Quartz Japanは、本日9月30日をもってサービス終了となります。最終日ということで、今夜は2本のニュースレターをお送りします。まずお届けするのは、英国の昆虫学者デイヴ・グールソンへのインタビューです。
英サセックス大学の教授であるデイヴ・グールソンの著作『サイレント・アース』は、邦訳が出版されたばかり。書籍の帯には「昆虫なしでは、この世界は成り立たない」との警句が踊りますが、デイヴ先生のことばからは、不確かな偽情報が飛び交うなかでわたしたちがとるべき態度、あるいはわたしたちに訪れた3年の閉塞から窓を開け、知らない世界に目を向けることの喜びを感じられるはずです。また、最近関心が高まっている昆虫食についてもお訊きしました。
インタビューは2022年8月1日に実施したもので、1本のニュースレターに収まるよう編集を加えています。
──『サイレント・アース』には多くの豊かで興味深いデータが詰まっています。本書を書き進めるなかであなたが特に面白いと感じた数字があれば教えてください。
デイヴ・グールソン:本書を書くきっかけにもなった数字として、昆虫の数の減少率が挙げられます。かなり深刻で暗鬱とした数字です。母国イギリスのチョウに関する数字ですが、わたしが虫捕り網を振り回してチョウを追いかけまわしていた子どものころに比べて、いまでは個体数がほぼ50%まで減っています。
よりドラマチックな数字としては、2017年に発表されたドイツの研究が挙げられます。そこでは26年間で飛翔性昆虫が76%も消えてしまったという結果が出ました。
──本書では、殺虫剤の使用というテーマも扱っていますね。殺虫剤の問題を理解する上で鍵となる数字があれば教えてください。
殺虫剤の使用量は世界的に増えてきており、現在では年間400万トンにのぼります。これは端的に言って毒を大地に撒いているのと同じであり、そのほとんどは食べ物に散布され、わたしたちはそれを口に入れています。ここにはさまざまな問題があります。
本書のタイトルはレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(1962年刊行)を土台としていますが、『沈黙の春』が出版された60年前、アメリカでは37種類の殺虫剤が農場での使用が許可されていました。それが昨今では1,000種類ほどの殺虫剤がアメリカの農家に認められています。問題は解決されるどころかむしろ拡大してしまっているわけです。
──カーソンは殺虫剤を「殺生剤」と呼ぶべきだと強く主張しましたよね。昆虫が皆殺しに遭っているだけでなく、生物圏全体が破壊されているからです。
ネオニコチノイドについては、少なくともヨーロッパでは科学が勝利したかのようにも見えるでしょう。欧州連合は、わたしの見立てでは現在世界で最も厳格な殺虫剤規制体制をもっています。しかし、これは完璧とはほど遠い制度で、数多くの有害な殺虫剤が数十年にもわたって許可され市場に出回り続けています。
とはいえ、蓄積された科学的証拠に政治家がようやく目を向けたという事実は喜ばしいものです。2018年にヨーロッパでネオニコチノイドが禁止されましたが、これも政治家たちが比較的妥当な行動をとった一例だと言えるでしょう。科学が政策に直接的かつ計測可能な形で影響を与えた、とても稀な例でもあります。
まったく同じ科学的データは、世界各地の他の規制当局にも知られているはずですが、同じ殺虫剤であるにもかかわらず、他のどの地域でも使用に制限はかけられていません。アメリカや中国や日本など、実に多くの場所でこれは相変わらず大量に使用されているわけです。ヨーロッパからネオニコチノイドが無くなったことは小さな勝利ですが、大局的にみると依然として状況は暗澹たるものです。
──次に、科学者としての倫理についてお聞きします。一般向けの科学本は、すべてを単純化し、あたかも著者がすべてを知っているかのような書かれ方がされがちですが、本書にはそのような感触がまったくありません。そこには、科学者としてのあなたの倫理が反映されているようにも思えたのですが、いかがでしょうか。
この問題について、最適なバランスを見つけるのはなかなか難しいですね。それに、活動家に限りなく近い言動を行うのは、科学者としてはやや心地が悪いものです。殺虫剤に関する研究を始めて以来、何をもって行き過ぎとするかという問題には常に悩まされ続けてきました。
