Guides:#99 前編 バビ・ヤールの沈黙

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週刊だえん問答

世界がいま何に注目しどう論じているのか、「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが「架空対談」形式で解題する週末ニュースレター。今週も、前後編の2通に分けてお届けします。毎週更新している本連載のためのプレイリスト(Apple Music)もご一緒にどうぞ。

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Image: April 8, 2022 Bucha REUTERS/Valentyn Ogirenko

#1 the forgotten massacre: Babi Yar

バビ・ヤールの沈黙 前編

後編は、本メールの1分後に配信しています。お使いのメールソフトによっては全文が表示されないこともありますが、「続きを読む」などの操作をお試しください。

──この間、ウクライナの件を取り上げるのをずっとやめたいと仰っていましたが、先週の週末にまた大きな衝撃が走りました。キーウ(キエフ)近郊の町ブチャで道端に死体が転がっている映像が世界中に拡散し、ロシアに対する怒りが巻き起こっています。

そうですね。停戦に向けた国家元首による直接交渉まであと一歩というところでこの情報が出回ることとなり、ここでもまた熾烈な情報戦が展開されています。この出来事をめぐる動きを細かくは追っている方がどの程度いらっしゃるかわかりませんが、ひとまずの流れをおさらいをしておくのはいかがでしょうか。

──そうしましょう。

ブチャの虐殺に関して情報が溢れ出すのは、4月3日頃からですが、路上に死体が転がっている映像がポツポツとソーシャルメディアなどに出回り出すのは4月1日頃とされています。

「弟から送られてきた映像」というコメントとともに、ブチャの町を走る車上から撮影された映像をわたしが最初に見たのは、おそらく2日だったと思います。これは日本時間の2日午前5時に投稿されたもので、現在460万回再生されています。これを見た時点では「何じゃこりゃ?」とコンテクストがわからない状態でしたが、4日月曜の朝の時点では、これが「ロシア軍による虐殺」だとする情報が溢れかえることとなります。

──瞬く間に情報が広がりました。

ゼレンスキー大統領が、ブチャの惨状に関して最初の声明を出したのは、おそらく3日日曜日の夜で、ここでメルケル元ドイツ首相とサルコジ元フランス大統領を名指しで批判し「現場を自分の目でみて欲しい」と訴えています。ウクライナのメディア『Kiev Independent』はこう書いています

ゼレンスキーは、2008年のブカレスト首脳会議でロシアの報復を恐れてウクライナのNATO加盟を拒否した政治家について言及し「いま、わたしたちは第二次世界大戦以来ヨーロッパで最悪の戦争を命懸けで戦っている」と述べた。

ゼレンスキーは、ウクライナへの侵略についてロシア以外の国を責めるつもりはないが、ロシアへの譲歩が14年後に何をもたらしたかを理解してもらうために、2人の欧州の元指導者には「拷問されたウクライナ人を自分の目で見て」ほしいと主張した。

──執拗なNATO批判ですが、「そんなにしてまで第三次世界大戦に引き摺り込みたいのか」といった批判の声も上がっています。このあとには、さらにアメリカへの戦争参加への催促としてグラミー賞に出演していしたね。

はい。アメリカ時間3日夜のグラミー賞でビデオ演説が放映されましたが、これは録画されたものでしたので、ブチャの虐殺については触れられていません。

──はい。

その夜、グラミー賞出演と前後して、ゼレンスキー大統領はアメリカのCBSの「Face the Nation」という番組で長めのインタビューを受けています。そのインタビューの起こしを読んでみますと、マリウポリなどが具体的な地名としてはあがっているものの、ブチャという具体的な地名は言及されていません。

ただ、チョルノバイウカというキーウ近郊の町における戦闘の熾烈さについては語られていまして、キーウ近郊からのロシア軍の撤退は戦術の変更に基づくものだろうといった分析がゼレンスキー大統領の口から語られています。

また「これはジェノサイドか」と問われて、「間違いなくジェノサイドです」と大統領は答えていますが、その次の質問で話題がすぐにマリウポリに移っていますので、このインタビューでブチャの惨劇がインタビューアーとともに共有されていたのかいなかったのかは、この記事と動画からだけでは判断がつかないのが正直なところです。

──なるほど。

そして、明けて4日月曜日、ゼレンスキー大統領がブチャに現地入りして現地で記者陣などに対して語った様子をCNNはこう報じています

ブチャのアナトリー・フェドルク市長によると、300人以上の住民が殺され、AFP通信はロシア軍によって市民は 「首の後ろから銃撃された」と報じている。集団墓地の存在も確認された。ロシア国防省は関与を否定している。

