A Guide to Guides
Guidesのガイド
Quartz読者のみなさん、おはようございます。週末は米国版Quartzの特集〈Guides〉から、毎回1つをピックアップ。今週も、世界がいま注目する論点を編集者・若林恵さんとともに読み解きましょう。
──暑いですね。
殺人的ですね。
──こんな時期にオリンピックをやろうとしてたのかと思うと、改めて正気の沙汰かと思いますね。
ほんとですね。ちょうどいまお盆で、街も静まり返っていますけど、このタイミングでわさわさとお祭り騒ぎしていたら、暑苦しくてしょうがなかったでしょうね。経済的には大問題でしょうけれど。
──人は戻ってくるんでしょうかね?
どうなんでしょうね。夜に食事なんか行くと、結構人が戻ってる感じはありますけれど。
──リモートワークはどうなるんでしょうね。
わたしは基本、ずっと変わらずにオフィスに出ていましたけれど、オフィスといっても、まあ、数人しかいない会社で言ってみればサークルの部室みたいなものですから、これをオフィス通いと呼ぶのかどうか、自分でもよくわからないですね。
──その「部室」には、そもそもなんで行ってるんですか?
ちゃんとしたオーディオ設備があって大きな音で音楽聴けますし(笑)、本もいっぱいありますし、人と打ち合わせをするための設備も、まあ整っていますし。大きいテーブルにコーヒーメーカーとか、その手のことですけど。
Reimagining the office
オフィスの再想像
──今回の〈Guides〉は「オフィス」がお題で、COVID-19によってオフィスの意義が改めて問われているという主旨ですが、特集の総論ともいえる〈Covid-19 upended the office, but it might have created something better〉という記事に、まさに同じことが書かれています。
「本当のことを言えば、私たちの大半がオフィスに行くのは、出社することが働いていることの重要な証拠であると雇用主たちがみなしているからだ。産業時代がポスト産業時代へと移行していくなかで、物理的に集まり理由がないにもかかわらず、わたしたちは、出社することでお金をもらっていたのでそうしていたにすぎない。動かすべき機械はなく、せいぜいあるとしてもラップトップやコーヒーメイカーくらいだ」
あはは。あまりにもあられもなさすぎて、デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』の一文みたいですね。
──話題の本ですね。
このCOVID-19のタイミングで、この本の翻訳が、ここ日本で出たのは、なんというか意義深いものがありますね。いま引用されていたオフィスになぜわたしたちが行っているのか、という議論は、オフィス自体の問題ではなく、「そもそもその仕事必要?」という問題でもありますよね。
──というと?
これはあまりにも有名になった文章でもあるので、ご存知の方も多いかと思うのですが、「ブルシット・ジョブ(Bullshit Jobs)」という問題の出発点をグレーバーはこう説明しています。
「1930年、ジョン・メイナード・ケインズは、20世紀末までに、イギリスやアメリカのような国々では、テクノロジーの進歩によって週15時間労働が達成されるだろう、と予測した。彼が正しかったと考えるには十分な根拠がある。テクノロジーの観点からすれば、これは完全に達成可能なのだから。ところが、にもかかわらず、その達成は起こらなかった。かわりに、テクノロジーはむしろ、わたしたちすべてをよりいっそう働かせるための方法を考案するために活用されてきたのだ。この目標のために、実質的に無意味(ポイントレス)な仕事がつくりだされねばならなかった。とりわけヨーロッパや北アメリカでは、膨大な数の人間が、本当は必要ないと内心考えている業務の遂行に、その就業時間のすべてを費やしている。こうした状況によってもたらされる道徳的・精神的な被害は深刻なものだ。それは、わたしたちの集団的な魂(コレクティヴ・ソウル)を毀損している傷なのである。けれども、そのことについて語っている人間は、事実上、ひとりもいない」
──あはははは。まじですか。すごいな。わたしたちが従事している仕事の大半は、下手すると仕事をつくりだすためにつくり出された無意味な仕事だということですね。
そうなんですね。ハッとしますよね。グレーバーはそうした「ブルシット・ジョブ」を大きく5つに分類して、「取り巻き」「脅し屋」「尻ぬぐい」「書類穴埋め人」「タスクマスター」としていますが、一応解説しておきましょうか。
