A Guide to Guides
週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが「架空対談」形式で解題する週末ニュースレター。毎週更新している本連載のためのプレイリスト(Apple Music)もご一緒にどうぞ。
Far-right accelerationists hope
ウクライナの加速主義
──どうもです。ご機嫌いかがですか?
どうでしょう。普通だと思いますが、どちらかというとあまりよくないほうかもしれません。
──どうしたんですか?
特に何もないですが、仕事があまり思ったように進んでおらず、どうしたもんかな、という感じです。
──この数週間、Quartzでの連載ではウクライナに関する自由研究がずっと続いてきていますが、そちらはひと段落したんでしょうか。
停戦交渉に入るという話でしたので落ち着くところに落ち着くのかなと、なんとなくひと安心していたのですが、ここにきて、ゼレンスキー大統領が側近の将軍ふたりをクビにしたとか、ロシア領内のベログロドの燃料貯蔵庫が空爆を受けたといった話が出てきて、ちょっとまだよくわからない状況になっていますので、相変わらずウォッチするはめにはなっています。自分としては、いい加減ちょっとやめたいのですが。
──そもそも、なんでこの自由研究をずっとやっているんですか?
そこなんですよね。ひとつ大きな理由は、これまで書いてきたことや、考えてきたことと関係があると思っているんですね。
──ほう。
『次世代ガバメント』や『GDX』といった冊子をつくった際に、そこでは参加型の自発的なコミュニティによって新しいかたちの、よりインクルーシブな民主主義が、デジタルテクノロジーによって可能になるといったことをイメージとして描いたわけです。簡単にいうと、行政やお上に頼らない「自治」のあり方をデジタルテクノロジーがデフォルトとしてある環境のなかで再想像できないかということを考えようとしていたわけです。
──ふむ。
その背後には、おそらく今後ますます行政機構が機能不全を起こしていくなかで、そうした「自治」の仕組みを考えていくことが不可避なこととなっていくだろうという見立てがありました。加えて、デジタルテクノロジーは、もちろんそのダウンサイドも大きいとはいえ、そうした「自発的参加」の動きをポジティブに後押しするものになりうるという方向で運営されていくべきものであろうというのは、パソコンが登場した際にも、インターネットが登場した際にも、ソーシャルメディアが登場した際にも語られたことでして、それは例えばWeb3という概念がバズ化するなかでもやはり語られているわけですね。
自分はそうした楽観主義には、そこまでは全面的には与したくない立場ではあるのですが、とはいえ、インターネットに新しい希望が託されては、その夢が潰えていくことが散々繰り返されてきたなかで、それでもそこにポジティブな可能性をみようという姿勢には共感もあるはあるんです。
──悪いことも起きていますが、いいこと面白いことも生まれていないわけではないですしね。
ただ、これまでの経緯をみていると、例えばこれまで声をあげられず周縁化されてきた人たちが声をあげられるようになったことをポジティブなことと捉えることはできる一方で、テクノロジーは、それを不満に思う人たちにも同じように声を与えることになりますので、デジタルテクノロジー自体は、民主主義的な価値観にだけ奉仕するわけではないんですね。
──あ、そうなんですか。デジタルテクノロジーは「民主化」という趨勢をもたらすものかと思っていましたが。
そこは実は混線があるところでして、例えば、これまでマイノリティの人たちが社会の圧力や有形無形のさまざまな規制・規範によって声をあげることができなかったのをそれができるようにするのが「民主化」であるならば、その「民主化」は巷でヘイトスピーチと呼ばれるような何かを公言したい人が声をあげることもたやすくしていくわけです。
──テロ組織や過激派組織が極めて巧みにインターネットやソーシャルメディアを使いこなしてきたことは、つとに知られていますよね。それも「民主化」の恩恵ということですね。
はい。これまで莫大な予算がないとできなかったり、参入資格がないとできなかったりしたようなことを起こしていくことが、デジタルテクノロジーがもたらす「民主化」ですから、それが自明のものとして「民主主義」に寄与するものかというとそういうわけではないんですね。ここは、案外混線しやすいところだと思います。つまり、ここで言われる「民主化」とは、要は「テクノロジーの民主化」のことを言っているわけです。
──そうか。
