ニュースレター「Forecast」では、グローバルビジネスの大きな変化を1つずつ解説しています(これまでに配信してきたニュースレターはこちらからまとめてお読みいただけます)。
米国の発明家エドウィン・リンク(Edwin Link)は1929年、世界初のフライトシミュレーターを世に送り出しました。しかし、実際の体験ではなく機械によって飛行機の操縦法を学ぶことを目的としたこの発明品は当初はほとんど注目を集めず、遊園地のアトラクションとして使われていたと言います。軍隊がその有用性を認めたのは、しばらく経ってからのことでした。
リンクのシミュレーターは、没入型トレーニングシステムの先駆けと考えられていますが、いまでは仮想現実(VR)のヘッドセットとコントローラー(もしくは触覚グローブ)を使って、ホテルのレストランでの仕事や盲腸の手術などの練習をすることができるようになりました。また、保険の外交員やソーシャルワーカーの研修にもVRが導入されています。
リンクのシミュレーターの真価が理解されるまでに時間がかかったのと同じように、メタバースもゲーマーたちのおもちゃに過ぎないと思われがちです。しかしVRを活用したトレーニングはいまや一大産業であり、市場規模は数十億ドルに拡大しています。
一方、VRやメタバースを使ったトレーニングはここ数年で、人間心理の領域にまで広がってきました。フィードバックをどう伝えるか、職場での対立の解消の仕方、自分のもつ偏見の自覚といったことを説明する時代遅れな研修動画に代わって、没入型トレーニングでこうしたことが学べるようになっているのです。何かというと口答えしてくる部下、ゴマすりばかりしている人、いろいろなことを避けようとする消極的な人、恥ずかしがり屋など、さまざまなタイプの従業員をどう扱っていけばいいかも、VRを使えばノウハウを習得できます。
しかし、ここまで来ると潜在的な危険性すら感じるかもしれません。
企業向けにVRトレーニングを提供するテイルスピン・リアリティー・ラボ(Talespin Reality Labs)の最高コンテンツ責任者(CCO)スティーブン・フロムキン(Stephen Fromkin)は、VRによって従業員は人の話に積極的に耳を傾けるようになり、管理職の共感力も高まると予想します。しかし、人が感情的な知性についてまでアバターとコードから学びたいと本気で考えているのか、一抹の疑問も生じます。
THE BACKSTORY
始まりはコロナ前
最近、メタバース関連の話題が減ってきているようです。昨年10月、フェイスブックが社名をメタ・プラットフォームズ(Meta Platforms)に変更すると発表したときには、多くの企業がメタバース空間でのデビューを計画しました。
メタバースは人びとが集い、買い物から仕事、勉強までさまざまなことができる仮想空間として鳴り物入りで登場したわけですが、テック業界の学識者たちはいまでは、このテクノロジーはすでに「終わって」いるのではないかと疑うようになっています(たぶん、そんなことはないのでしょうが…)。
ただ、職場向けのVRトレーニングを提供する企業にとっては、こうしたメタバースを巡る大騒ぎはほとんど意味をもちません。どこでも好きな場所で受講できるバーチャルトレーニングに対する需要は、新型コロナウイルスのパンデミック前から確実に存在しました。企業は以前から、大勢の従業員に研修や実務訓練を行ったり、採用した人材を素早く現場に送り出すための手段として、VR技術に注目していたのです。
パンデミックが起きたことで、従業員をレストランの厨房や会議室に集めるのは物理的に不可能となり、VRトレーニングの活用法が明確になりました。スタンフォード大学のバーチェル・ヒューマン・インタラクティブ・ラボを率いるジェレミー・ベイレンソン(Jeremy Bailenson)は、2020年9月の『Harvard Business Review』の記事で、「VRの導入はコロナ前から始まっていたが、パンデミックでリモートワークが必須となったために、こうしたツールの必要性が急速に高まった」と書いています。ベイレンソンはVRトレーニングのスタートアップ、ストライバー・ラボ(Strivr Labs)の共同創業者でもありますが、「VRは現時点で完璧な媒体だ」と説明します。
コンサル大手のアクセンチュア(Accenture)も同じように考えており、昨年には新入社員たちを自社のメタバース空間「Nth Floor」にログインさせるために、OculusのVRヘッドセット6万台を購入しました。
WHY VR?
なぜVRなのか?