「これらは戦争犯罪であり、ジェノサイドとして世界に認識されるでしょう」と、防護服を身に着けたゼレンスキーは現地で語った。「ロシア軍がここで行った行為を見たあとでは、彼らと対話することは困難です」。ウクライナの指導者は、この光景が、自国がロシアと交渉することを難しくしていると付け加えた。

「ロシアが交渉を長引かせれば長引くほど、彼らにとってもためにならないだけでなく、この状況も戦争も終わりません」と述べた。「われわれは、何千人もの人びとが殺され、拷問され、手足を切断され、女性がレイプされ、子どもが殺されたことを知っています」

──ロシア側は最初から殺戮への関与は否定し、むしろウクライナ軍の仕業だと語っています。

はい。オランダの調査報道メディア『Bellingcat』は、4日に掲載した記事で、ロシア外務省が3日に出した声明を紹介しています。この声明はのちに国防省の公式見解としても流用されたもので、「ブチャの写真や映像は、キエフ政権が西側メディア向けに演出したデマであり挑発である」という内容です。

ロシアはいまのところ一貫してブチャでの残虐行為への関与を否定し、それがウクライナ政府による偽旗作戦であると主張していますが、その根拠をこう語っています。

(3月29日に)トルコで行われた直接交渉の翌日、3月30日にブチャからすべてのロシア部隊が完全撤退したことを強調しておく。

翌日31日、ブチャのアナトリー・フェドルーク市長はビデオメッセージで、ロシア軍の撤退を確認し、街が解放されたと語ったが、路上で手を縛られたまま銃殺された住民については言及すらしていない。

したがって、ブチャにおける「犯罪の証拠」がすべて明らかになったのは、ウクライナ保安庁とウクライナメディアが町に到着した4日目になってからであることは驚くには当たらない。

──つまり、虐殺はロシア軍が撤退したあとの1〜3日の間に行われたというのがロシア側の主張なんですね。

そうなんです。この陰謀論風の主張はソーシャルメディア上では現在も根強く拡散していますが、これらの主張が問題にしているポイントを整理しておきますと、以下となります。

  1. フェドルーク市長は3月31日の投稿でブチャの町が解放されたことを喜びとともに語っており、虐殺についてまったく触れていない。[参照
  2. 路上の死体をよく見ると、動いているように見える。[参照
  3. 3日に『The New York Times』が掲載した記事によると、ロシア軍が撤退したあと最初に現地入りしたのは、極右勢力として知られるアゾフ大隊だったらしい(写真にばっちり写っている)。[参照
  4. 4月2日にSAFARIという特殊部隊が「ロシア軍の共犯者、内通者を一掃するためのオペレーションを開始した」と国家警察が報じている。[参照
  5. 路上で殺害された人たちに親ロシアもしくは中立を表す白い腕章をしている人たちがいる(ちなみにウクライナ人市民は青い腕章を巻いている)。[参照
  6. アゾフ大隊のメンバーのひとりが投稿した動画に「青いバンドしてないヤツを撃ってもいい?」「当たり前だろ」といった会話が聴き取れる。その後「助けてくれ」の声のあとに銃声も聞かれる。[参照

──ふむ。とはいえ、ロシア軍がやっていないという証拠としては根拠に乏しいですね。

先の『Bellingcat』の記事は、これらの主張のうち、1と2を反証していまして、これらの主張をフェイク認定しています。また、『The New York Times』は衛星写真の解析により、路上の死体が3月中旬にも同じ場所で確認できたとしていますので、ロシアの主張はかなり分が悪いことにはなっています。

これについてと「日付が操作されている」「わざと粗い画像が公開されている」といった反論も出ています。他の論点については特に否定はされていませんが、とはいえ虐殺をウクライナ側がデザインしたと確証立てるにはいたってはいません。

──しかし、色んな情報が出回るものです。

ブチャの惨状が明らかになった後、今度はボロジャンカという街が壊滅状態になっていることが明かされ、すわ「ロシアの残虐行為」となっておりますが、おそらく街の状態が指し示しているのは、かなり熾烈な戦闘が行われたということではないかと思います。

ただし、ブチャを含め、ロシアが制圧する前、したあと、そして撤退の際に、いったいどのような衝突があったのかといった、いわゆる「戦局」をめぐる情報というのはあまり見かけません。そこが見えてこない限り、実際そこで何があったのかを知ることはとても困難だと思うのですが、あまり報じられていません。

