりますね。

案外しっくり来ません?

──ファンクの土壌を耕すファンキー・ガーデナー(笑)。ジョージ・クリントンは、腐敗っていう概念も好きですしね。いまにしてみると案外、Pファンクには、ファンクを中心にしたエコロジカルな世界を構想していたとも言えるのかもしれませんよね。

Pファンクの話はいずれ『Rolling Stone』の日本版に掲載されるテキストを読んでいただけたらと思うのですが、ここから今週のお題に向けて話題に寄せていきますと、このイーノ先生のことばをみつけたのは、ダン・ヒルというデザイナー/アーバニストのブログに掲載された「街路のデザイン原則をブライアン・イーノ」と考える」(Working with Brian Eno on design principles for streets)という投稿ででして、ダン・ヒルさんがここで提唱しているのは、ごくごく簡単に言いますと、都市や町における最も重要な指標は、効率ではなく「カルチャー」であるということで、この観点がベースにない限り、最近よく言われている「15分都市」(15-Minute City)も意味がないということです。

──15分都市については、それこそ五輪で来日されていたパリのイダルゴ市長が採用し、パリ再開発のコンセプトに据えられたことでも知られています。

15分都市についてはのちに触れたいと思いますが、ダン・ヒルさんは、街路や路地を文化性を基軸にデザインするにあたってどのような原則が必要かを考えるために、イーノ先生に相談をもちかけたそうでして、するとほどなく先生から原則の箇条書きがすぐに戻ってきたそうです。先の投稿は、先生の「御託宣」を一条ずつ解説したものですが、イーノ先生は、ここでも、いの一番に庭師の話をしています。非常にかっこいいものなので、全部見てみましょう。

  • 建築家ではなく庭師のように考える:終わりではなく始まりをデザインする
  • 未完成=肥沃
  • 都市におけるアーティストは土壌におけるミミズ
  • ゴミはみんなの見えるところに
  • みんなで変えたり直したりできる場所をつくる(鉄やコンクリートではなく木や漆喰を使用)
  • 最年少と最年長の人を受け入れられる場所は、ほかのみんなにも愛される
  • 安い賃料=上質な暮らし
  • 人が互いを見ることができ、互いに自慢しあえる場所をつくる
  • 共有された公共空間がコミュニティの坩堝となる
  • 本物のスマートシティは居住者の知性と創造性を活用する

──いやあ、いいですね。「終わりではなく始まりをデザインする」とか、しびれますね。

東京は五輪をテコに都市再生をはかるチャンスをみすみす逃してしまいましたが、世界的には、老朽化したインフラの再整備からスマートシティ化など、大規模な都市改造が進行していくこととなります。さらに、ここにコロナ禍がもたらした環境の変化、つまりリモートワークの一般化といったことがもたらす影響を受けて、これまで考えられてきた都市再生の方向性も若干変わってきています。ただ、こうした「計画」を立てるにあたって、従来と同じ考え方でやってしまうと、結局は「効率」が目的になってしまいますから、ダン・ヒルさんもイーノ先生も、そうならないためのフレームが必要だと考えているわけですね。

──どうして従来の「計画」は、結局「効率」に行き着いちゃうんでしょうかね。

簡単ですよ。「終わり」を設計しちゃうからです。「終わり」を設計しちゃうとそれがゴールとなることで、「最短でゴールにたどり着く方法」がフェティッシュ化されていき、次第にそれ自体が目的になっていくというサイクルを生み出すわけですね。ですから、ヒルさんもイーノ先生も、「ゴールなんてない」という前提に立つ必要がある、と言っているわけです。

──「庭が毎年その姿を変えるように、生成型のアートは、観るたび、聴くたびにその姿を変えるだろう。これが意味するのは、こうした作品には終わりがないということだ。つまり完成形というものが存在しないのである」。ここですね。