──お願いします。
「取り巻き」は、「だれかを偉そうにみせたり、だれかに偉そうな気分を味わわせるという、ただそれだけのために(あるいはそれを主な理由として)存在している仕事」です。
──いっぱいいそう(笑)。
続く「脅し屋」はこうです。「その仕事が脅迫的な要素をもっている人間たち、だが決定的であるのは、その存在を他者の雇用に全面的に依存している人間たち」。グレーバーはその典型として「軍隊」をあげていますが、ロビイスト、広報専門家、テレマーケター、企業の顧問弁護士などが、挙げられています。
──広告代理店とかも入りそうです(笑)。
まさに。この章では、「わたしの仕事は、需要を捏造し、そして商品の効能を誇張してその需要にうってつけであるように見せることです」という「トム」という名の広告マンの告白が掲載されています。
──次いで、「尻ぬぐい」ですね。
これは原語だと「ダクトテープ(duct tape)」と命名されています。
──あはははははは。
定義は「組織に欠陥が存在しているためにその仕事が存在しているにすぎない雇われ人」です。
──手厳しい。
「書類穴埋め人」は読んで字の如しですが、グレーバーの定義はこうです。「ある組織が実際にはやっていないことをやっていると主張できるようにすることが主要ないし唯一の存在理由であるような被雇用者」。
──ふむ。
グレーバーはこれらの仕事についてこう付け加えています。「書類の穴埋めの最大の悲惨は、書類づくりが表向きの目的の達成になんら寄与しないばかりか、実際には目的達成の足を引っ張っているということを、雇われ人がたいていわかっていることである」。
──泣けてきますね……そして最後が「タスクマスター」ですね。
これの主要な役割は、「他者のなすべきブルシットな業務をつくりだすこと」です。
──泣いていいのやら笑っていいのやら。しかし、グレーバーは改めてすごいですね。
実際、こんな痛快な本もないだろうというくらいの面白さですが、最初に指摘されていたように、こうしたことを語っている人が「事実上、ひとりもない」というのが本当であるなら、これは壮大なタブーだったということになりますよね。
──本当ですね。“仕事”というのは常に意義があるもので、それをつまらないと感じたり「意味あるのか?」と問うたりすることは、いろんな言い方で封じ込められてきたような気がしますが、こうやって多くの仕事は「ブルシット」なものだと言われると、なんかホッとしますよね。肩の荷が降りる、というか。
ほんとですね。
──とはいえ、なんでこんなことになっちゃったんでしょうね。
そこは、説明すると長くなるんですが、グレーバーは、自分が食糧を大量に所有している封建領主であることを想像することを勧めています。食糧が余っているので、それを豪勢に味わうために「取り巻き」を雇い、そこに貧しい人たちや、孤児や犯罪者が群がってきたとして、そうした人びとから食糧を守るために「脅し屋」を雇います。そうした貧しい人たちを、「脅し屋」を使って追い払ってもいいんですが、その人たちを放っておくと暴徒化したりするので、その人たちにも「取るに足らない仕事や、必要のない仕事を割り当てる」ことになる、と。「そうすることで、自らを善良に見せることもできるし、少なくとも彼らの動きを見張ることができる」。
──ははあ。
グレーバーはこれと同様の力学が、現存の資本主義のもとでも働いていると指摘しています。
──なるほど。なんかあれですね、いわゆるBlack Lives Matterで表出している問題と、似たような構造のように思えてきますね。資本家を守るための「脅し屋」としての警察もそうですし、暴徒化するのを回避するために貧しい人やマージナライズされた人たちにも「とりあえず仕事を与えておく」的な。にしても、そうやって指摘されると、今日の本題である「オフィス」なんていうものも、なんだか封建領主のお城のようにしか見えてこないですね。
そうなんですよね。「オフィスを快適にしよう」なんていう話も、グレーバーの議論に即して言えば、そもそもが末端の人間を「見張る」ための口実のようにも思えてきます。
──むむむ。
