Portrait of ME #3
「やりたいこと」を広げてくれたベルリン暮らし
Quartz読者の皆さん、こんばんは。いつものニュースレターでは世界で激変する経済の動きを伝えていますが、今日は週末に配信してきた不定期連載「Portrait of ME」第3回をお届け。世界で暮らす人たちが日々感じている悦び、辛み、悩みをお伝えするインタビューです。
山根裕紀子さん/1989年広島県生まれ。国内の大学を卒業後、2012年よりドイツ・ベルリンに拠点を移し、現在は主にファッションやカルチャー誌を中心にライター、エディターとして活動中。ドイツのアンダーグラウンド/オルタナティヴな音楽シーンの「今」を紹介するベルリン発のマガジン『RISIKO』を立ち上げ、編集長を務める。
第3回の取材は、2012年からベルリンに住んでいる山根裕紀子さんにお願いした。
ここでいきなり自分の話になってしまうけれど、わたしは19歳のときにドイツ西部のフライブルグという街で過ごした経験がある。それは兄と2人での語学留学、しかもたった1カ月間という短い間だったけれど(フランス語専攻だったけれど兄の影響でドイツ語も勉強していた)、数年後に出張で訪れた東ドイツ側のベルリンで、とても驚かされたのを思い出す。当時はベルリンの壁が崩壊してからまだ時間の経っていないころで、その空気はかつてフライブルグで感じた明るい雰囲気とはまったく違っていた。
ドイツは、わたしにとって、懐かしい国であるのと同時に「知らない国」でもある。だからだろうか、インスタを通じて知ったベルリンに住むフリー編集者の仕事に惹かれたわたしは、彼女のキャリアやモチベーションを訊ねてみたいと思ったのだ。
「音楽」と「外の世界」を知ることがきっかけに
裕紀子さんは、そもそもなぜベルリンを選んだのだろう? 訊ねてみるとまず、「もともと、学生時代から洋楽が好きだったんですよね」と話してくれた。「イギリス、アメリカの音楽が好きで。当時は古いものではなく、新しいインディーものやオルタナティブが好きだったんです」
「育ったのは広島の田舎で、電車も通ってないようなところでした。高校までは実家暮らしだったし、洋楽のライブには行けないし、外国の人に出会うきっかけもありませんでした。家族も友達も地元にしかいませんでした。そして高校を卒業後、大学で関西に出て、ライブに行く機会も増え、大学で海外の人にも出会えて友達もできました。レコードショップやバーで働いたり、短期留学やフェスでイギリスに行ったりとたくさんのことを吸収して、外の生活を知るのが楽しくて……。いろんなジャンルの人に出会って、ますます外に出たい、もっと知りたいという気持ちが大きくなりました」
渡欧する前は、実のところベルリンではなく、ロンドンに行きたかったのだと言う裕紀子さん。しかし、彼女はワーキングホリデーの抽選に外れてしまう。
「そのとき、まわりの人たちが『ベルリンがおもしろい』と話してくれたんです。当時、いまあるほどの情報がなくて、逆に惹かれて。ベルリンならとりあえず英語も通じるし、なにより若かったので怖いもの知らずな気持ちで(笑)、そのままベルリンに行くことにしました」
経験のないことが「やりたいこと」の仕事へ
いまでこそライターやエディターとして仕事をし、さらには自ら『RISIKO』を立ち上げもした彼女だが、ベルリンでの生活を始めるまで、そうした経験はまったくなかった。
「大学では法律を勉強していました。ただ、『発信する』ことには昔から興味があって。ラジオ、テレビ、雑誌などのメディアで働きたいという気持ちはぼんやりとありました」
「大学時代の後半は、リメイクブランドを立ち上げて、デザインイベントやマーケットに参加していました。そういう服の仕事もしたいと思っていたので、ベルリンに住み始めてからは、ローカルのデザイナーを取り扱う『Sameheads』というバー兼ショップで働いていました。そこで働いているあいだに、大阪・東京で2年続けてポップアップを開催したんです。この経験から日本とベルリンをつなぎたいという思いが強くなって。たまたまご縁があって、日本の雑誌のコーディネイトやブランドのアテンドをベルリンですることになり、そこからいまのキャリアが始まりました」
そして2020年、彼女は自身が編集長を手がけるマガジン『RISIKO』立ち上げにつながる活動を始めることになる。これがひとつの「ターニングポイント」にもなったと、裕紀子さんは話す。
「なにか“自分のもの”をつくりたいという気持ちをずっと抱いていたので、思い入れは強いです。音楽やカルチャーが好きだからこそ、その人たちに取材することでゼロから始めた人たちが素敵だなと思っていたのもあるし、わたし自身が30歳を節目にメディアとしてなにかやりたいと思っていたので」
異国でイチから「創る」ことの苦悩と学び
ただ、この『RISIKO』も、すべて順調だったわけではない。うまくいかないことが多く、悩むことばかりだったと言う。とくに、外国人の「働き方」に対する考え方の違いは、彼女に多くの学びをもたらしたようだ。
「『RISIKO』を立ち上げた当初は、何もかもがゼロからのスタートでした。異国での経験ということもあって、楽しいけれどとにかく大変。睡眠時間やプライベートを削っていたので、周囲からはよく心配されたし、体調も崩しました」
