A Guide to Guides
週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzが取り上げている「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが「架空対談」形式で解題する週末ニュースレター。今回原稿で取り上げる「疲労社会」のための(?)新作音源プレイリスト(Apple Music)もご一緒にどうぞ。
Cash: A crash course
ゾンビと現金
──お疲れさまです。調子悪そうですね。
そんなことはないのですが、今週はあまり語ることがない感じでして。
──珍しいですね。どうしたんですか?
今週は韓国ドラマに激しく時間を取られてしまいまして、ほとんどそのために生きていたという感じでして。
──『イカゲーム』ですか?
『イカゲーム』は観ようかな、と思って少し見始めたのですが、「まだ、いいかな」と思ってやめてしまいました。
──なんでですか?
流行ってるものを流行っているうちに観たりするのは、あまり好きじゃないんです。
──変わってますね。どうしてですか?
「そんな流行りもん、観るかよ」と昔からカッコつけてたのがすっかり習慣化してしまいまして。ポン・ジュノ監督の『パラサイト』も、実はようやく先週観ました。
──遅っ。って、この間、韓国映画やドラマばかり観てるということですか?
はい。
──これまで観てなかったんですか?
たまに観るくらいでドラマはほとんど観てないですね。時間を取られすぎてしまうので、普段からあまり観ないようにしてるんです。ところが8月にDisney+に加入したので、「スター・ウォーズ」やらマーベル作品をひと通り観まして、なんとなくドラマに耐性ができてきたかな、と。やたら時間取られるのはそうなんですが。
──つらいですよね。
そうですね。だいたい夜中の0時くらいから明け方の6時くらいまで観続ける、というような日々を送っています。
──ちゃんと働いてるんですか?
どうでしょう。自分はそのつもりですが。
──韓国ドラマ、どうですか?
最初に観たのが『キングダム』で、これはゾンビものだと教わって、そうなのかと思って観たんですね。
──ゾンビ映画、好きですもんね。
好きというよりは興味があるという感じなのですが、勧めてくれたのがデスクワークをするときにずっとホラー映画かゾンビ映画を流しっぱなしにしているという変わった女性編集者でして、彼女いわく「韓国のゾンビは、ピチピチしてていいですよお」とのことで(笑)。
──ピチピチって、ゾンビですよね(笑)。
韓国のゾンビは、特殊メイクよりも、どちらかというと身体表現のほうに重きが置かれていまして、それこそ『キングダム』や『新感染 ファイナル・エクスプレス』といった作品の制作には、振付師が入っているんですね。
──へえ。
「ボーン・ブレイキング」と呼ばれるストリートダンスの一種がありまして、これは肩関節などをありえないような方向へグニグニ曲げたりするもので、それこそ2018年のコーチェラでのビヨンセのライブ「ホームカミング」でもそうしたダンスがフィーチャーされていましたが、韓国の知られたゾンビ作品ではJeon Youngというダンサーが振付を担当しているそうです。なので、韓国ゾンビは、実際には彼の指導を受けてダンサーなどが演じていますので、確かに異様に身体能力が高いんです。床に寝そべっていた死者が、グニグニとゾンビとして蘇生するシーンが『キングダム』にはありますが、訓練した身体でないと、あれはできないと思います。
──面白いですね。それだとゾンビの動きをついつい観ちゃいますね。
そうですね。とはいえ韓国のゾンビものというのは、それほど長い歴史があるものではないそうで、『新感染』という映画が、ヒット作としてその嚆矢となるそうで、『新感染』の監督ヨン・サンホは、『新感染』の前日譚にあたるアニメ映画『ソウル・ステーション/パンデミック』、その後を描いた『新感染半島 ファイナル・ステージ』の3部作で、韓国ゾンビのスタンダードをつくったと言えそうです。
──その後、わっと出てくるわけですね。
わっと、というのが適切かどうかはわかりませんが、Netflixだけでも『キングダム』のほか、『#生きている』がつくられ、厳密にはゾンビ作品とは言えませんが『スイートホーム』などもあります。
──だいたい観ました?