わたしが聞いた話によれば、リモートワークになったことでのびのびと仕事をやれるようになった人も増えた一方で、それこそ1時間おきだかに点呼があったり、ひどいのだと会社支給のパソコンが起動していて仕事しているかどうかを常時モニタリングされているといった話もあるそうで、たしかにCOVID-19がもたらした「リモートがデフォルト」という事態は、これまでのような無意味な会議や仕事などを淘汰するうえで非常に有効性もあった一方、それこそグレーバーの最初の指摘にあった通り、テクノロジーによって減るはずだった仕事が、逆に増えてきたという趨勢のなかに、わたしたちがいまだに捕らわれているのだとすると、テクノロジーの進展、つまりリモートによってもたらされるワーキングツールの細分化・複雑化は、逆にむしろ「ブルシット・ジョブ」を増やす方向に作用する可能性もある、ということなんです。
──そうか。
そうなんですよ。「デジタル化によって仕事はより効率化され、業務も減っていく、それによって人はもっと本質的な仕事に手も頭も使うことができるようになる」といった言説は、テックを後押ししたい人が判で押したように使うものですが、グレーバーによれば、その想定自体がケインズによって1930年代から提出されてきたことになるわけですよね。ところが現実は真逆へと向かってきたのだとすると、いま、あえて「デジタルテクノロジーの向かう先は違うのである」という言い分を信じる理由はないようにも感じます。
──たしかに。こういうのもあれですが、テック界隈でいえば、なにかとやたら「チーフ〇〇オフィサー」がいるじゃないですか。「それ何やるの?」みたいな。ああいうのもうっかりするとただのブルシット・ジョブである可能性もありそうです。
たしかに。「無理やりこさえたな」というようなものもあったりはしますからね。で、話をオフィスに戻して〈How to design an office that employees will want to return to〉という記事を見てみたいんですが、これはタイトル通り、「戻ってきたくなるオフィスのつくりかた」をリスト化した記事なのですが、ここで挙げられている要件は、もちろん、コロナ下において必要なものではあるのですが、ちょっと首を傾げたくなるところもなくはないんです。「Covid-19 office solutions 2.0」と銘打たれていますが、ざっと挙げますね。
- より良い体温計
- チェックイン手続きと密集度のモニタリング
- ソーシャルディスタンシング対応のオフィス配置
- プレキシグラスではない遮蔽板
- 人を怖がらせないサイネージ
- 緑化と空気清浄
- UV電球やUVロボット
- 人肌感
──なるほど。ソリューションとしてはたしかに具体的ではありますが、どれも別に「戻ってきたくなる」ためのものではないですね。どちらかというと、「社員を無理やり戻って来させるために必要な装備」という感じですね。
社内で感染が起きたらかなわん、という意図しか見えてこないですよね。さっきの封建領主の絵図をいったん頭に入れてしまうと、こうした装備は、もはや、城内で貧乏人たちにノミやシラミをうつされちゃ困る、という絵図にしか見えなくなってきちゃいますね。
──ですね。
あるいは、〈The best tips for managing remote workers in extraordinary times〉や〈How to nurture company culture when everyone’s working from home〉といった記事では、リモートになっているなかで、いかにスタッフを気遣うかといったティップスから、スタッフ同士のちょっとした立ち話などが失われた環境のなかで、どうやって会社の文化を育むかといったことが書かれていまして、オンライン上でのちょっとしたイタズラがチームの結束を固めたとか、とにかく上司はこまめにコミュニケーションを重ねていくことの重要性が語られていますが、これもまた、グレーバー脳で解釈していくと、オンラインで文化を育てる担当とか、チームのご機嫌伺い担当とかが専任の人とかが出てきそうな勢いのようにも読めます(笑)。
──コロナによって生まれた新種のブルシット・ジョブ、というわけですね。
もちろん、それはそれでうがった見方ではあるんですよ。オフィスワーカーのメンタルヘルスは会社組織の生産性という観点からのみならず、社会的なイシューとしても重要なものではありますので、それに企業もしっかり取り組みのは大切なことだとは思うのですが、そもそもメンタルがやられている原因が、別のところにあるのだとすると、そうしたことも本質的には対症療法にすぎないということになってしまいますし、悪い言い方をしてしまえば、ただ体制を維持するためのものでしかないということにもなりそうです。
──どうしたらいいんですかね?