はい。今後の都市再生といったお題を考えるうえでは、まずもって、こうした考え方が原則として置かれる必要がありまして、その上で、具体的な施策の話にならないとダメなんだというのが、おそらくダンさんの問題意識でして、この辺のことは、日本でもまったくコンセンサスが取れていないと感じます。「何かをつくる」ということは、完璧な完成形をつくることだと考えている人が、実際多いですから。要は、アウトプット至上主義なんです。

──「ものづくり大国」だとか威張ってきたところのプライドが、そこにはあるでしょうしね。

そのせいもあって、結局ハードウェアの設計しかできないんですね。

──わかります。

例えば、15分都市といった概念も、アウトプット、つまりは、できあがった具体的なモノをやたらとフェティッシュ化している限り、必ずその理解を間違えるんですね。日本はスマートシティという概念においても同じ間違いを延々と引きずっていますが、そうではない発想からこれからの「計画」というものを見なくてはいけないという前提から、先ほどから出ている15分都市の概要を見ていきたいと思います。

──お願いします。

15分都市というのは基本的には、どこにいたとしても徒歩か自転車15分圏内に生活に最低限必要なものが調達できる街のことをいいますが、その考えに基づく街がいったい何を目指そうとしているのかを、BBCの「15分都市はいかにわたしたちの人間関係を変えるか」(How ’15-minute cities’ will change the way we socialise)というが2021年1月4日の記事が、パリの事例を題材にわかりやすくまとめていますので、それをまず引用させていただきます。

15分都市を成り立たせているさまざまなコンセプトには、この何十年にもわたって多くの専門家やプランナーたちが提出してきたものが流れ込んでいる。1920年代にアーバンデザイナーのクラレンス・ペリーは、私有自動車やゾーニング計画などが都市に溢れかえる以前のアメリカで「ネイバーフッド・ユニット」というアイデアを提唱した。コペンハーゲンは1962年にショッピングの目抜き道路を歩行者専用にし、以後、建物が密集する欧州の都市は、繁華街において同じ手法をとるようになった。「ウォーカブル・シティ」を謳った「ニューアーバニズム」のムーブメントは、80年代のアメリカを席巻した。

さりながら、今日の15分都市は、気候変動、COVID-19とグローバリゼーションへの影響を受けることで、過去の運動とは大きく一線を画すものとなった。過去の取り組みが移動の便利さ、歩きやすさ、公共政策に重きが置かれていたのに対し、例えばパリは、これらに緑化という要素を全面的に導入し、さらに職場環境、文化活動、そして人間同士の社会的なつながりという、つねに姿が変わり続ける密やかなものに焦点をあてている。

パリのアンヌ・イダルゴ市長は、2020年の再選選挙で「近接性」(proximity)「多様性」(diversity)「密集性」(density)「遍在性」(ubiquity)の4つを主たる原則として打ち出し、成功を収め、以後「15分都市推進のコミッショナー」としてキャリー・ロランを抜擢した。ロランにとって、15分都市におけるゴールは「近接性の都市」を生み出すことにあり、その近接性は、建造物だけでなく人同士の近接性を指している。

ロランは語る。「大都市はときに人を疲れさせ、匿名化させるものですが、わたしたちが語る近接性は、人びとの社会的なつながりを通して、都市生活を再発見するためのものです。オープンスペースは、特に何をするわけでもない人にも開かれ、誰かと話したり誰かと偶然出会ったりするようなことが起きる場所になって欲しいのです。誰かと一緒にいることで、暮らしはより良いものとなります。そうやって社会全体を編み直していくのです」

ネイバーフッドの再興はイダルゴが14年に市長となってから着々と進んでいる。大気汚染をもたらす車輌は禁止され、セーヌ川の岸も歩行者と自転車専用となり、市全体に小さな緑地帯が散りばめられ、18年以来、40の学校の校庭は緑の「オアシス庭園」となった。「コロナピスト」と呼ばれる50キロにわたる自転車のためのルートがパンデミック以後に整備され、3,000万ユーロが投入された7つの広場のリノベーション計画のひとつとして、先月(20年12月)にバスチーユ広場が完成した。イダルゴは街路、広場、庭園の美化と保全に、毎年10億ユーロを拠出するとしている。