ソフトウェアの開発者たちは、VR技術を活用した没入型トレーニングには以下のような利点があると考えています。
- 恥ずかしくない。ユーザーは自宅などプライベートな空間でレッスンを受けることを好みます。例えば、他人へのフィードバックの仕方を学ぶコースなら、受講者は周囲に誰もいない状況で安心して仮想世界のアバターと会話のロールプレイをすることができます。そして、同じコースを何回でも必要なだけ繰り返せばいいのです。
- コストが低く、利便性も高い。VRトレーニングでもヘッドセットとシステムの購入は必要ですが、現実世界での研修のように、交通費や会場の準備といった負担はありません。
- スキル習得に必要な時間が短縮。またスキル保持期間は伸びることも証明されています。
ただ、VRトレーニングも完璧ではありません。
- 緊迫した状況への対処法を学ぶのには適していない。例えば、警察では家庭内暴力への対応の研修でVRトレーニングが採用されていますが、専門家は新しいテクノロジーを導入しても当局の過剰な権力の行使という問題は解決されないと批判しているほか、VRのシステムが偏見を内包しているという指摘もあります。
- VRだけが選択肢ではない。少なくとも1件のメタアナリシスでは、VRトレーニングは動画での訓練と同程度の効果しかないということが明らかになっています。
- 身体的な影響。重いヘッドセットとソフトウェアのせいで、気分が悪くなったり頭痛が起きたりする恐れもあります。メタバースは長時間にわたって快適に過ごせる場所ではないのです。
THE PLAYERS
注目の企業
- VRトレーニングのシステム開発を手がける米国の有名企業をいくつかご紹介しましょう。
- ストライバー・ラボ:スタンフォード大学のベイレンソンが友人と立ち上げた。ウォルマートやベライゾン(Verizon)などの大企業を顧客にもつ
- テイルスピン・リアリティー・ラボ:最新のVRシステム「Co-pilot」では、顧客企業は専用の研修コースを構築できる。アクセンチュアはテイルスピンの製品を採用する
- スウィートラッシュ(SweetRush):スウィートラッシュがヒルトンのために開発した従業員のVR研修システムは、Oculusの法人向けサービスの公式動画で取り上げられた
- トランスファー(Transfr):ニューヨークに拠点を置くトランスファーは、大学生および高校生が貿易を学ぶためのシミュレーションシステムを手がける
- マージョン(Mursion):心の知能指数(EQ)の向上に特化したシステムを手がける。設立当初はセントラルフロリダ大学の教職員向けのソフトウェア開発を行なっていた
WHAT’S BOTHERING ANGELO?
どんなトレーニング?
メタバースのトレーニングでは、VRの特徴とも言える「存在感」を最大限に活用することで、対人関係などのソフトスキルの向上に大きな効果が期待できるようです。例えば、テイルスピンが提供するあるコースでは、同僚のアンジェロがプロジェクトの進め方について不満を爆発させたとき、それにどう対処するかを学ぶというレッスンがあります。
アンジェロが受講者に対して身を乗り出してくると、現実世界で怒っている人と対峙した際に見られるような身体反応が起こることがわかっています。受講者はここで、アンジェロにどう対応するかを3つの選択肢から選ぶようになっています。
🔮 PREDICTIONS
今後の見通し
- 「シミュレーション空間で、学習者が会話などのやりとりをしながらブレインストーミングを行えるマルチユーザーシステムの需要が高まっています。これはグループの規模に限らず、人びとがひとつの部屋で一緒に考えたり、計画を立てていくような種類のプロジェクトのためのトレーニングにおいては、優れたアプローチです」(PwCのスコット・ライクンス(Scott Likens)、業界誌『Human Resources Today』のインタビューで)
- 「研修や訓練を行うだけのためのシステムではなく、他の人と協力したり、おしゃべりや、何かを教えるための会話ができるような場所にすることを目指しています。単に特定のコンテンツやシステムについて、効果が見込めるということではないのです。VRでも拡張現実(AR)でも、またそれ以外の何かでも、現実世界においてデジタル空間にアクセスできることで、生産性の向上と学習のためのチャンスが広がります。わたしたちのプラットフォームはそうした方向に進んでいるのです」(テイルスピンのコンテンツ責任者のフロムキン)
今日のニュースレターはLila MacLellanがお届けしました。日本版の翻訳は岡千尋、編集は年吉聡太が担当しています。
ONE 🤖 THING
ちなみに……
企業の研修やトレーニングプログラムでも少しずつゲーミフィケーションが進んでいるようですが、職業体験シミュレーションはゲームのなかでも人気のあるジャンルです。農家になったり、長距離トラックのドライバーとしてヨーロッパ中を走り回るというような、気の遠くなるほど単調なゲームが数多く存在します。
『The Guardian』のキース・スチュアート(Keith Stuart)はこうしたゲームについて「超絶的に退屈」と書いていますが、それこそがまさにセールスポイントなのです。「予測不可能な現実世界を前にしたとき、適切なタイミングでバスのドアを開け閉めしたり、車内の空調を正しく設定し、信号に従って交通規則を守るというようなことは、心を落ち着かせてくれる」
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