くどいようですが、ここでもまたグレーバーを引いておくと、「ブルシット・ジョブは、ひんぱんに、絶望、抑うつ、自己嫌悪の感覚を惹き起こしている。それらは、人間であることの意味の本質にむけられた精神的暴力のとる諸形態なのである」としていますが、ここにある「人間であることの意味」という語はとても重たいことばですよね。
──つまり、「人間であることの意味」と「仕事」というものが、折り合いがつかなくなってしまっているということですよね。
はい。「人間であることの意味」は何かというのは、すぐに答えが出るものではないですが、仕事というものが人間であることに意味を与えるというロジックはたくさんありまして、それは経済学でいえば、労働がモノの価値を支えているという論理であったり、労働が人間をよりよく成長させるといったプロテスタンティズムを背景にした道徳律であったりしたはずですし、あるいは、戦後の日本では「社会建設」という言葉がひんぱんに使われていたと誰かの文章で読んだことがありますが、そうした「国や社会のために働く」ということを通して、人として生きる価値が下支えされてきたこともあると思うのですが、いま「なんのために働くのか?」と問われて、「生活のため」という答え以外の答えを持ち合わせている人がどれだけいるか疑問ですよね。
──そうですね。
「仕事は生活のため」というロジックが精神的にキツいのは、おそらくなんですが、やっぱりどこかで「仕事というものは、この世にとって有益なものであるはずだ」という思いが亡霊のように自分たちのなかに残っているからで、その行為を単に自分の生活を支えるためだけに使ってしまっているというやましさのようなものがあるからではないでしょうか。仕事は生活のため、とバッサリと割り切ることのできる人もいるかとは思うのですが、そう切り捨てることによって、いま言ったようなやましさ自体から自由になっているのかは、よくわからないところもありますよね。
──「仕事は金のためだよ」という言い方はちょっと偽悪的な素振りという感じもしますしね。
これはグレーバーの議論から離れるんですが、ある知り合いが、「自分のためになんか一生懸命働けるか」というようなことを言っていて、たしかにな、と思ったことがあるんです。つまり、人に頼られるとか、あてにされるとか、自分の仕事を待っている人がいると思えばこそ、一生懸命働くことができるということで、つまらない言い方になりますけど、人に感謝されることでやっている仕事に意義が見出されるということはたしかにありますよね。逆に、それがなくて、すべてが自分の欲求や自分の幸福観を満たすためだけに、仕事をやろうとすると、まあ、私だったら、真面目に働く気はしないですね(笑)。
──自分のことを一番大事にするって、案外難しいことですしね。
そうなんですよね。そういう意味でいうと、人というものには、どこかにきっと利他性というものがあって、そうした部分と仕事や労働というものは本当は結びついていたのかもしれないような気もするんですが、経済というものを利己心と結びあわせだしたあたりから、仕事と「人間であること」の関係性はおかしくなったような気がしてきますし、同時に、そうと気づかずにその利他心を経済、もしくは資本主義に搾取させることを許してしまったということなのかもしれませんよね。
──なんかわかるような気もします。そういえば、昨日今日もソーシャルメディアで、学校の教職員の労働環境をめぐって、「先生死ぬかも」というハッシュタグが拡散してましたが、子どもであったり老人であったり、人の助けが必要な人のために役に立とうという仕事は、まさに「人を助けたい」という利他心を思うがまま搾取され、果てしなくブルシット化していっているようです。
“エッセンシャル”とみなされる仕事であればあるほど社会の底辺におかれ、しかも社会が緊急事態のなかにおかれるとなおさら、そこに圧がかかり、さらに底へと沈み込むことになるという構造は、COVID-19が明らかにした最も重大な社会的欠陥だと思うのですが、ここで明らかになった“エッセンシャル”な仕事は、そのほとんどが人の利他性をあてにせざるを得ないものなんですよね。
──変ですよね。人のために役立ちたいと考えて就く仕事は労働価値が低く、自分のためにやることこそが価値になるって。
経済学というものが、人とはそういう合理的で利己的ななにかであるという見立てを前提に組み上がっていったものであったということが、おそらくは大きな影響を持ってしまったのかもしれません。人間は自分の欲を最大化すべく行動するものである、という見立てがまったく現実的なものではないことは、ちょっとでも自分の胸に手をあてて考えてみたらわかるはずなんですけどね。もっともこうした発想はのちに「合理的な愚か者」という言い方で断罪されてはいますので修正されているはずですが、世の中では相変わらず、こうした強弁が、とくにお金持ちが自分の富を独占することを正当化したいときに持ち出されますよね。
──やれやれですね。
