A Guide to Guides
週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzの特集〈Field Guides〉から1つをピックアップし、編集者の若林恵さんが解題する週末のニュースレター「だえん問答」。今回取り上げるのは「スモールビジネス」です。原文とあわせてお読みいただくとともに、原稿執筆中に若林さんがBGM代わりに流している今週のプレイリストもお楽しみください。
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How small business bounces back
スモールビジネスの希望
──今日は、なんだか元気そうですね。
そうですか? そんなこともないのですが、今回はお題が「スモールビジネス」でして、好きな話題ですので、のびのびやれるといいなと思っています。
──この話題、好きですよね。
はい。
──なんでですか?
なんででしょうね。自分がやっているのが、そもそもスモールビジネスなのは大きいかもしれませんね。当事者といえばそうですから。
──そうか。出版の世界は、それ自体がスモールビジネスの世界ですもんね。
今回の特集のメイン記事「パンデミックが露わにしたスモールビジネスの脆弱さをいかに克服するか」(The pandemic exposed small businesses’ vulnerabilities—and how to fix them)のなかでは、「スモールビジネス」の一応の定義が書かれていまして「統計上は従業員500人以下の企業」としていますが、とはいえ「スモールビジネスと言ってイメージされるのは10人くらいの企業のことだろう」とも書いています。今回の特集で取り上げられているのは、どちらかというと「スモールビジネス」といってイメージされる「小商い」ですね。
──飲食店なども含まれますよね。
そうですね。
──たしかにパンデミックで一番影響を受けたのは、そうした事業体ですよね。
はい。個人的には「スモールビジネス」って言い方がとても好きでして、これを日本で分類すると「中小企業」となりますが、この言い方をされると、なんだかちょっと残念な気持ちがしてしまうんですよね。
──なにが違うんですかね?
「スモールビジネス」ということばに込められた重要なニュアンスは「選択的にスモールである」というところだと思うんです。それは、別の言い方をすると「インディペンデントである」ということでもあるのかなと思います。
──たしかに「中小企業」ということばは、なんだかひどくのっぺりしていて、なんというか、なんの価値も宿していないことばですよね。
そうなんです。昨日、あるシャンパンブランドがグローバルで展開している女性起業家のアワードについてちょっと調べていたら、その受賞者のひとりが創業した「Young Foodies」というスタートアップのことが出てきまして。これが、スモールビジネスのスタートアップを支援するプラットフォームなのですが、ここで言う「スモールビジネス」は、いわゆるテック企業ではなく、食料品のスタートアップなんですね。
──ああ、いいですね。インディ系のチョコとかポテチとか。
そうですそうです。で、面白いなと思ったのは、Young Foodiesでは、そうした新興のブランドのことを「チャレンジャー・ブランド」という名称で呼んでいることなんですね。
──なるほど。「挑戦者のブランド」ということですね。
はい。Young Foodiesに参画しているようなフード・スタートアップは、オーガニックやヴィーガン、フェアトレード、環境配慮といった価値軸を強く打ち出すようなものがほとんどですので、Young Foodiesが支援しているのが、メインストリームのそれとは異なる「オルタナティブな食料ビジネス」であることが価値観としてあることは明白ですが、それをただ「新興の中小の食品メーカーを支援します」と言ってしまったら、焦点がボヤけてしまい、まったく魅力を感じませんよね。
──ただの金貸しみたいです(笑)。
ですから、自分たちが支援しようとしているスタートアップ群を「中小企業」ではなく「チャレンジャー・ブランド」と呼ぶのは、Young Foodiesのビジネス戦略上も非常に重要なんですね。ちなみにこの「チャレンジャー」ということばは、英国のフィンテック界隈では新興のデジタル銀行のことを「チャレンジャーバンク」と呼ぶなど、それなりに使われているものですので、ことば自体が目新しいわけではないのですが、それをただ「デジタルバンク」と呼ばないのは、そこに旧来の「バンク」との明確な差異があるからでして、逆にいえば、そうであるがゆえに「新しい何か」には、やはり「新しい名前」が必要なんですね。
──それをどういう名で呼ぶかで、そこに明確なメッセージと輪郭が浮き上がってくる、と。
そうした「名付け」はとても大事なことで、アメリカのビジネスセクターもメディアも、それに非常に長けているんですね。「フィルターバブル」でも「ギグエコノミー」でも「ビンジウォッチング」でも「ソーシャルディスタンス」でもなんでもいいのですが、ある状況や行動に「新しい名前」がつけられることで、そこに「新しい現実」が実体として立ち上がってくることになるわけですね。