科学者の中には、科学者は学術誌に研究結果を発表するだけが役目であり、余計なことはするべきではないと言う人たちもいます。しかし、わたしはこれには反対です。自分の研究やデータがもつ意味を一番よくわかっているのは科学者本人だからです。そのため、わたしたち科学者は自分たちの分野で起こっていることの含意を、科学界の外にいる人びとにも広く説明していく必要があると思っています。そうしなければ、研究結果が行動に結びつくこともなかなかないでしょう。
科学者は誰しも著作物において公平性を期すように、また誠実であるようにするための訓練を受けるものです。現実として、多くの問いに関しては、正直なところ何が真実なのか判断がつかないこともしばしばあります。
例えば、本書には除草剤のグリホサートについての章がありますが、そこでは人間に対して発がん性があるかどうかを考える上での証拠資料を紹介しました。が、わたし自身はいまだにグリホサートに発がん性があるかどうかを決めかねています。個人的にグリホサートを使いたくないと思うだけの証拠は十分にありますが、確固たる結論に至るとなると難易度は一気に上がります。
残念ながら、現代世界には雑多な情報源やガセ情報があり、既得権益がしばしば意図的にことの真相を歪め、それについて間違ったイメージをつくり出してもいます。これは1970年代から1980年代にかけて煙草産業がとった戦略にさかのぼり、その後化石燃料産業はこの戦略を気候変動に対して採用し、殺虫剤産業も殺虫剤を擁護するために同じことをしました。『懐疑の商人』に書かれているとおりです。
──オレスケスとコンウェイの本(ナオミ・オレスケス+エリック・M・コンウェイ著、福岡洋一訳『世界を騙しつづける科学者たち(上・下)』楽工社、2011)ですね。
“懐疑の商人たち”は疑いの種をまき、混乱を引き起こし、それによって政治家に現状維持を正当化するための口実を与えます。グリホサートの例しかり、ほとんどの人にとって真実を自力で見極めるのは不可能だと思います。そのことを明確にするのは大切だと、わたしはこの本を書きながら感じました。分野によっては、本当に解明が進んでいない場合もありますから。
──昆虫についても、未解明なことがたくさんありますよね。
ワクワクしますよね。命名すらされていない生物種はたくさん存在します。まだ発見すらされておらず、生活環も生理学も習性もまったくわかっていないわけです。そもそも自然界の仕組み自体がまだ謎に包まれています。
それは心を熱くさせると同時に人間を謙虚にさせる事実でもあります。というのも、自然界を研究すればするほど、いまのわたしたちの理解の薄っぺらさが実感できるようになり、これから発見されるかもしれないものごとへの期待が膨らむからです。なにもエキゾチックな場所へ行かなくても、わたしたちの身のまわりにはそのような発見の可能性が満ちあふれています。
──本書では、人が昆虫の存在意義を考えるときに、昆虫が人間にとって役立つかどうかという風に考えがちだと指摘しています。
わたしはとにかく虫たちが好きで、虫たちの有用性に心を動かされているわけではありません。本音を言うと、虫たちが単にクールで魅力的な生き物であるという理由が本当のところなのです。
とはいえ、一般向けの講演会では、例えば「カリバチがいる意味って何ですか?」といった質問がよく聴衆から出ます。それに対して「カリバチは生物的防除因子です」「送粉者です」という風に、昆虫の有用性を列挙していた時期もありましたが、最近では「では、人間がいる意味って何ですか」「そもそも意味なんて必要でしょうか」と言うに留めています。
人間はこの惑星をおびただしい数の多彩な生物たちと共有しており、生き物たちにはそれぞれ取り替え不可能な個性があります。宇宙の彼方に思いを馳せたくなる気持ちもわかりますが、わたしたちが暮らしているこの岩のかたまりは唯一無二であり、わたしたちはこれを価値あるものとして丁重に扱い、世話をする必要があります。
すべてを人間のための有用性で正当化しようとするのはもうやめるべきでしょう。そもそも自然界には一種の魔力が満ちています。あるいは、自然とのふれあいは人間の健康や幸福にとってプラスになるという証拠もたくさんあります。それだけでも、自然界を大切にする理由として十分でしょう。