──へえ。すごいもんですね。拠出額もすごいですが、コロナ禍を起点として都市における人間の社会生活を編み直そうという点が、やはり注目すべき点ですよね。どこに暮らしていたとしても、必ず15分圏内に人が集うことのできる緑地や広場が必要であるとしたときに、学校の校庭を緑化するというのは、わかりやすくていいアイデアですよね。

さらにイダルゴ市長のプランには、オフィス空間の少ないエリアにオフィスやコワーキングスペースを増やしたり、図書館やスポーツ施設といった単一用途の施設を複数の用途で使えるようにしたりといったことも含まれているようです。イダルゴ市長に15分都市のアイデアを吹き込んだとされる、スマートシティの専門家でパリ大学教授のカルロス・モレノは、15分都市のアイデアを、都市デザイン論のレジェンド、ジェイン・ジェイコブスから得たそうですが、都市内の小さな緑地が農地となることで地産地消が可能となることや、近所にすでにあるサービスを地元の人たちと結びつけ直すことでスモールビジネスの振興も促進されるといった絵図も描いているようです

──なるほど。基本的なイメージとして、コンパクトにまとまった「ネイバーフッド」がユニットとして都市内に分散しているイメージですよね。

はい。こうしたアイデアの現実性は、それこそコロナによって加速したものですよね。リモートワークが進んだことで、これまで会社の中や傍で済ませていたことを家の中もしくは近所で調達する必要がでてきて、近所にこれまでなかったようなコワーキングスペースが生まれたりしているかと思いますが、15分都市は、まさに、そうやって都心部にあった機能を、分散化しながら居住エリアの近くに再配置しなおすことを目指していると言えるのかと思います。

──そうすると通勤をどうするか、という問題が出てきそうですが、そこでようやく今回の〈Weekly Obsession〉のお題である「マーチェッティの定数」(Marchetti’s Constant)の話になるわけですね。

はい。この「マーチェッティの定数」というのは、実はわたしも今日初めて知ったのですが、1994年にイタリアの物理学者チェザーレ・マーチェッティが1994年に発表した「移動における人類学的不変性」(Anthropological Invariants in travel behavior)という論文で明かされたもので、これがどういうものかと言いますと、家から仕事場に通うために費やしてもいいとする時間は、歴史を通じて、文化、人種、宗教を問わず「片道30分=往復1時間」で、ほとんど変わらないというものなんです。

──へえ。そうなんですか。

もちろん、この定理に反対する人もいるのですが、都市と交通のあり方を考えるうえで有効な目安となることは多くの人が認めていまして、実際にこの定数に即して、都市の大きさを歴史的にたどって見てみますと、片道30分という通勤時間は変わらず、そこで利用される乗り物が進化していくことで、都市が空間的に拡張していったことが見て取れるのだそうです。

──なるほど。徒歩30分圏内だったものが、鉄道網の発達で同じ30分圏内でもぐんとそのエリアが広がるということですね。面白いです。通勤時間が都市のサイズを規定している、と。

ただ、すでにして通勤圏の拡大がもたらすスプロール化は限界に来てはいまして、それが15分都市のようなアイデアの底流にはあるわけですが、コロナ禍が、そこに別の展開を与えちゃったわけですね。

──都市の中心部にあった機能が、家の周りに再配置されていっちゃう流れですよね。

はい。つまり、「通勤、ほんとに必要?」という議論が、もしかすると人類史上初めて出てきてしまったことで、「マーチェッティの定数」の意味が、また変わってくるわけです。例えば『The Wall Street Journal』は、リモートワーカーが大勢暮らす、郊外のいわゆる「Zoom Town」では、住居エリアだった場所に、さまざまなサービスの需要が突然生まれたにも関わらず、そのエリアにそうしたサービスを提供するためのワーカーが不足していることの問題を指摘しています。さらにリモートワーカーが都市部から移住してきたために賃料が値上がりしていることから、ますます、そうしたサービスに従事しうる人が住めなくなっていますので、そうしたワーカーに通勤してもらう必要が出てきているというんですね。もっとも、こうした流れは、小さなコミュニティを活性化させる可能性もありますので、一概に問題であるとばかりは言えないところもありますが、スモールコミュニティ間の経済格差が、コミュニティの経済的役割を固定化する懸念を孕んでもいます。