──なるほど。
もちろん、こうした「名付け」は諸刃の剣でもありまして、名前が実体をつくりだしてしまうのであれば、実体がなくても名前をつけてしまえば、なんとなく実体があるように思えてきてしまいますので、それを悪用することもできてしまうわけですね。
──「復興五輪」とか(笑)。
まさにそうですね。ですから、ことばというものにはよほど注意を払わなくてはいけないのですが、このことをまさに問題にしたエッセイ集が、レベッカ・ソルニットの『それを、真の名で呼ぶなら:危機の時代と言葉の力』でして、まえがきで著者はこう書いています。
「現時点での危機のひとつは言語的なものなのだ。言葉は曖昧な意味のぬかるみへと退廃する。シリコンバレーは『シェアリングエコノミー』『コネクティビティ』『オープンネス』といったフレーズの数々に飛びついて上辺を飾り、自分たちのアジェンダを押し付ける。それらを『監視資本主義』(サーヴェイランス・キャピタリズム)といった用語が押し返す。
(中略)本書に収めたエッセイのひとつに、わたしは、『そのものを真の名で呼ぶことにより、わたしたちはようやく優先すべきことや価値について本当の対話を始めることができる。なぜなら、蛮行に抵抗する革命は、蛮行を隠す言葉に抵抗する革命から始まるのだから』と書いた」
──そういえば、つい先日、IOCのバッハ会長のことを『The Washington Post』のベテランスポーツ記者が「Baron Von Ripper-off」と呼び、それを共同通信だったかと思いますが「ぼったくり男爵」という名訳をあてて話題をさらいましたが、それが、いまソルニット先生が書いたようなことに該当するのかは定かではないですが、IOCや日本側の主催者が度々発してきた、何かを「覆い隠す言葉」の背後にあるモヤモヤを、きれいに暴いた感じはありました。日本が対峙しなくてはならない相手が、なにやらご大層な国際機関のおえらいさんではなく「ぼったくり男爵」なのだと理解することで、それこそ、「ようやく優先すべきことや価値について本当の対話を始めることができる」ようになるようにも感じます。
面白いものですよね。それこそ水泳の池江選手に「五輪を辞退しろ」などとDMを送りつけた人たちに対して、池江選手が応答したツイートをめぐる応酬も、そうやってことばの問題として考えると非常に面白いですよね。
──あれは、全体としてとてももやもやしてしまいましたが、どう見たらいいですかね。
わたしも非常にもやもやしましたので、あの池江選手のことばをめぐって投下された膨大なツイートを見てまわったのですが、そのなかで、あまり話題にならなかったようですが、元マラソンランナーの有森裕子さんの投稿があったので、それをご紹介しましょうか。こんなことをおっしゃっています。
「組織が『意固地』とも感じる発信をし続けている現状が、このような理不尽な矛先の向けられ方を生んでます!」「公にコミットしている職を選び生きる一人の社会人として『なんらか』の思いの言葉をきちんと発信する、出来る事は大切であり、問われれば『答える』義務が生まれる内容もあるでしょう」
──えーと。
意味を取るのに若干手間取るかもしれない投稿ですが、まずは組織──五輪組織委員会やJOCのことだと思いますが──が、ちゃんと発信をしないから批判の矛先が選手に向かっていて、それ自体はとても理不尽なことである、と表明されています。大事なのはここからで、とはいえ、スポーツ選手は「公」にコミットする職業なので、説明責任や応答責任が義務として問われる局面もあるとしていまして、ここからがさらに大事なのですが、それをきちんと発信することだけでなく、それが「出来る」ことが大切だとしています。つまり、有森さんは、池江選手にある種の攻撃の矛先が向かっていることを理不尽とはしながらも、「私は何も変えることができない」という応答では応答責任を果たしたことにはならないと明確に批判しているわけですね。
──投稿にぶら下がったコメントを読む限り、それを「池江批判」と読んだ人たちが有森さんに雑言を浴びせているところを見ると、まあ、かなり明白に批判したということなんでしょうね。
有森さんは、ここで「義務」ということばを使っていますが、このことばを支えているのは、職としてスポーツを選んだということは「公」にコミットすることで、そうである以上、五輪という大会において池江選手のみならず、選手すべてが「ステークホルダー」であるという考えだと思うんです。
──当事者であればこそ、義務や責任が発生すると。
はい。で、おそらく、池江選手の発言をめぐる対立の分断線は、ここにあると思うんです。つまり、「選手は五輪というものにおけるステークホルダーなのか?」という問いです。
──ふむ。
一方で池江選手を擁護し、同情する側のコメントを見てみますと、「池江選手には責任はない」といった主旨の発言がかなりの数あるんですね。あるいは、「責任はスポーツをすることで果たすのがスポーツ選手がすべきことだ」といった言い方もよく見られます。わかりやすい一例を、先の有森さんの投稿にぶら下がったコメントから拾わせていただきますと、こんな感じです。
「アスリートは競技に全力を尽くすのが『答える』事でしょう。政治的なことにコミットする必要などないですよ」