『スイートホーム』は途中でやめちゃいましたが、他はだいたい観ました。ちなみに11月にはヨン・サンホ監督の新作ゾンビシリーズ『Hellbound』が配信されるそうですが、このヨン・サンホ監督がつくった定式というのは、ゾンビ映画は格差社会のメタファーになるということだと思うんですね。
──ああ、なるほど。
『新感染』でソウルを壊滅させたゾンビの襲来は感染症によるもので、それがどこから始まるかというとターミナル駅で寝泊まりしている家を失った人たちからでして、監督は、『ソウルステーション』のアイデアは、まさにホームレスネスの問題にあったとインタビューで語っています。
このアニメ映画のモチーフはソウル駅で暮らす家を失った人びとでした。家を失った人びとはわたしたちとは異なる生活を送っていますが、わたしたちはさほど気にも止めず風景の一部だと思っています。そこで考えたのは、顔の半分を食いちぎられたゾンビが駅をうろついていたら、人びとは、それが家を失った人たちと違っているか気づくのだろうか、ということでした。
──『新感染』のなかで家のない男性が重要な役割を果たしていましたが、彼は終始ゾンビと間違えられていましたね。
『新感染』では格差の問題は、主人公である若い父親を通して描かれますが、お金とコネクションをもつこの人物は、それらを駆使してなんとか自分と自分の娘だけが助かろうとするんですね。かつて、この連載でゾンビについて、ゾンビとは経済的主体で、資本主義の産物であることを論じたことがありまして、そこでゾンビはかつては産業資本主義の奴隷のメタファーだったのが、消費資本主義のメタファーとなり、その後金融資本主義、IT資本主義/監視資本主義のメタファーとして描かれるだろうと書いたのですが、『新感染』におけるゾンビはまさに金融資本主義の奴隷として描かれていまして、というのも、いまお話しした主人公の仕事がファンドマネジャーでして、ゾンビ化を引き起こしたパンデミックと彼の仕事が関わっていることが、映画が進むに連れて明らかになっていくからです。
──おお。なるほど。資本主義の進化に連れてゾンビも進化している、と。
こうしたモチーフはゾンビ映画に限らず、韓国映画・ドラマにおいては極めて顕著なものでして、この間観た映画・ドラマはいずれも判を押したように、「格差」というものを問題にしているんですね。
──『パラサイト』も『イカゲーム』も、基本、その線での評価ですもんね。
『Wall Street Journal』は、『イカゲーム』について、こう書いています。
『イカゲーム』のクリエイター、ファン・ドンヒョクが本作のアイデアを思いついたのは10年以上も前、母と祖母と暮らしているときだった。彼は当時金欠で脚本を執筆していたラップトップを675ドルで売らなくてはならなかった。
当時、出資者や役者たちは、この作品で描かれた、金のために命を賭けて競うことのありえなさに憤慨した。だが、2年前、Netflixはここで描かれた階級をめぐる闘争はリアリティがあると判断した。
COVID-19がグローバル経済を直撃したことで、富めるものと貧しいものの格差はさらに広がった、と50歳のファンは語る。ワクチン供給にしたって、国が豊かかどうかで違いが出ていると彼は言う。
「世界は変わったのだと思う」。ファン監督は言う。「10年前と比べるなら、こうしたことによってわたしが描いた物語は人びとのリアリティに訴えるものに変わった」
──世界90カ国で1位ですからね、よほどの訴求力なんですよね。
自分は観ていないのでなんとも言えないのですが、この間に観た韓国作品は、就職難や失業、経済界や政界の腐敗、警察・軍隊の横暴といったことが下敷きになっていないものがないと言っていいほどでして、それを観ただけで韓国経済と社会がいかに不安定化しているかがよくわかります。
──ちなみに何を観たんですか?
たいしたものは観てはいないので恥ずかしいんですが、『EXIT イグジット』『サイコキネシス 念力』『エクストリーム・ジョブ』『スペース・スィーパーズ』『チョ・ピロ 怒りの逆襲』『ガール・コップス』『毒戦 BELIEVER』『無垢なる殺人』『必ず捕まえる』といったものです。あとドラマはこの間『シーシュポス 神話』と『秘密の森』というのを観てました。
──面白いんですか?