──たしかに。

例えばフランスのメディア『France 24』はブチャからのロシア軍の撤退は自発的なものではなく、熾烈な反撃を受けた結果の敗走なのではないかとの見解を語っています。下記の報道に則ってブチャやボロディヤンカの惨状を見れば、かなり激しい戦闘があったということにもなります。

ロシア軍は、大規模な破壊と民間人の死者を残してキエフ近郊のブチャの町から自発的に撤退したとされているが、ウクライナ軍との戦闘で「決定的な敗北」を喫して撤退したとも見える。「この地域からの撤退は明らかに秩序だったものではなかったようです。破壊されたロシア軍の戦闘車両がいたるところに転がっています」と『France24』のウクライナ特派員ガリバー・クラッグは伝えている。

──街中に転がっているロシア軍の戦車のやられ方を見ると、実際相当熾烈だったのかもしれません。

あるいは、『Newsweek』は、退役したアメリカ軍中将のコメントを引き、キーウを包囲していたロシア軍を東ウクライナに配置転換するプーチン大統領の差配について、それがうまく行かないのではないかと予測していますが、その理由は、ロシア軍が受けているダメージにあるとしています。

(退役中将の)ハートリングは、今後のロシア軍の成功の見込みについては悲観的だ。ウクライナ北部から南東部へと再派遣されるロシア軍は「すでに6週間以上激しい戦闘にさらされている」と彼は書いている。「肉体的、精神的、心理的、感情的な要因で多くのダメージを受けており、多くの者が犯罪行為を犯している。わたしの見るところ、彼らはもはや役に立たないでしょう」

──ロシア軍は相当参っている、と。

一方で、この元中将は、逆にウクライナ軍には強いアドバンテージがあるとしています。

ハートリングはウクライナ軍の士気と補給の優位性を指摘し、それが今後の戦闘の決定的な要因となる可能性がある語る。「彼らは民間人、政治家、お互いから大きな支持を得ている」と彼は書いている。「そして、何よりも彼らは自分たちの土地で戦っている」

──長引くことになりそうですね。

ロシアの軍事メディアのエディターのコメントによれば、ロシア軍としては5月中旬にはマリウポリを制圧し、その後軍隊を西へと差し向けて、8月終わりまでにミコライフからオデッサまでの沿岸部を完全に抑えることになる、との楽観的な見立てを同記事は紹介しています。

──そんなに続きますか。

NATOのストルテンベルク事務総長は、今後数週間を「戦争の重要な局面」と呼び、「現実的に考えると、これは何カ月、何年も続く可能性があることを認識しなければならない」と水曜日に語っています

──どんどんヒートアップしている感じですもんね。

EUは石炭のロシアからの輸入禁止を提案しており、米国はさらなる経済制裁を準備中です。こうしたエスカレーションは、ゼレンスキー大統領の5日火曜日の国連安全保障理事会でのスピーチによって加速しており、実際これはかなり激越なスピーチでして、国連が提供すべき調停の枠組みが機能していないことを強く指弾しています。

「安保理が保証すべき安全保障はどこにあるのでしょうか。安保理はあっても、安全はありません」。ゼレンスキーはさらに「侵略と戦い、平和を確保するためにつくられた世界の重要機関が、効果的に機能していないことは明らかです」とも述べた。

「国連憲章の第1条、第1章を思い出してください。この組織の目的は何でしょう。その目的は平和を維持し、その遵守を保障することです。国連憲章が文字通り第1条から反故にされているのなら、他の条文にいったい何の意味があるのでしょう」

──手厳しい。

紛争のなかで、NATOを含めた国際機関の機能不全はどんどん明らかになっているように見えますが、ゼレンスキー大統領の、こうやってあられもなく「痛いところ」を突いていくやり方はたしかに見事なものです。

──ほんとですね。

その一方で、ロシア側も国際機関に対して同じように不平を表明していまして、ロシアはブチャの件について安保理で緊急会合を開くことをいち早く要求したのに却下されたことに腹を立てています。

──国連も何で拒否したんでしょうね。

インドのメディア『Republic World』は、4月5日に開催された安保理において、ロシア大使がこう語ったと報じています

ワシリー・ネベンジャ国連大使は、モスクワが月曜日に要請したウクライナ情勢を話し合う会合がなぜ拒否されたのかを問題にした。彼は理事会の開催権を持つ英国がブチャの虐殺に関する会合の開催を拒否したと非難した。