ちなみに、Wikipediaには「テクノロジーの民主化」(Democratization of technology)という項目がありまして、「テクノロジーの民主化」と「民主主義」の位相を、こう解説しています。
一部の学者は、テクノロジーの変化が民主主義の第三波をもたらすと主張している。インターネットは、市民の主張の高まりと政府の透明性を促進する役割を果たすと認識されている。一方で、デモクラシーとテクノロジーとの関わりを専門とする思想家のジェシー・チェンは、テクノロジーの民主化効果を民主主義そのものと区別している。チェンは、インターネットは民主化効果をもたらすかもしれないが、テクノロジーが、民主主義のニュアンスに即して慎重に設計され、とりわけ選挙以外の時間においても、政府のなかもしくは政府を超えて市民を大規模に政治にエンゲージできる方法が見いだせない限り、インターネットだけでは社会のあらゆるレベルで民主主義を実現することはできないと主張している。
──テクノロジーの民主化が起きたところで、それが民主主義に資するものになるかどうかは、まったく別の話ということになるわけですね。
当たり前といえば当たり前なのですが、「民主化」ということばに釣られてしまうと、その位相の違いをうっかり見落としてしまいがちになるのかなと思うんです。自分もなんとなく、そこをちゃんと分けて考えてこなかったという反省もあるのですが。
──ふむ。
とはいえ、デジタルテクノロジーがもたらす民主化が、新しい民主主義の可能性をもたらすといったことは、90年代からイメージされてきたことでして、自分が知っている範囲ですと、例えばピエール・レヴィというフランスの思想家が1994年に書いた『ポストメディア人類学に向けて:集合的知性』という本はファンダム研究における重要な参照ともなっているものですが、このなかでレヴィは、「相互作用的なマルチメディア」空間、つまりサイバースペースにおける新しい民主制を、こんなふうにイメージしています。
民主制の理想は代議士の選出にあるのではなく、市民生活への国民の最大限の参加にある。古典的な選挙は一つの手段でしかない。なぜ、現代的技術の使用に基づく他の諸手段を検討しないのだろうか。投票箱に投ぜられた票数についてとやかく言い合うような市民参加のあり方よりも、質的に優れた参加を可能にするような他の手段を検討しないのだろうか。(中略)
サイバースペースにおけるリアルタイムの直接民主制というからくりは、各自が絶えず共通の諸問題を練り上げ洗練すること、あらたな問いの口火を切ること、議論を鍛え上げること、多種多様な主題について相互に独立した立場を表明し取り入れることを可能にするだろう。(中略)
私たちはもはや《集塊(マス)をなす》こと、一つの政党に重きを置くこと、一人のスポークスマンに過大な正当性を与えることによってではなく、多様性を創造し、集合的思惟(pensée collective)を活気づけ、共通の諸問題を練り上げて解決することに寄与しながら、市民生活に参加するのである。
代表者たちを経由しないで、多元的な言葉を発する方法を集団に与えること。これがサイバースペースにおける民主主義の技術−政治的(テクノポリティック)な目的である。
──かっこいいですね。それこそオードリー・タンさんが主導する台湾のシビックテックの動きなどは、ここに語られていることのひとつのモデルのようにも見えます。
そうなんです。まさにレヴィがここに書いたような一種の民主主義のユートピアが台湾では目指されてはいるとは思うのですが、それが世界的にみてどこまで目覚ましい趨勢となっているかといえば、むしろそこから遠ざかっているような感じもするんですね。例えば、文筆家の木澤佐登志さんは、レヴィが語った「集合的知性」の現在地を、こう書いています。
レヴィの「集合的知性」という概念には、来るべきインターネットの可能性に対する(やや過剰な、だが当時としてはありがちな)楽観的期待感が込められていた。だが、2020年代を迎えた現在、彼が幻視したサイバースペース・ユートピアはいまに至るまで実現していないし、その気配すらない。そのことを私たちは痛いほど知っている。集合的知性はそれと相反する集団極性化によって阻まれ、蛸壺化したコミュニティは、サイバーカスケード現象、すなわち憲法学者キャス・サンスティーンが指摘してみせた、似た思想や嗜好を持つ者同士を結びつけやすくするインターネットの特性によってますます先鋭化/過激化してゆき、それと同時にグーグルのアルゴリズムは、自分の見たい情報しか見えなくさせるフィルターバブル現象を再帰的に強化していく。結果どこまでもパーソナライズされたネット空間──ためしに自身のSNSのタイムラインを眺めてみよ──は、自分と思想信条を同じくするコミュニティの声が延々と増幅しながら跳ね返り続ける自閉した反教室(エコーチェンバー)と化す。そこに、GAFAをはじめとするIT企業が形成した関心経済(アテンションエコノミー)が加わる。