どうでしょうね。どれも採点すると78点くらいの作品で、人に薦めるようなものはないと言えばないのですが、個人的にはそういう映画を観るほうが面白くて、ポン・ジュノ監督のような一流の監督がつくるものはたしかにすごいはすごいんですが、時代感みたいなことでいうと、78点くらいのフィーチャーフィルムのほうが色濃く出ているという感じはしなくもありません。なんにせよ、ここで観たものはほとんど全部が、驚くほど似た構造をもっていて、かなり雑に言いますと、登場人物のほとんどすべてが、システミックな格差・腐敗とそれがもたらす無力感と自虐に苛まれているんですね。
──つらいですね。
はい。つらいんです。つい最近、韓国出身でドイツで人気だという思想家、ハン・ビョンチョルの『疲労社会』という本をパラパラと読んでいたのですが、ここで描かれていることは、韓国映画やドラマに観ることのできるつらさをよく表しているように思います。彼は、わたしたちがいま生きているのは、かつてあった「規律社会」ではなく、「能力社会」というもので、その対比をこんなふうに記しています。
規律社会の否定性が生み出したのは(禁止や命令に従わない者としての)狂人や犯罪者であった。それに対して能力社会が生み出すのは(然々することができない者としての)うつ病患者と無能な人間ある。
規律社会から能力社会への移行に伴う物の見方の変化(パラダイム・チェンジ)は、ある次元では連続性も示している。社会的無意識に一貫して内在しているのは、紛れもなく、生産性を最大化するための努力である。だが、生産性が一定の水準に達すると、規律社会と禁止の否定図式は限界に突き当たる。そして生産性をさらに向上させるため、規律という物の見方は、能力という物の見方と「できる」という肯定図式に取って代えられる。(中略)規律に従順な主体よりも能力の主体の方が迅速で生産的なのである。とはいえ、「できる」という能為は「すべき」という当為を取り消すわけではない。能力の主体は、依然として規律化された主体である。この主体は規律という段階を修了したのである。規律の技術によって、つまり「すべき」という当為の命法によって達成された生産性の水準は、「できる」という能為によってさらに押し上げられる。(中略)
うつ病が発祥するのは、能力の主体がもはや何もできないときである。うつ病とは、第一に、何かを為すことに疲れた状態である。うつ病の個人は、何もできないと訴える。だが、こうして訴えることができるのは、できないことはなにもないと信じている社会だからこそである。もはやなにもできないということができる、こうした事態が行き着く先は、破壊的な自己批判や自虐である。能力の主体は、自分自身と戦っている。そしてこの内面化された戦いの負傷兵が、うつ病患者である。うつ病とは、肯定性の過剰に苛まれた社会の病理である。それは、自分自身と戦う人類を反映している。
──「なんでもできる」からこそ「なんにもできない」という状態が出てくると。
はい。基本、わたしが観た韓国映画で描かれる最初の状況というのは、まさにこうしたことでして、主人公はほとんど、無力感と自虐のなかで生きているんです。かつその状況を打破するためには、権力や腐敗の構造の側に身を寄せて、自分の「能力」を示さないといけないと焦っていたりもします。ところが、ある事件を契機に、ある種の自問をはじめることとなり、そのなかで、「自分はいい人なのか」を問い始めるんです。
──いい人?