ちょっと今回はGuidesの中身についてはあまり触れなかったんですけど、Guidesのなかで、あれこれ施策を行うなかで、チームがひとつになったというような話は、それはそれでやっぱりいい話で、人はいまだに仕事というものに意義を感じているし、そこが「人間であることの意味」を見出すことのできる空間であることは望んでいるんですよね。
──いじましいようですが、そうなんですよね、きっと。
で、おそらくはそのこと自体が、人間の本質でもあるような気もするんです。グレーバーは『ブルシット・ジョブ』の最後に、ユニバーサルベーシックインカムの話題を俎上にあげ議論を展開しているのですが、それは生活から労働を切り離すことで、仕事のブルシット化を回避できるとしています。そして、そうした議論を展開すると決まって出てくる反論に、彼はこう反論するんです。
──はい。
「労働にかかわりのない万人の生活保障が提起されると、最初にあがる典型的な反論は、そんなことしたら人間はたんに働かなくなるだけだというものである。しかし、これは明白な誤りであり、ここではあっさり斥けてよいと思う。二つめのより深刻な反論は、たいていの人間は働くかもしれないが、その多数が自己満足的な関心でのみ働くのではないか、というものだ。つまりへたくそな詩人とか、ひとをイラつかせるようなパントマイマーや、イカれた科学理論の布教者などで街は満ちあふれ、だれもがやるべきことをやらなくなるだろう、というわけだ。ブルシット・ジョブ現象が痛感させてくれるのは、そのような発想の愚かさである。自由な社会の一定の層が、それ以外の人びとからすればバカバカしいとか無駄だとおもえる企てに邁進するであろうことはあきらかである。しかし、そのような層が10や20%を超えるとはとても想像しがたい。ところが、である。富裕国の37%から40%の労働者が、すでに自分の仕事を無駄だと感じているのだ。(中略)もし、あらゆる人びとが、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを、なんの制約もなしに、みずからの意志で決定できるとすれば、いまあるよりも労働の配分が非効率になるということがはたしてありうるのだろうか」
──自分なりに考えてみたいところですけど、どう考えてもパントマイムはやらないですね(笑)。
面白い思考実験だと思うので、みなさんも、考えてみられたらよいかと思うのですが、多くの人は、きっと子どものときに思い描いたような、「これをして人に喜ばれたい」と思い描いたような、そういう仕事をしようと思うんじゃないかと思うんです。
──誰も喜んでくれないところでパントマイムをやり続けることができるのは、よほどハートが強い人でしょうしね(笑)。
そう思い描いたときに、会社とか、オフィスというものが必要になったとしたら、それははたしてどんなものになるだろうか、と考えるのは面白いと思うんです。自分が何かをやりたいと思って、気の合う仲間を集めて、基本リモートで業務はできるとして、たまに集まる場所があったとしたら、どんなものになるんでしょうね。
──あ。サークルの部室じゃないですか(笑)。
あはは(笑)。
──そのとき、フィジカルなスペースの価値って、どう定義されることになるんでしょうね?
わからないですけど、一緒に音楽を聴いたり、同じ本棚を眺めたりをすることで、なんか匂いを確かめるみたいなことかもしれないですね。そういう意味では、文化空間なのかもしれないですね。
──以前、通勤をお題にした回で、「リバースコミュート(reverse commute)」という話題が出まして、都心ではなく郊外にオフィスを構えて、たまにそこに社員が出かけていって、みんなでバーベキューして帰ってくるみたいなワークスタイルについて話されていましたけど、オフィスっていうものは、これからは案外「“オフ”になる場」だったりするのかもしれないですね。
変な話ですけどね。でも、それも、そのグループなりで行われる「仕事」が、「人間であることの意義」とちゃんと折りあっていることが前提でしょうけどね。オフィスの問題を通して、これからの経営者はすべからく、その問題と向き合わないといけないことになるんでしょうね。
──どう折り合いつけるんでしょうね?
さあ。一生懸命考えてもらうしかないですね。
──最後に、ちなみにお伺いするんですが、若林さん的には、ブルシット・ジョブって言ったらなんですか?
ああ、私たちの業界でいうと、「オウンドメディアの制作」ってのが、そうなんじゃないですかね。構造的に、メディアとしての意義がないですし、大方の場合どこにも主体性がないですし、関係する誰もハッピーにならないものなので、「つくるためにつくる」の典型的な例かと思いますね。
──ずっと言ってますね。それ。
仕方ないです。ずっとブルシットなわけですから。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社を設立。NY在住のジャーナリスト 佐久間裕美子とともホストを務めるポッドキャスト「こんにちは未来」のエピソードをまとめた書籍が発売中。
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