──なるほど。たしかに、そう言われるとひどいありさまではありますね。
この木澤さんの文章は、先週この連載で紹介したユリア・エブナーという過激派組織リサーチャーによる『ゴーイング・ダーク:12の過激主義組織潜入ルポ』という本の解説として書かれたものなのですが、この本の衝撃的なところは、ネオナチからイスラム原理主義まで、多種多様な組織が、極めて洗練されたやり方で、デジタルテクノロジーがもたらした可能性を、民主的ではない方向に向けて利用しているところだと思うんです。エブナーは本の序文でこう書いています。
テクノロジーと社会の相互作用は、かねがね急進的な変化の鍵を握ってきた。1936年にドイツ系ユダヤ人の哲学者ヴァルター・ベンヤミンが、ファシズムの台頭に拍車をかけたのはスクリーン印刷と初期の写真複製技術などの発明であり、こうした発明がメディアや芸術、政治に対する世間の意識を変えたと主張した。かくして技術的には進歩しても社会的には後退した運動が生まれた結果、20世紀のヨーロッパの権力力学(パワーダイナミクス)が形作られたのだ。
そしていま再び、21世紀の政治の向かう先を決めかねない、ノスタルジックなイデオロギーと未来志向のテクノロジーの危険な結合を、わたしたちは目の当たりにしている。今日の過激主義者がこしらえつつある急進化のエンジンは、最先端の代物だ。人工知能を備え、感情を操作でき、強大な社会的力を発揮しうる。それはハイテクとハイパーソーシャルな要素を併せ持ち、コンピュータ通の怒れる若者たちを魅了するカウンターカルチャーを煽り立てる。このエンジンが効果的に作動すれば、変化を引き起こす危険な力になるおそれがある。それは過激主義やテロリズムの性質を本質から変えるだけでなく、現代の情報生態系(エコシステム)や民主主義のプロセスを書き換えて、市民権という人類最大の成果を帳消しにする脅威となりかねない。
──こう書かれているのをみると怖いですね。
自分がウクライナの極右の問題に大きな衝撃を受けたのは、こうしたところと関係しています。というのも、自分から見ると、ピエール・レヴィが語ったことを例えばウクライナの極右組織は逆用・悪用しているというよりは、レヴィが語った新しい「市民参加」の可能性を、実はそっくりそのまま体現しているだけのようにも見えたりするからなんです。
──と言いますと。
ウクライナの極右組織の問題が、外から見えにくいのは、これは何度も指摘してきたことですが、いわゆる「投票」というシステムのなかにおいて、まったく存在感がないからです。ところが、彼らは「民主化革命」と呼ばれる「ユーロマイダン」に、それこそ「自発的に参加」し、その後ドンバス地方で起きた親ロシアの分離派との戦闘にも「自発的に参加」し、その後、キエフ市などで自警団のような役割を警察と分け合うかたちで行政府から請負うことに「自発的に参加」していったりすることで、投票システムの外で社会的認知と支持を得ていくことになります。そして、そうした「市民活動」をSNSなどで喧伝しつつ、音楽フェスやサマーキャンプなどを開催しながら、市民をどんどん動員していくんです。
── 一種の無政府状態のなか自治空間をつくりあげていくということですね。
サッカーにおける「ウルトラス」の実態を世界中で追いかけた『ウルトラス:世界最凶のゴール裏ジャーニー』という本にウクライナをめぐる章がありまして、そのなかにサッカーのウルトラスがいかに極右組織の基盤をなしていったかが描かれているのですが、彼らが市民の間で支持を得ていった流れを以下のように説明しています。この部分はウェブに無料公開されていますので、ぜひ読んでみてください。
ユーロマイダン、そしてロシアとの軍事衝突における貢献度の高さは、アゾフの名前を広めただけでない。ウクライナにおけるウルトラスの名誉復権にも貢献した。
かつてのウルトラスは、粗暴で人種差別的で社会に何らの利益ももたらさない存在として見なされていた。(中略)
だが、ユーロマイダンとロシアとの軍事衝突を通して、ウルトラスと極右勢力は自らの悪しきイメージを払拭し、社会において一定の立場を確保することに成功したのである。
「ロシアとの紛争が起きた後は、多くのウクライナ人にとって、極右勢力は二次的な問題に過ぎなくなったのです」
ヨーロッパ大西洋協力研究所の政治学者で、ウクライナとロシアの政治に詳しいアンドレアス・ウムランドは指摘している。
「極右勢力は反ロシア、反プーチン主義の立場を貫いてきました。この事実は、そもそも彼らが反ロシアを標榜する理由(ラディカルな民族主義)よりも重視されたのです」