これらの映画で描かれる行き詰まりというのは、「できる」「能力がある」という示すことは、ほとんどの場合「腐った社会と経済」に与することと同義で、それ以外の選択肢がないという状況なんです。つまり、「できる」「能力がある」ということが「いいこと」だったり「正義」といったこととつながる回路がないんです。で、そのことがなおさら登場人物たちを自己批判や自虐へと追い詰めているわけです。
──なるほど。
パク・ビョンチョルは、端的にこう説明しています。
能力の主体としての現代人は、自分自身を虐げ、自分自身と戦っている。彼は自分が自由であると思い込んでいるが、じつはプロメテウスのように鎖につながれている。プロメテウスの繰り返し生えてくる肝を食らう大鷲は、この場合、自分が戦っているもうひとりの自分を表している。こう考えると、プロメテウスと大鷲との関係は、ひとつの自己関係、すなわち自己搾取の関係ということになる。(大鷲に食われても、)プロメテウスの肝それ自体に痛みはない。だが、(食われてはまた生えてきて、また食われることを繰り返すことで、)そこには疲労という痛みが伴われる。自己搾取の主体としてのプロメテウスは、終わることのない疲労に襲われている。彼は疲労社会の原型なのである。
──永遠の自己搾取。きついですね。でも、そう言われると、誰しもが身に覚えのあるもののようにも感じられます。
若者からしてとにかくみんなが疲れているというのは、少なくとも自分が見た映画やドラマの特徴でして、ところが、稀にそうした疲れとは無縁な存在が社会にはいまして、それは例えば子どもだったり、自閉症の人だったり、あるいは脳の障害によって感情を失った人だったりするのですが、そうした人たちが起点となって、主人公たちが自己搾取している状態から抜け出すさまが、これらの作品では描かれます。そして、子どもをはじめとする「疲れと無縁な人」が突きつけるのは、「あなたはいい人なのか?」という問いなんですね。で、もちろん映画ですので、主人公の多くはいい人であることを選ぶのですが、それは多くの場合、自分の死を覚悟することと引き換えにしか達成されないんです。
──なるほど。わかってきました。要は、悪に転んで永遠の自己搾取のなかで生き続けるか、それともいい人として死ぬことを選ぶか、ということですね。
そう言ってしまうと他愛のないお涙頂戴の物語という感じですが、「あなたはいい人なのか?」という問いは、やはりそれなりにいまの時代に響き合うものだとは思うんですね。生産性と引き換えに、大事なものを引き渡していいのか、という問いですが、現実世界で必ずしも実行できなくても、それでもせめて映画のなかでは、いい人である方を選ぶ人を、わたしたちは見たいんですよね。
──それはそうですね。映画ですからね。とはいえ、どっちにせよデスゲームには変わらないという感じがしてしまうのが痛ましいところです。
そうですね。全面的に社会がよくなるというようなカタルシスはないですし、疲労が除去されるという事態に行き着くわけでもないですからね。ときに、『疲労社会』という本が面白いのは、実は、ゾンビというものについても触れているからなんです。
──へえ、そうなんですか。
ゾンビということばは使っておらず「生ける屍=アンデッド」という言い方なのですが、ハン・ビョンチョルはイタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンが語った「ホモ・サケル」(homo sacer、直訳するなら「聖なる人間」)という概念を用いながら現代社会に生きるわたしたちの状況をこう説明しています。
ホモ・サケルとは、もともとはローマにおいて罪を犯したために社会から排除された人びとのことであった。彼らを殺しても、人は罪に問われない。アガンベンによれば、ホモ・サケルとは、絶対的に殺害可能な生を意味する。(現代の)ホモ・サケルとして、アガンベンが説明するのは、強制収容所のユダヤ人やアメリカ軍のグアンタナモ捕虜収容所の囚人である。それに不法移民や、法の適用されない空間で国外退去処分を待つ難民もそうである。さらに体中にチューブが巻きつけられ、植物状態で生きている集中治療室の患者もそうだという。だが、後期近代の能力社会において、私たちみんなが剥き出しの生へと還元されてしまうならば、社会の周縁や例外状態に置かれている人びとだけでなく、つまり社会から排除された人々だけでなく、私たちみんながホモ・サケルとなる。とはいえ、ホモ・サケルとしての私たちは絶対に殺害可能なのではなく、むしろ絶対的に殺害不可能である。この点に、ホモ・サケルとしての私たちの特異性がある。私たちは、いわば生きた屍(アンデッド)なのである。
──むむむ。
加えて、わたしたちの「絶対的に殺害不可能」な状況がどのようにして生み出されているかをこう説明しています。