──こうした問題についてわたしたちがより自覚的になり、教養として身につけていくための方法などについてお話いただけますか。
子どもたちには自然界のありとあらゆる場面に魅了される傾向が先天的に備わっているようですが、ほぼ全員がいずれこうした段階を「卒業」し、大人になってしまいます。
思うに、問題の根本には「馴染みの無さ」が、すなわち自然界に関する知識と教育の欠如があります。人類の大半が都市に住んでいるという現実とも関係があるでしょう。世界的に見ると、都市に住む人たちは多数派です。イギリスのような国では都市人口は80%にものぼりますし、日本も似たような状況ではないかと思います。そのため、多くの人たちは一度も昆虫に出会うことなく大人になっていくわけです。馴染みのないものには恐怖を感じてしまうのでしょうね。
大人たちの多くは自分で種を蒔いた経験がなく、植物を育てたり、あるいはハチが花から花へ飛び回る様子をじっと観察したりしたこともないという有様です。このような大人たちは、自然界に関してほぼまったく何も知らないのです。
都市でマーケティングや銀行業に従事するだけならば、そのような知識は不要だろうと言う人もいるかもしれません。とはいえ、結局のところ人間は自然界やその知識に依存しています。もし自然界をしっかりと維持したいと思うならば、まずはもう少し知識をつける必要があるでしょう。そうした知識がなければ、自然界への共感も生まれないですからね。
具体的にどうすればいいかと言うと難しい問題ですが、わたしはこう語りかけるようにしています。「5分か10分でいいので、外に出て、花畑でも原っぱでも森林でも、天然の植物が生えているところへ行き、地面に座り、あるいはしゃがみ、もし地面に座りたくないならば椅子を持って行き、じっとまわりを見てください。すごい生き物たちであふれているこの心躍る環境を、ゆっくりと観察してください」
コロナ対策のロックダウンでは、数カ月にわたって特に何もやることがなく自宅と庭に閉じこもった結果、かなり多くの人たちが自然界に関心を向けるようになったとわたしは思っています。見たものを写真に撮ってSNSに投稿している人たちもたくさんいました。「これ何?」「庭ですごい生き物をみつけた」という感じです。ふと立ち止まって自分のまわりをみつめなおしたおかげで、ずっと前から庭にいた生き物たちにようやく出会えたわけです。
──最後にもうひとつ、昆虫食について質問です。昆虫食に食糧問題の解決を期待する声が高まっていますが、個人的にもし昆虫食に対して賛同しきれない部分があれば教えてください。
ここには葛藤があります。わたしは一般の人びとに向けて昆虫を愛するように呼びかけている一方で、昆虫食を紹介してもいます。
野生の昆虫と食用に育てられた昆虫の間には、区別をつけることもできるでしょう。人間には食べられないものをたんぱく質と脂質に変換する効率に関しても、ウシやニワトリに比べて昆虫の方が優っていると言えますし、水や土地などの使用量も相対的に少なく済みます。これは論理的な主張として、一つ考えられるでしょう。そのため、昆虫を大量に育てるという選択肢は、人間のためのたんぱく質や栄養の源として、将来的にありえると思います。
他方で、昆虫への思い入れや動物たちの幸福という視点からは、なお矛盾が残る考えだと言えそうです。わたしだって、数百万匹もの昆虫が人間に消費されるためだけに狭い空間で大量に育てられてほしいとは思いません。本書にも書きましたが、昆虫を含めあらゆる種類の肉の消費量を減らしていく方向が最も妥当でしょう。
とはいえ、昆虫を食生活の一部に組み込むのも悪くないかもしれません。すでに世界各地で昆虫食は広く採用されています。世界の人口の約80%が虫を食べているわけですからね。それを止めるべき理由は、いまのところ特に見当たりません。
──最後に意地悪な質問をしてしまい、申し訳ありません。改めて、今日はありがとうございました。
(interview by Kenji Hayakawa)
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