「4月3日と4日に緊急会合を要請したが拒否された。これは言語道断の事態だ。何を根拠にこのような非道なことができるのかお伺いしたい。説明を要求する」とネベンジヤは国連安保理で語った。(中略)

これに対して、英国大使のバーバラ・ウッドワード女史は、ロシアの主張は事実でないと反論した。彼女は、国連はモスクワに対して会議開催について賛意を伝えたが、5日火曜日にすでに予定されている会議でこの話題を採り上げるのが合理的だと判断したと応えた。

──その結果、5日火曜日に会議が開かれたわけですね。

はい。ロシアは会議開催を英国が妨害したと暗に語っているわけですが、こうした情報を受けて、ブチャの虐殺はウクライナ軍だけでなく英国の諜報機関であるMI6が裏で糸を引いていたとする憶測もソーシャルメディアでは飛び交っています。

──なんでも怪しいと思えば何でも怪しく見えてくる、と。

いずれにしまして、5日の安保理でのゼレンスキー大統領の演説は絶大なインパクトを与えましたが、ここで注意しておくべきは、ロシア同様にゼレンスキー大統領も本質的にこうした国際機関をもはやさほど信用していないように思われることです。国連での演説で彼はこんなことも語っています。ユダヤ系メディア『The Jewish Chronicle』のレポートです。

ゼレンスキーは、ロシアの残虐行為をイスラム国のテロリストと比較したが、違っているのはそれが「国連安全保障理事会のメンバー」によって行われたことだと指摘し、犯人を裁くためにニュルンベルク式の新たな戦争裁判を要求した。

さらに、第二次世界大戦後の悪名高い裁判と、その後にイスラエルで行われたアドルフ・アイヒマンの裁判を引き合いに出し次のように述べた。「ロシアの代表団に思い出起こさせたい。リッベントロップは戦後裁きを逃れることはできなかた。アイヒマンもだ」

彼はまた国連の有効性に疑問を呈し次のように述べた。「決定する方法を知らないず、おしゃべりしかできないなら、完全に解散すればいい」

そしてさらに同日、国内向けに行った演説で「ポスト戦争後」のウクライナの目指すべき姿は「大きなイスラエル」だと語っています。

──大きなイスラエル?

同記事によれば、彼はこう語ったそうです。

ゼレンスキーは、ロシアとの戦争が終わった後のウクライナの戦後モデルは、治安と防衛に大きく比重を置いた、軍隊が公共の場を取り締まる「大きなイスラエル」になるだろうと述べた。

火曜日に行われたウクライナ国民へのブリーフィングで、ゼレンスキーはこう語った。「われわれは独自の顔をもつ『大きなイスラエル』になるだろう。映画館やスーパーマーケットに軍隊や国家警備隊が武器を装備して見回りをしていても驚いてはいけない。今後10年間は、安全保障の問題が第一の課題となると確信している」

──誰も安全を保障してくれないなら自衛するしかない、と。国際機関が一応担保してきた国際秩序というものを、ここまで公然と断罪するのも珍しい気がしますが、国連としては、そこまで言われたら何らかのアクションを起こさずにはいられませんよね。

ですね。

──「民主主義を守る戦い」のあとに来るのが「大きなイスラエル」というはなんだか違和感もありますが、いずれにせよいよいよ第三次世界大戦に突き進んでいるような感じがします。

NATO加盟国として初めてチェコが戦車をウクライナに提供したそうですし、フィンランドがNATO入りを表明しています。マリウポリでNATO高官数名が脱出できずに足止めを食っているといった噂もありまして、その真偽はさておき、NATOの動きは一層活発化するでしょうから、戦局がここからどんどんエスカレートしていく可能性は高そうです。

──金曜日にはウルスラ・フォン・デア・ライエン欧州委員長がキーウ入りし、EU加盟の確約をしたようですし。

その一方で、フランスの大統領選では極右ポピュリストで親プーチンのマリーヌ・ル・ペンが現職のマクロンに迫る勢いだとされていますので、これも趨勢に大きな影響を与える要素となりそうです。

──また、金曜日にはドネツクで駅が爆破され民間人数十人が亡くなったと報じられています。さらなるエスカレーションに向けてギアが一段上がった感じがしますが、ロシアはこの爆撃について「ウクライナの自作自演」とする声明を出したそうですが、それこそマリウポリでの産院病棟や劇場の空爆からブチャにいたるまで、いつまでこうやって「ロシアがやった」「いやウクライナの自作自演だ」という応酬を見せられ続けることになるのでしょうか。