資本主義経済は、生き延びることを絶対化する。より多くの資本がより多くの生を生み出し、生きるためのより多くの能力を生み出す。こうした幻想に、資本主義経済は拠って立つ。しかし、生を死から峻別することによって、生そのものはその正気を失い、死霊のように硬直化する。ただ生き延びることのヒステリーに拠って、善く生きることへの気遣いは退けられてしまう。そして、生は生物学的な生命プロセスへと還元される。(中略)個々人の(生の)物語(ナラティブ)の中身は完全に抜け落ちてしまう。そして、まさにそのとき健康幻想が生じてくる。社会がアトム化し、社会的なものが蝕まれていくなかで残るのは、自我の身体だけである。だからこの身体は、なんとしても健康に維持されなければならない。(中略)いまやあらゆる手段を駆使して、この生を延長することが重要となる。健康が新たな女神として奉られる。それゆえ、たんなる生が神聖となる。能力社会のホモ・サケルたちは(健康であり続けねばならず、)絶対に殺害不可能とされる。この点において、彼らは主権社会の(絶対的に殺害可能な)ホモ・サケルとは異なる。能力社会のホモ・サケルたちの生は、生きた屍(アンデッド)のようである。彼らは死ぬためにはあまりにも生き生きとしており、生きるためにはあまりにも死んでいるようなのである。
──すごいですね。「死霊」「硬直化」「生き延びることのヒステリー」「生の物語が抜け落ちる」「絶対に殺害不可能」「生ける屍」とことばを並べていくと、それだけで、まるでゾンビ映画の解説のように読めてきます。
ほんとですね。しかも、これが「私たちみんな」の生の様相だというのですから、なんというか、恐るべき時代を生きているものだな、と改めて戦慄を覚えてしまいますが、こう語られると、なぜ世界中が韓国ゾンビ映画や『パラサイト』『イカゲーム』といった作品に現代性を感じるのかも、見えてきそうな気がしなくもありません。
──韓国ゾンビがピチピチしているという話は、「彼らは死ぬためにはあまりにも生き生きとしており」という一文とも妙にシンクロしますしね。
今回の〈Weekly Obsessions〉のお題は本当は「キャッシュ」でして、これは、コロナの影響でキャッシュの利用は減っているにもかかわらず、アメリカを含めたいくつかの先進国ではキャッシュの流通量が増えているという事態を受けて、キャッシュの現在と未来とを概観したミニ特集ですが、重要な論点のひとつとなっているのは、デジタルによる脱キャッシュ化が本当に望ましいのかという点です。もちろんキャッシュというものが脱税や地下経済の温床になっているという指摘はその通りだとしても、キャッシュが担保していた「匿名性」が失われることで「ファイナンシャルな自由」が損なわれることの問題を、脱キャッシュ推進派がどこまで考慮しているのか、ということが懸念されています。
──能力社会とお金のデジタル化は、なんだか相性がよさそうでもありますね。
どうなんでしょうね。デジタル化の帰結が、必ずしも能力社会に帰結するものではないようにも思うのですが、現在進行しているデジタル社会が資本主義によってドライブされていることを思えば、たしかにその危険はありますね。ちなみにですが、今回やたらとフィーチャーしているハン・ビョンチョルの日本語の最新刊は『疲労社会』の続編で『透明社会』というものなんですね。
──まさにキャッシュレス社会が目指しているのはそれですよね。
まだ読んではいないのですが、手元に本があったはずがちょっと見当たらないので、本の売り文句だけを拾っておきますと、こうあります。「『透明社会』は『管理社会』に転化する──「透明性」というイデオロギーの哲学的解剖:ベンヤミン、ボードリヤール、ロラン・バルト、アガンベンらの思想を拡張し、高度情報化社会における新たな『暴力の形態』を探る現代管理社会論」。
──ふむ。
さらに目次を見ますと、「肯定社会」「展示社会」「エビデンス社会 」「ポルノ社会」とあって最後に「管理社会」となりますので、『疲労社会』で描かれた「否定/規律」 ではなく「肯定/能力」を旨とする社会が、その帰結として「管理」にいたることが明かされているものと見えますが、キャッシュレスという事態を通じて生み出されるのがより強固な自己搾取であるという、絵図はなんとなく想像できますね。
──困りましたね。
キャッシュレスに強い懸念を示している『Reason』というメディアの記事が『Quartz』の特集内では引用されていまして、これは「キャッシュを擁護する」というもので、こんな内容です。
現金をなくそうという議論は、明白な問題に対する当然の解決策として提示されることが多い。しかし、その解決策は当然のものではない上に、問題自体も明白なものではない。デマネタイゼーションの提唱者たちは、ファイナンスにおけるプライバシーを一顧だにせず、個人の自由を制限することに何の問題も感じていない。どんなに優れたデマネタイズ案でも、問題を改善することは困難だろう。むしろ、脱現金の賛同者たちは、はるかに劣悪な施策の実行を企む人びとに知的な後押しを与えてしまっている。
インドやベネズエラのような場所でデマネタイズの議論が悪用されていることを知れば、一旦立ち止まって考えたくなるはずだ。「現金が王」ではなくなる日が来るのを望むことは間違いではない。ただ、それを実現するために、一部の人々が望む決済手段へのアクセスに制限を加えることは、間違った考えである。
──インドとベネズエラ?