──なるほどなるほど。おそらく15分都市は、それまでの都市が中央集権的に編成されていたのに対して、小さなコミュニティ/ネイバーフッドが自律分散的につながっているP2P的なイメージなのではないかと思います。そこにたしかに面白さはあるとしても、すでにしてコミュニティとコミュニティの間にある種の序列やヒエラルキーがあったとすると、それがどんどん強化されてしまう懸念は、たしかにありますね。

そうした観点から、特にアメリカで15分都市のアイデアを導入するのは危険だと指摘する人はいまして、トロントを拠点とするジェイ・ピッターというアーバンデザイナーは、こう語っています

「ハイパー・ローカルな都市づくりには大賛成なんです。気候変動に対して耐性の高いレジリエントな街づくりにそれは欠かせません」。アメリカの都市で多くの公共空間のデザインを手がけてきたピッターは語る。「でも15分都市には反対です。それは技術官僚的、かつ植民地主義的なプランニングを反映した、居住エリアの隔離やインフラの不均衡、公共空間における排他的政策によって生み出された、都市内部における不平等の歴史を考慮に入れていません」

「わたしたちはこれまでに、人種や階級を橋渡しするための緩衝地帯をつくるようなかたちで都市のデザインを行ってきましたが、15分都市は、社会に根深く存在する社会的分断を問題化してきた、100年にもわたるこうした介入を無にしてしまいます」

──手厳しいですね。

言われてみると、これは世界の都市に限らず日本でも、人種や職種、経済階層になどによってエリアごとに区分けされながら形づくられてきたものだと思いますが、そうした各エリアの歴史が、ある種の個性となって各エリアが自分たちなりの自律性を獲得していくことを助けるものになればいいのでしょうけれど、それが異なるエリアの人たちとどうつながり得るのかはたしかに大きな問題ですよね。ネイバーフッドのなかで完全に充足して、そこから外に一歩も出ないということなら、それはそれでいいのかもしれませんが、外部とまったく交易をせずに自給自足するのは不可能でしょうし、経済的交易の部分だけにおいて外部と接触するようになれば、逆に外部に対する依存性、従属性が高まることにもなりそうです。

──流動性をどう生み出すか、というところですよね。

これは必ずしも、上記の問題の解決にはならないかもしれませんが、例えば「通勤」という事象を考えたときに、そのプランニングが主に男性の視点から行われてきたことが近年問題化されているんですね。つまり都市における交通/モビリティといったときに、それはすべて男性の「移動」が問題となっていて、女性のそれはほとんど考慮されていなかったというわけで、実際、男性と女性の移動の動態はかなり違うんです。

──へえ。考えてもみなかったですね。

ですよね。これは案外大きな盲点なんです。レスリー・カーンの『Feminist City: Claiming Space in a Man-made World』という本がこの問題を取り上げていますが、弊社のnoteにこの本の概要を解説した記事がありますので、そこから引用させてください。

都市計画に「女性視点」が欠落すると、具体的にどのような問題が浮上するのだろうか。例えば、「移動(モビリティ)」について考えても、「男性視点」で最適化されてきた交通システムは重大な問題を抱えている。

カーンは男女間での移動パターンの違いを指摘する。男性の移動は、自宅から会社に向かい、ただ戻ってくるだけのシンプルなパターンが多いことに対して、女性の移動は、より多くの場所に立ち寄り、短い距離を頻繁に移動する、複雑なパターンを形成している。なぜなら、女性の大半は賃金労働に加えて、子育てや介護、家事、買い物、子供の送り迎えなどの無賃金労働を両立しており(OECDの調査によれば、世界の無賃金労働の75%は女性が行っている)、介護や買い物、子供の送り迎えのために多くの場所に立ち寄るので、男性に比べて時間のプレッシャーに厳しく追われているのだ。