マリウポリの産院病棟が空爆されたという出来事については続報が出ていまして、それが実はとても興味深いものでした。この「事件」は報道された当初から「ロシアが空爆した説」と「ウクライナ(=アゾフ大隊)によるヤラセ説」の双方が出回って大きな論争になっていました。

──ブチャの件と論争の建て付けは一緒ですね。

3月9日に起きたこの「事件」については、病院から命からがら逃れた若い妊婦が「惨劇」の中心的イメージとして世界に流布したのですが、この女性はビューティブロガーだったことから当初から「なんか怪しい」とされていました。

とはいえ、彼女のInstagramなどを見ると妊娠していたことは間違いなさそうでしたので「ビューティブロガーが妊娠して産院病棟にいるのがなぜ怪しいのか」との反論もあったのですが、その彼女、マリアナ・ヴィシェギルスカヤさんが最近になってインタビューを受けた動画が公開され、改めて事件の「真相」を語っています。

──どういう内容でしょう。

まず彼女が妊婦で、いくつかの病院を転々とした結果空爆されたとされる病院に入院していたと彼女は語ります。

──入院はヤラセではなかった、と。

はい。その意味では「空爆派」は間違ってはいなかったわけです。ただ、その後病院内の様子について語ったところによれば、病院内にはウクライナ軍の兵士がいて彼女たちの食料などを我が物顔で横取りしていたことが明かされていますので、この点については「ヤラセ派」が語っていた「病院はウクライナ兵の軍事拠点になっていた」という言い分は少なからず間違いではなかったことになります。

──ふむふむ。

次いで事件当日について彼女は、病院の近くで二度ほど爆発があって窓ガラスが飛び散り顔にケガを負ったと語っています。ということは彼女の怪我はヤラセ派が語った「メイク」ではなかったということになります。そしてその爆発を受けて他の妊婦とともに一旦病院の地下へと避難したそうですが、彼女とは別の妊婦がケガを負い非常に危険な状況となっていたので、担架にのせられた彼女を先頭に屋外へと逃げたと語ります。

──担架に乗せられた妊婦の写真も同時に広く拡散しましたね。

「ヤラセ派」は、この女性とヴィシェギルスカヤさんは同一人物だと疑っていましたが、彼女の証言によればあくまでも別人で、担架に載せられた女性はほどなく亡くなったそうです。

──そうなんですね。

はい。そうやってほうほうの体で屋外に逃れたのですが、そこでヴィシェギルスカヤさんは、外に出るやいなや報道カメラマンが待ち構えていて写真を撮っていることに気づいたと言います。そしてカメラマンに向かって写真撮るのをやめてくれと言ったそうです。

──そうか。カメラマンがあらかじめいたからこそ、あの写真が撮れたわけですよね。

ただ、ヴィシェギルスカヤさんは爆発があってから外に出るまでの時間は10〜12分程度しかなかったはずで、なぜカメラマンがいたのかをいぶかしんだと言います。

──病院に張り込んでいたんですかね。

そしてそのカメラマンは、別の病院に移された翌日にも彼女を訪ねてきて取材をしたそうなんです。その際に「空爆はあったのか」と聞かれて、彼女はこう応えたと言います。「いいえ。通りにいた人も空爆を耳にしていないと思いますし、誰も空爆を聞いていません」

──あれま。空爆はなかった、と。

彼女はその後無事出産をして体調も環境も落ち着いたところで、改めて事件に関する報道を見てみたところ、「空爆を耳にはしなかった」と語った部分がどこにも触れられていないことに驚いたと証言しています。

──なんとまあ。

今回の紛争において当初からウクライナ政府に対して懐疑的な目を向けてきた極左メディア『Grayzone』は、この証言を元にマリウポリにおける「空爆」の真相をこう結論づけています

目撃者の証言によると、病院はウクライナ軍の作戦拠点となっており、西側メディアが主張してきたような空爆は受けていない。また、彼女の証言は、この出来事の少なくともいくつかの要素が、AP通信の協力のもとプロパガンダ目的で演出されたものではないかという重大な疑問を投げかけている。

──むむむむ。

とはいえ、この『Grayzone』というメディアはそれ自体がバイアスをもったメディアではありますし、案の定こうした論調を、当のAP通信は彼女がインタビューで「誤情報」を拡散していると猛然とやり返しています