インドとベネズエラは、小額紙幣の流通を取りやめて、デジタル化への誘導を図ったとされていますが、その後、新たな高額紙幣を導入しています。記事の筆者は、こうした動きについて、「脱現金化の目的が犯罪の撲滅にあるという動機は疑わしいものとしか見えない」と語っています。つまり、小額紙幣を利用する貧しい人たちを管理することをターゲットにした施策だ、と指摘しているわけです。
──えげつない話ですね。
『Quartz』の「世界の中央銀行がデジタル通貨を議論するなか、UKはキャッシュを保護する」(As central banks debate digital currencies, the UK aims to protect cash)という記事によれば、英国ではペイメントの急速なデジタル化によるATMなどの急激な減少によって、高齢者やデジタルへのアクセスが困難な人たちが孤立化している問題が重大視されていまして、つい数日前に、「キャッシュへのアクセスを保護する」(Protecting access to cash)という表題のレポートが国会で提出されています。
──とはいえ、これ自体が先ほどから話してきた「疲労社会」から「透明社会」へといたる現代社会の病理の根本的解決はならないですよね。
それはきっとそうでしょうね。先のハン・ビョンチョルの引用で個人的に重要だと思うのは、「生を死から峻別することによって、生そのものはその正気を失い、死霊のように硬直化する」というところだと思うんです。資本主義というのは「生産」というところにやたらと重きが置かれ、それを集中管理することに最大の意義が置かれるものだと思うのですが、そうであるがゆえに「死」というものを受け入れないんですね。ちなみにゾンビの起源は、わたしの知るところでは、資本主義同様、カリブのプランテーションにあるそうで、そもそもは、働き手を死んだことにして、タダ働きさせるところから始まったというんですね。つまり、死んだはずの働き手を働かせるということなので、この働き手は死んでもいないし生きてもいない、文字通り生ける屍なんです。ハン・ビョンチョルが「より多くの資本がより多くの生を生み出し、生きるためのより多くの能力を生み出す。こうした幻想に、資本主義経済は拠って立つ」と書いている通り、「生を死から峻別すること」で生きながらえることとなったゾンビは、まさに資本主義経済の幻想そのものなんですよね。そう考えると、わたしたちが抱えるひとつの大きな問題は、峻別されてしまった「死」というものをどう扱いうるのか、ということでもあるような気がします。
──たしかに。
死とお金ということで言うと、企画に携わらせていただいているポッドキャスト「愛と死の人類学」で、パプアニューギニアの貝殻の貨幣と人の死、あるいは葬式といったことが語られているのですが、そこでは、お金というものが単なる「能力/生産の対価」としてだけあるのではなく、さまざまな社会的な価値を担っていることが明かされています。そして、そこではお金が死というものとも密接に結びついているんですね。それを聞くにつけ、お金がただただ「より多くの生を生み出し、生きるためのより多くの能力を生み出す」ための機能しかもっていないことの歪さに改めてたじろいでしまいます。
──そこでは、物としてお金が存在していることがきっと重要なんですよね。
おそらくそうなんだろうと思いますが、その辺はまだよくわかりません。デジタルで同じことが本当にできないのかは、もう少し考えてみる余地はあるのかもしれません。
──そうですか。今回もなんだか変な話になってしまいましたね。韓国ゾンビと韓国系ドイツ人思想家とキャッシュレスと。
「疲労社会」なんていうキーワードをめぐって話をしたおかげで、なんだかぐったりしてしまいました。
──ほんとですね。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。本連載の書籍化第2弾『週刊だえん問答第2集 はりぼて王国年代記』のお求めは全国書店のほか、Amazonでも。