そのため、多くの母親は常に3つのバッグ(仕事用のバッグ、子供用のバッグ、日用品・食料品のバッグ)を抱えおり、男性に比べて荷物の負担が大きいことも女性の移動に関する特徴の一つだとカーンは述べる。また、ベルリンで行われた調査によれば、男性は自家用車での移動が多いのに対し、女性は徒歩や公共交通機関での移動が多いことがわかっている(調査によれば、公共交通機関の利用者の66%が女性だった)。

──ああ、面白いですね。

この記事は、男のモビリティが基本的に会社と家を往復するだけの単線的なものであるのに対して、女性の移動は、むしろ「マルチモーダル」だとしていまして、これはただの勘ですが、15分都市みたいなアイデアは、男性の行動原理よりもむしろ女性の「マルチモーダル性」に相性がいいはずですし、そうした観点から編成すべきもののような気もします。そうなると、通勤の問題や、P2P的な移動や交易も、経済だけでない、より広い観点から考慮することが可能になるのかもしれません。それが社会のなかで固定された格差をどう解消しうるのかはわかりませんが、「フェミニストシティ」が示唆しているのは、移動や交通という論点において最も見過ごされている格差は、男女間にあるということですから、その解消に向けた移動の再編成は、あるいは、それ以外の格差の解消に、なんらかの道筋を開くことにもなるかもしれません。これはあくまでも勘ですが。

──でも、「男性目線から女性目線へ」の転換は、冒頭にあった「建築家から庭師へ」という転換と符号するところもありそうです。

そうなのかもしれません。同じようなテーマを扱った本としては、キャロライン・クリアド・ペレス著『Invisible Woman:Exposing Data Bias in a World Designed for Men』という本もありまして、これは人に教えてもらって買ったまままだ読めてはいないのですが、世界がいかに男性目線でできているかを教えてくれるはずですし、さらに『Fast Company』の「デザインの悪さのせいで1万人以上の女性が交通事故で死んでいる」(10,000 women die in car crashes each year because of bad design)という記事でもこの本は参照されています。

──へえ。

この記事のリードだけ紹介しておきますと、こうです。

交通事故を起こすのは男性が多いが、それで死ぬのは女性が多い。なぜかといえば自動車メーカーには、女性のために安全性能を高めようとするインセンティブがないからだ。それは変わらなくてはならない。

──自動車メーカーは、それこそ色んな意味で曲がり角に来ていながらロクに新しい提案ができていないですが、世の半分の人たちの暮らし方や声を考慮できていないところで行き詰まっていると言われても、なんだそりゃ、という気がしてきますね。逆にいうと、まだガラ空きになっている可能性が50%あるということでもありますよね。

ほんとですね。

──にしても、通勤ってほんと、今後どうなるんでしょうね。

面白いのは、通勤や大都市での生活は、ストレスが多く健康にも悪いものだとされてきたのが、ここにきて「いや、実はそれはそれで意味があるんだ」とするような研究結果などが発表されていまして、この8月に発表された論文「アメリカの大都市におけるうつ病の発症率の低さに関する証拠と理論」(Evidence and theory for lower rates of depression in larger US urban areas)はその表題通り、大都市のわさわさした環境がうつになることを抑制するバッファーになることを明かしているといいます

──それはそれでわかる気もします。

あるいは、『The Atlantic』に掲載された「通勤の心理学的効用」(The Psychological Benefits of Commuting to Work)というエッセイは、ステイホームやリモートワークで通勤を奪われた人が感じているかもしれない空虚を、こんなふうに語っています。

通勤から解放された多くの人が、なぜか名付けえぬ空虚さを感じることとなる。人生という劇場が崩壊してしまうのだ。そこには始まりもなく、終わりもない。主人公は旅に出ず、境界は越えられることがない。トロイの戦いは、テレマクスの数学の宿題と見分けがつかなくなる。社員たちにリモートワークツールを提供してきたような企業でさえ懸念を抱きはじめている。昨年秋のマイクロソフトのレポートは「通勤時間がないことが、リモートワーカーの生産性を上げるどころか、下げている可能性がある」と警告する。同社のメッセージングプラットフォームのユーザーの間では時間外のチャットが69%増加し、ワーカーたちの集中力は低下し疲れが増していた。