一方、先ほど紹介したFAREのクリメンコは、ウルトラスと極右とのつながり自体が軽視されるようになったと分析する。結果、世間一般ではウルトラスが抗議活動や戦闘にも加わったという美談ばかりが語られる状況が生まれた。
「ウクライナの最も西にある村の人間でさえ、ウルトラスを善良な連中だと思い込んでいる。ウルトラスを批判するような意見は、ロシアのプロパガンダだと受け止められるようになった」
かくして市民権を得た極右勢力は、自らの存在をより公然とアピールし始める。
2016年10月、国民部隊は新たな政治勢力として表舞台に登場。数千人の支持者が火のついた松明を掲げながら、キエフ市内を練り歩く。この間、目出し帽と軍服に身を包んだ面々は「敵どもに死を!」「祖国に栄光あれ!」とシュプレヒコールを繰り返した。
同時に国民部隊は街宣活動を行う組織として、「国民軍」を新たに発足させる。ビレツキーは設立趣旨を説明している。
「当局が無力で、社会にとって死活的な問題を解決できない場合、ごく普通の一般市民が責任を負わされることになる」
──最後に登場するビレツキーという人物は、アゾフ大隊の初代司令官ですね。
ここで彼が語る「当局の無力」はまさにウクライナをずっと苛んできた問題でして、オリガルヒの支配によって政治が骨抜きにされ、経済の不安定化によって警察や軍隊などが縮小されていったなかで生まれた空白に、まさに極右民兵集団が収まっていったということなのですが、実際彼らは、警察や軍隊が足りていないところを補っていることに強い自負をもっていたりもします。
──そういうふうに言われると、それを支持したくなる市民もいそうですしね。
そうなんです。つまり彼らは、ある意味地道とも言えるやり方で、投票によって規定された政治空間の外にある政治空間に入っていき、そこで市民権を得ていくことになるのですが、これはやり方としては、市民を動員しながら行政サービスを開発していく台湾のデジタル民主主義のモデルと、目指す先は間反対ですが、システムの作動のさせ方は非常によく似ているわけです。
──ロシアの侵攻を受けて、国内外の市民の戦闘への「参加」がウクライナではやたらと推進されていますが、こうしたことが国内でどの程度支持されているのかは定かでないとはいえ、そうしたことがすんなり受け入れられているのだとすると、ボランティア民兵の活躍が喧伝され支持されてきたことが、その土壌となってきたということがあるのかもしれませんね。
また、こうしたボランティア民兵組織が、わかりやすく政治勢力化していない、つまり選挙においてまったく存在感がない点については、さまざまな分析がありうると思うのですが、先の本『ウルトラス』は専門家の意見をこう引いています。
極右勢力は明らかにウクライナにおいて存在感を増しているにもかかわらず、実際の選挙ではなかなか支持を得られない。ヨーロッパ大西洋協力研究所のアンドレアス・ウムランドは、その原因が政治的イデオロギーのわかりにくさにあると考えていた。
「アゾフに吸収され、極右政党に関わることになったウルトラスも、自分たちのイデオロギーを厳密に把握できていないのではないでしょうか。
メンバーの中にはネオナチもいますが、そうでない者もいる。あるいは彼らは(極右ではなく)一般的な愛国者に過ぎないかもしれません。(ロシアによる支配からの)解放を訴える民族主義と、極端な国家主義を見分けるのが非常に難しい場合もあるのです」
──極右組織と呼ばれる組織も、参加型のボランティア組織であればなおさら、色んな思想信条の人もいる、と。
そうですね。単にロシアが嫌いだという人もいれば、民族主義的な人もいれば、本の中に登場する若者のように「汚職と搾取」に反対している人もいるわけです。外から見ると何を主張し、どんな価値を体現しようとしているのかがよくわからず、その結果選挙では存在感を示せずにいますが、逆にいえば、その多様性が、逆に「市民団体」としての彼らに信頼性を与えているということもあるのかもしれません。
──となると、かなりややこしいですね。
そうなんです。2014年のユーロマイダンにおいても、多くの見方では、あれは親欧米、民主派によるデモだと見られていますが、『ウルトラス』の著者ジェームス・モンタギューは、「ユーロマイダンを支えたウルトラスと市民の活動家は、同床異夢ともいうべき連合を組んでいたことがわかる」と書いていまして、いわゆるリベラルと極右、そして極右のなかのいくつもの分派が「奇妙な連帯」を果たしたものだと書いています。実際あるフットボールクラブのウルトラスの代表は、市民に対して「革命」への参加を呼びかけるにあたって、こう書いていたとモンタギューは明かしています。
売国奴からキエフを防衛する活動にまだ参加していない方へ。
我々が(デモに)向かうのは、ヨーロッパの一員になるためではありません……
ロシアやロシア人に対抗するためでもありません!!!