──被害者としてあれだけ持ち上げた人物を、今度は嘘つき呼ばわりですか。いたたまれないですね。

結局のところ、双方のどちらが正しいのかはわかりませんが、彼女の証言で注目したいのは、「空爆派」と「ヤラセ派」のいずれの言い分に対しても、半分は当たっていたけれど半分は間違っていたことを指摘する内容になっているところです。

──たしかに。

彼女の証言が興味深いのは、どちら側の陣営に対しても肩透かしをもたらす内容になっていることでして、自分がこれを見た感想は、事実というものがあるとしたら、それは双方のプロパガンダが雄々しく叫ぶようなドラマチックなものではなく、いい意味で散文的なものなのかもな、ということでした。

──散文的?

事実というものは──仮にそういうものがあったとしてですが──人が願うほどにはドラマチックなものではないということです。

もちろん実際に人が死んでいる出来事ですので、出来事自体の重大性を貶めてはならないとは思うのですが、ただ、例えば「産院病棟に空爆」といった劇的な情報に接するとどうしたって感情的になってしまいますし、そこで実際に起きたことを想像しようとすると少なからずドラマチックにイメージを膨らましてしまうのは避けられないとも思うんです。そして、そうした想像がさらに感情を掻き立ててしまうことにもなります。

それこそが、まさにプロパガンダというものが意図していることだと思いますので、それに意のままに操られてしまうことに怖さを感じるのであれば、やはりそうしたドラマ化/政治化を、自分なりによほど意識的に抑制して行かないといけないのだろうと感じます。

──どうしても感情が先に立ってしまいますもんね。

感情的になることは避けられないにしても、何らかの情報に接した際に、自分の中で起きている感情的な動きというものを意識的にトラッキングするようにつとめることが大事なのだと思います。ちなみに最近好きでよく見ている@bidetmarxmanというTwitter上の人物は「残虐プロパガンダ」(atrocity propaganda)というものについて以下のようにまとめています

残虐プロパガンダの主要な特徴は、検証可能な事実、時系列、あるいは加害者による論理的動機が極めて希薄な一方で、基本的感情(怒り/嫌悪/恐怖)に訴えるところにある。

残虐プロパガンダは、戦争に内在する不透明さを利用し、メディアが「公式」な情報源に依存すること、そして反対意見や矛盾を遮断する国家の能力を利用して、自陣営に有利になるように仕向ける。(中略)

残虐プロパガンダを無批判に消費する人は、不本意なカモなのではなく「いい人」の側にいることで得られるドーパミンを次から次へと求める。

この「いい人」幻想は、悲惨で混沌としたように見える世界において小さな慰めとなる。(中略)

ここに残虐プロパガンダの核心がある。残虐プロパガンダは、現在の著しく不正な世界秩序を脅かす者を、罪悪感なしにヘイトすることを情報の消費者たちに許すのだ。

──ゼレンスキー大統領は、そうやって国民のなかにある感情的な傷ややましさを刺激するのがうまいですから、やはり頭よりも感情がグッと先に動かされてしまうんでしょうね。

ちなみに国連安保理で演説をおこなった後、ゼレンスキー大統領はスペインの国会で演説したそうですが、そこでは苛烈な空爆を受けたゲルニカに言及しながら、こう語ったそうです。

「2022年の4月は、さながら御国の都市ゲルニカで起きた出来事に全世界が慄いた1937年4月へとわたしたちを連れ戻します」。ゼレンスキー大統領は、1936〜39年にかけてのスペイン内戦で、フランシスコ・フランコ将軍の民族主義勢力を支援するためにヒトラーの「コンドル軍団」の航空機がゲルニカを絨毯爆撃した残虐行為を、ロシアの侵攻に擬えながら、スペインの国会議員たちに語った。

──なるほど、うまいものです。

今回のブチャの虐殺においてもそうなのですが、ゼレンスキー大統領はことあるごとにプーチン大統領の残虐非道ぶりをナチスドイツに擬えながら「ジェノサイド」「ホロコースト」といったことばを用いています。

──先の演説でもニュルンベルグやアイヒマンといった関連語彙を使っていました。

そうなんです。ここに非常に重大な問題が潜んでいまして、実は今回はそのことを本題としてお伝えしたかったんです。

──なんと、ここからが本題ですか。

すみません。

※ 後編に続きます。


若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。


꩜ 「だえん問答」は毎週日曜配信。次回は2022年4月17日(日)配信予定です。本連載のアーカイブはすべてこちらからお読みいただけます(要ログイン)。