──これもわかる気がします。

友人でフリー編集者/ライターの石神俊大さんは、この問題を「帰宅論序説:『帰ること』をめぐる6つの断章」という文章で論じていますが、彼の論点は非常に面白いものでして、「家」というものを規定しているのは「帰宅する」という行為なのではないか、としています。

──面白いです。つまり、ステイホームがなんらかの空虚さをもたらしているとすれば、それは「どこかに行くこと」が奪われているからではなく「帰ること」が奪われているからだ、と。

そうなんです。彼はこう書きます。

人間がつくってきた物語、あるいは文学や絵画、音楽などさまざまな芸術作品のなかでも、帰宅や帰還は大きなテーマとしてある。古くは古代ギリシャの詩人ホメロスによる叙事詩『オデュッセイア』が英雄オデュッセウスがトロイア戦争の勝利から帰還する物語であり、英雄がさまよいながら試練を経てまた元の場所へと戻る物語の構造を折口信夫が「貴種流離譚」と名付けているように、帰ることはひとつの類型となって多くの物語を生み出している。

──先の引用にもあったテレマクスは、たしかオデュッセウスの息子ですよね。

まさにそうです。つまり、物語というのは、多かれ少なかれ「帰還」をもって終わるという構造があるということなのですが、石神氏の指摘で面白いのは、都市というものが、そもそも「帰宅を奪われた場所」として生まれ、発展してきたとしていることです。彼はこう書きます。

わたしたちは、帰宅のない世界で生きられるのだろうか。そもそも都市において、帰宅とはなんだったのか? 例えば社会学と神学を往還しながら文明への批評を展開したフランスの思想家、ジャック・エリュールは都市の起源を旧約聖書のなかに見いだしている。

エリュールは「都市を最初に建てた者は、カインであった」と述べた。カインとアベル。アダムとイヴの息子であり、人類最初の殺人の加害者であり被害者。兄のカインは弟のアベルを殺したが故に神に問いただされ、エデンの東に位置するとされるノドの地へと追放された。カインは彼の地に自分の場所をつくろうとする。このノドこそが、人類最初の都市なのだとエリュールは語る。殺人の罪によりカインが帰る場所を失ったこと、そして新たに帰る場所として打ち立てられた土地こそが、都市の起源となっていること。都市とは出発点や通過点ではなく、初めから終着点としてあった。より興味深いのは「ノド」という地名がヘブライ語で「放浪」を意味していることだろう。

──最初の都市は、ノマドを意味していたと。

面白いですよね。石神氏は、ここまでお話してきたような、都市機能の分散化やP2P化についても論じながら、ますます「帰宅」が不可能になっている社会において、いかに「帰宅」を組み直すことができるかが、わたしたちがいま直面している課題なのだと語っていますが、とりわけ15分都市というものを考えるにあたって、これは案外重要な論点となるのかもしれません。

──ネイバーフッド全体に機能が分散され、地域そのものが「家」となったときに、そこから出ること、帰ることは可能なのか、ということですね。

はい。この連載で、いつだったか、ソーシャルメディアを家のように感じている若者が一定数いる、という話を紹介したような気がしますが、カインがつくった放浪者の都市は、すでにバーチャル世界に移っているかもしれず、それが物理世界と一体化しながら、わたしたちの日々の旅をかたちづくっているのだとすると、これまでのような「設計」の原理では、ますますその現実を把握するのが難しくなるでしょうね。冒頭のイーノ先生のことばは、そういったことも踏まえて理解しておくべきなんでしょうね。

若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。本連載の書籍化第2弾『週刊だえん問答第2集 はりぼて王国年代記』のお求めは全国書店のほか、Amazonでも


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