我々が(マイダンに)向かうのはキエフの人々のため、我々の街のため、祖国のため、そして我々の名誉のためなのです!
──あれ? 反露親欧というわけでもないんですね。ヨーロッパの一員になる、つまりEU、NATO入りを望んでいるわけでもない、と。
そうなんです。ここは現在の紛争にもつながるところだと思うのですが、世間的にはユーロマイダンからドンバスの紛争、今回のロシアの侵攻は、欧米が主導するリベラルデモクラシーと、プーチン大統領が体現する権威主義/全体主義の対決のように喧伝されていますが、実際の闘争のフロントラインでは、それとはまったく異なるアジェンダをもった人たちが動いていて、しかもその人たちが一定の成果をあげてきたところが、自分としてはとても気がかりなところなんです。
しかも、その勢力は、ユリア・エブナーが指摘した通り「最先端」のやり方で、急進化のエンジンをぶんぶん回しながら、ウクライナ国内の東西対立や、その背後にいる米/NATOとロシアの対立をテコにして、さらに勢力の拡大を目論んでいたりもします。
──EU、NATOがどうしたとか、ロシアがどうしたといった目に見えているものとは、異なる動きがその奥底に潜んでいるということでしょうか。
というとこれまたいかにも陰謀論めいてしまいますが、こうした危惧は例えば『The Washington Post』が3月14日に掲載したオピニオン記事でも表明されています。「ネオナチがウクライナの戦争を自分たちの目的のために利用している」(Neo-Nazis are exploiting Russia’s war in Ukraine for their own purposes)という記事で、これはSITE Intelligence Groupというシンクタンクのテロリズムアナリストが書いたものでして、前半ではウクライナ軍に参加している世界中の極右民兵たちの参加動機の多様性が明かされています。長いですが訳しておきます。
Dの動機は、MD以上に厄介だ。「とにかくウクライナに着いたら、ユダヤ人をひとりでも多く殺してやる」とDはチャットに書いている。(中略) チャットメンバーZ は2月25日に「ヘルメットからあらゆる種類のベストまで多くのギアを持っている」と投稿しているが、このZは他のネオナチ・チャットグループの活発なメンバーでもあり、別のチャットグループで「ウクライナは大嫌いだ」と書いている。
西側の白人至上主義者やネオナチの多くは、現在のウクライナ政府を支持していないが、それは、ウクライナが単に反ユダヤ主義を禁じていたり、ゼレンスキー大統領がユダヤ人だからという理由ではない。ウクライナは生煮えの民主主義国家であり、極右過激派からすると自分たちが望むファシスト国家と相反しているのが理由だ。ドイツとイギリスで人気あるネオナチのチャットグループのある管理者は、メンバーたちにアゾフに参加するよう促した際にこう書いている。「わたしはウクライナを守りたいのではない。国家社会主義を守りたいのだ」
さらに、なかにはプーチンを賞賛する白人ナショナリストもいるが、欧米の極右過激派の多くは、ロシアを旧ソ連と混同して共産主義者とみなして反対している。ウクライナのために戦うことに向けられた動員は、共通の敵との戦いでもあるがそれだけではない。動員を呼びかける者たちは、ロシア・ウクライナの戦争を、軍事を通じて白人ナショナリズムを推進する絶好の機会と捉えている。彼らにとって、ウクライナはファシスト国家建設のためのサンドボックスであり、彼らは自国で見たいと切望している極右勢力による権力掌握が実現する好機をそこに見ているのだ。
──彼らにしてみると、ウクライナはもう一歩で、白人至上主義によるファシスト国家に到達すると見ているわけですね。
さらに記事はウクライナの軍隊内部には、さらにエクストリームなアジェンダがあることを明かしています。