「有志で集まって雑誌をつくっていると、作業の途中で『ホリデーに行くから』『別のプロジェクトが忙しいから』『気が変わった』と急に辞めて丸投げする人たちもいます。仕事に対する考え方の違いやチームに対する責任感、傾けるエネルギーの違いが次々に目立ってきました。つまり、プライベートや自分を優先するという考え方なのですが、そこが日本人の自分のなかでかなり葛藤してしまったんですね」
「最初のころは、締切についてもすごく厳しく考えていたと思います。自分が頑張ってるから相手にも頑張って欲しい、他のスタッフのことも考えてほしいと思う気持ちが強かったです。予定通りに進めたい、という思いが強かったんですが、いまにして思うと、わたし自身の、相手に対する理解やリスペクトが少し足りなかった」と続ける裕紀子さん。
葛藤の背景には「焦り」があったかもしれない、と彼女は言う。「最近はオンオフをきちんと分けようとしていますが、もともとわたしは“スタートが遅れている”と思っていて。大学を卒業し、周囲が就職して経験を積み始めていたときにもまだぼんやりしていたし、渡欧して3年ばかりが経ったころは、ちょうどやっとエディター/ライターといえるようなキャリアを始めたばかりでした。自分が楽しいことで人のためにもなる、これは天職だ!と思っていたけれど、同時に、20代後半で挽回しないとという気持ちでいっぱいでしたね」
「国内外に住むフリーランスの日本人は休まずに働いて努力しているし、いま頑張っていないと誰かに追い越される、チャンスが逃げてしまうと思っていて……。そういう気持ちからも、外国人が自分のプライベートを優先すること(現地の人からしてみれば当たり前で普通のことなんですが)、急に自分の都合で無責任な辞め方をするスタッフにどう対応するか、そこからどう軌道修正するか、他のスタッフをどうフォローするかなど考えることが、自分にとってはかなりストレスに感じてしまっていたのだと思います」
「周囲の人たちからは、“外国での働き方”を理解する必要もあるとも言われ、わたし自身も2年くらい体感して悩んで、理解するのに正直時間がかかりました。自分が変わらないといけない部分ももちろんありますし、そもそも始める前に、きちんとお互いの考えを共有、確認しないといけないなど、コミュニケーションのとり方を新たに学ぶこともありました」
いまも、そうした働き方の違いを受け入れようしている過程にあると言う裕紀子さん。しかし、長く葛藤の時間を過ごしていても、日本に帰ろうと思ったことはないそうだ。
「嫌なこともあるけれど、それが理由で日本に帰ろう、日本人とだけ仕事をしようとは思ってはいません。外国人ともうまく働きたいから、いい道を探そうとしています。いまでは理解のある現地スタッフたちに出会えましたし、次号に向けて新しいメンバーも加わりました。違う国籍やカルチャーをもつ人でも好きなことでつながり、一緒に働けると思っています。『RISIKO』では、わたしが本当に好きでやりたいことをやっているし、日本からのリモートではなく現地で制作しているからこそ、リアルでおもしろいものが生まれると思っています。それをベルリンでカタチに残せているのが嬉しいんです」
ベルリンが広げてくれた可能性
ベルリンに住んで10年が経つ彼女の人生観は、この街でどのように変わってきたのだろうか?
「親からよく『人と違うことをしてみよう』と言われていました。ごく一般の家庭でしたが、幼少期から人と少しかぶらない服を選んでくれたり、学校の課題ひとつとっても人とちょっと違うことをしなさいと言ってくれたり。ベルリンに行ってからも、人と同じことしてても埋もれてしまうから、何か自分の物を見つけなさいと言われていました。なので、(まわりの人に迷惑をかけないことを前提として)人と違うことをするのが悪いことだとは思わず育ってきました」
「それはいまも、好きなことを仕事にしているという意味では変わっていません。自分の好きなことだけに特化してしまうと、収入面では考えさせられることもありますが、わたしの場合はこだわりすぎている分、ベルリンだからこそうまくいっている気がします。いまの自分のやり方では、東京でも、ロンドン、パリでも厳しいと思います。もし、わたしが東京を拠点にするなら、別のことをしなければいけない。でも、ベルリンだったら自分の活動、興味のある分野で生き残っていけるのかなと思います」
「自分のやりたいことで生き残ること。つまり、ベルリンはわたしの可能性を広げてくれているんです。ただ、可能性とリスクは常に隣り合わせ。目的を明確にしないと、選択肢が増えることでますます悩むかもしれません。国からはアーティストに対する支援があって、パンデミック下でもアーティストに支援金が出ていました。応援してくれる人たちもたくさんいます。いい意味で楽観的な人が多く、背中を押してくれる人もたくさんいるので、自然と自己肯定感が上がり、自信に繋がっているんだと感じます。わたしは仕事やプライベートでも、人をつなぐことや新しい知識を得ること、好きなこと、気になることをとことん掘り下げるのが好き。なので、この環境で雑誌づくりを通して公私ともに成長していければと思います」
Photography: Sonya Sem
Edit & Text: Kurumi Fukutsu
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