ネオナチの中でも最もエクストリームな連中は、さらに邪悪な計画を抱いている。彼らはウクライナに「加速主義」アジェンダを推進するチャンスを見ている。文明全体の崩壊を加速させ、その灰の中からファシスト民族国家を建設することを謳うこの思想は、ネオナチ加速論者のなかで最も影響力があるとSITEがみなしている「Slovak」によって明確に明かされている。2月25日、Slovakはウクライナで戦うために見知らぬ国から出国すると発表した。「この戦争は、人民の肉体的・道徳的弱さを焼き払い、その灰の中から強力な国家が立ち上がるようにするものだ」と彼は書いている。「わたしたちの仕事は、この変革が起こるのために十分な期間、悲惨な状態が続くようにすることであり、そうすることで変革が確かに起こるようにしなくてならない。わたしたちの未来は危機に瀕しており、いまほど絶好なチャンスはもうないかもしれない」
Slovakは、ウクライナには数十年にわたる戦いが待っていると書き、それをNATOやロシアに対してアフガニスタンが見せた抵抗になぞらえている。「アフガニスタン人は40年以上、この2つの勢力に抵抗し続け、その末に自分たちの運命を支配できるようになった」と書いている。「ウクライナもこれに見習わなければならない」。
こうした加速主義的思想はニッチに見えるかもしれないが、深刻に受け止めなければならないものだ。2019年にニュージーランドのクライストチャーチで加速主義哲学を信奉するテロリストが51人を殺害した後、カリフォルニア州などでも模倣テロが計画された。
──文明の崩壊を加速させるために混沌・混乱・惨劇が長引けば長引くほどいい、と。そうした人たちからすると、停戦交渉で紛争が終わってしまったりするのは都合が悪そうですね。
表立って見える西と東の対立とは別に相当きな臭い動きが、水面下で動いているように感じるところが、今回の紛争において、おそらく自分がウクライナの極右組織にこの間ずっと興味をもってきた理由のひとつで、加えてそれが、ここまで書いてきたように、デジタルテクノロジーがもたらした可能性を最大限に利用したものでもあるという点で「最先端」の動きでもあるところに興味があるのかなと思います。そして、それがウクライナに限った問題ではすでになくなっているという点も大きな問題だと思います。上記の記事は、こんなふうに締められています。
この問題は、もはやナラティブの真実性に関わるものではない。問題は、セキュリティであり、それはウクライナだけでなく、ウクライナに参集した過激派たちの出身国の安全保障にも関わっている。
多くの点で、ウクライナの状況は10年代初頭のシリアを思い起こさせる。シリア紛争がアルカイダやISISのような組織の格好の温床となったように、ウクライナは極右勢力にとって同様のものになりつつある。シリアは、2015年のパリ、2016年のブリュッセルの同時多発テロなど、欧米で攻撃を仕掛けるテロリストたちの計画と訓練の場となったのだ。
ウクライナに渡ることに成功した過激派たちは、新たな武器と戦闘経験を身につけていずれ帰国するか、あるいはウクライナに留まり、ネットを介して同胞たちにさらなる影響を与える続けることができるだろう。過激派が「よその国」にいるからと言って、その存在が出身国にとっての脅威となることを、私たちは十分に学んでいる。どこで戦争が起ころうと、それは過激派にとってのチャンスなのだ。
──紛争が終わったとしても、その余波が世界中に及びうるということですね。
日本でみる限り、いまのところそのリアリティはさすがに自分もないのですが、自分の一番の気がかりは、自明のこととして民主主義やリベラリズムに資すると思っていた概念や思想、あるいはツールなどが、どんどん右寄りの言説などに巻き取られていくところにもあるんです。
例えば、『ゴーイング・ダーク』の解説で木澤さんは、「左派であった(アントニオ・)グラムシが提唱したヘゲモニー的戦術は、いまや正反対の陣営の手にわたった」と書いていますが、たしかに調べてみると、「ウクライナ・ナショナリズムのファーストレディ」と呼ばれる女性活動家オレナ・セメンヤカの思想的背景などを解説したレポートや本人の書いた文章などを読んでみると、確かにグラムシの名前が言及されていたりするんですね。
──そういえばこの連載でも、今年の最初に、リベラル側にあったようなことばが右派に巻き取られていくことが、今年加速するのではないか、といったことをおっしゃっていましたが、それとも関わりますね。
それこそダイバーシティやインクルージョンといったようなことばは、いまはまだ「リベラル」側のことばとして、それこそ右派から「ポリコレ」と揶揄されていますが、そうした概念も、気づいたらするりと「正反対の陣営」に渡ることが起きるような気もするんですね。
あるいは、自然保護や有機農法なんていう概念もそもそもナチズムと極めて密接な関係にあったものですから、そちら側から巻き取ろうと思えば決して難しくないはずなんです。そうやって考えていくと、それこそヨーロッパやアメリカの右派がどういった論理構成をもって、世界を見ているのかを理解していくことはやはり重要だと思うんです。というわけで、自分も、それこそウクライナの極右がリスペクトして止まないとされている、エルンスト・ユンガーの本などを読まないとなと思っているところです。
──全然関係ないですが、そういえば、新入社員を迎えるスピーチで、不適切な発言があったとしてNTTの社長が朝日新聞の槍玉にあがっていましたが、それこそ「ダイバーシティ」や「インクルージョン」といったことばを変なふうに使っていましたね。
そうですね。自分の印象では、おそらく社長も役員群も、本当に男女比率を決めていくクォータ制のようなものを、実際にはよしとしていないということを、それとなく表明したもののように感じるんですね。
──なるほど。時代遅れなトンチキな社長がトンチキなことを言ってるわけではなく、わざと言ってる、と。
わかりませんが、クオータ制がちゃんと実行されてますよ、という文脈のなかでの発言だったと思いますが、それを言うためであれば、男女の役割云々みたいな話は、まったく不要な言及だと思いますし、それを受けてさらにインクルージョンが大事、ということを言うのですが、「インクルージョン」が指している内容とは、まったく関係のない定義を披露しているんですね。
──どういう内容ですか?
こんなことをおっしゃっています。
個性を認めるダイバーシティーだけでは足りません。「inclusion」、包摂することも必要です。例えば、今日はこちらにいる幹部を含めて約100人のメンバーがおりますが、同じ規範や価値を持っているか、同じ方向を向ける土壌を持っているか、それがinclusionです。
それがもしなければ、個人個人が自由奔放に、好きに、勝手にやればいいという議論にしかなりません。そうではなくて、基本的な規律や価値を共有しながら、多様性を認める、ここにも矛盾した二つのパラコンシステント(同時並列)があるということになります。その両方を実現することが、革新的で変化に強い社会を実現していくのだと考えています。
──なんかやばいですね。
このスピーチを煎じつめると、「多様性は認めるがそれも規律があってこそで、その規律と多様性に応じた個々の役割は『こちらにいる幹部』が決める」ということになるわけですね。これは、明白にそういうメッセージを発しているわけでして、一応民間企業ですから、会社をあげてその考え方を支持するのは自由ですが、嫌なのは、そうやってコンテキストを少しずつずらしながら、ことばを巻き取っていく感じなんですよね。
──気持ち悪いですね。それこそ先週の記事のなかで、最近の極右組織は「人種隔離」や「アパルトヘイト」といった用語の代わりに「民族多元主義」といったことばを使うというお話がありましたが、ものは言いようですね。
NTT社長の「インクルージョン」は「ものは言いよう」の範疇からだいぶはみ出しているようにも思いますが、単なる誤解だとしても、自分が普段考えていることとことばの外装とを擦り合わせた結果としてしかあの定義は出てこないと思いますので、基本的には、ダイバーシティは仕方なく認めたとして、その分、規範や規律を「自分たちの側」から発動しないとダメだと考えているのはよくわかります。そういう会社なんですね、きっと。
──「誤解を与えて申し訳ありません」と広報がお詫びしたようですが。
むしろ確固たるメッセージが強く伝わるスピーチだったかと思いますが。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。
꩜ 「だえん問答」は毎週日曜配信。次回は2022年4月10日(日)配信予定です。本連載のアーカイブはすべてこちらからお読みいただけます(要ログイン)。