──ああ。これはよく見る答えですね。きゃり〜ぱみゅぱみゅさんや大坂なおみさんが「政治的発言」をした際にもよく見たやり取りですね。
まったく同じですよね。こうした投稿が暗に語っているのは、「選手というものは、与えられた舞台のなかで、それまでの努力を100%発揮することであって、その舞台のありようについての『政治』に関わる義務も責任もない」ということなのだと思うのですが、これは現実論としてはたしかにそうだとは思うんです。つまり、選手が何か言ったところで舞台のありようをめぐる政治は変わらないのは、たしかにそうなんです。
──会社とかでもありそうですよね。「現場は与えられた仕事をまっとうするしかない」というのは、たしかに、一番現実的な身の処し方ではありますよね。
そうなんです。ところが、この間のオリンピックの問題に限らず、会社というものをめぐっても「本当にそれしかやりようないのだっけ?」ということが問題になっているわけですね。会社というものをめぐる新しい動きについては、第34話「働き手たちのアクティビズム」でも触れたのですが、簡単にいいますと、企業というものも、これからは、株主だけでなくすべてのワーカーやサプライチェーン、あるいは企業が置かれている地元コミュニティなども、単に「金銭的な契約でつながった取引相手」ではなく「ステークホルダー」としてビジネスを共につくっていくパートナーとみなす方向に進むべきだという議論になっているんですね。
──昨今流行りの「ステークホルダー・キャピタリズム」ということですね。
はい。もちろんこうしたことばが何を含意しているのかは、先のソルニットにならって吟味しなくてはならないところではありますが、企業が、自分自身を持続していくにあたって不可欠なステークホルダーは誰なのかをいま一度再考せざるを得ないという圧は、「ESG」や「SDGs」といったお題目へのコンプライアンスがより強く求められているなか、より一層強まってはいるんですね。
──オリンピックも構造的には、まったく同じですね。前々回でしたか『The New York Times』のオリンピック批判を取り上げたところでも、似た指摘がありましたね。
はい。「いまオリンピックを見直すべき理由」と題されたコラムですが、「今後オリンピックはこうあるべきだ」と提案している箇所には、こんな一文がありました。
「オリンピックという運動における対等なパートナーとしてアスリートに大きな権限を与えること」
──なるほど。このコラムが提案するオリンピックの未来においては、選手はきちんと「ステークホルダー」として見なされるべきだと言っているわけですね。ということは、逆にいえば、現状において選手は「ステークホルダー」とは見なされておらず、悪い言い方をしてしまえば、ただの「駒」でしかない、ということになりますね。
はい。有森裕子さんが、先の投稿で、単に「発信することが大切」と言わずに、「発信出来る事」を並べて大切だと語ったことの含意は、ここにあるんだと思うんです。つまり、有森さんは選手が「ステークホルダーとして声をあげることができる状況」を求めているように思うんですね。で、あればこそ、池江選手になんらかの発信を求めたのだと思いますが、それはとりもなおさず、そうやって声を上げていくことでしか、「ステークホルダー」としての位置を獲得することができないと考えているからなのではないかと思うんです。
──池江選手のコメントについては、「決まったことに従うだけなら、誰の、何のための五輪なのかいよいよわからなくなってしまう」といった投稿も見かけましたが、本当だなと思いました。選手がただの駒でしかないなら、何のためにオリンピックがあるのか、さっぱりわからなくなってしまいます。
これについて、ひとつの大きな落とし穴になっているのは「アスリート・ファースト」ということばなのかもしれません。
──そうですか。
「アスリート・ファースト」って、それこそ「レディーズ・ファースト」みたいなこととして理解されている可能性があるなと思ったのですが、「アスリート・ファースト」は、「マナーとしてアスリートを先に通してあげる」といったことを言っているわけではないはずなんですね。というのも、「レディーズ・ファースト」の場合は、たしかに女性が先にドアを通るわけですが、「誰を先に通すかという決定権」は相変わらず男性の側にあるわけですよね。「アスリート・ファースト」ということばが問題にしようとしているのは、まさにそのことなんだと思うんです。つまり、「お膳立てはどこの誰だか知らないおじさま方が全部してくれて、そのなかで気持ちよく競技ができればそれでいい」ということではなく、「そもそものお膳立てについての決定権をアスリートが持てるようにする」ことを求めるのが「アスリート・ファースト」ということばの本意のはずなのですが、どうもそうした本来の主旨が空洞化させられているように思えます。
──要は「主権」を誰がもつのか、ということですね。
はい。ここで唐突にまたスモールビジネスの話に戻るのですが、スモールビジネスのいいところは、何においても、その「主権性」を存分に味わえるところなのだと思うんです。
──オーナーシップっていうことですよね。
そうなんです。池江選手の「私は何も変えることができない」ということばと、それに寄せられた賛同・同情のコメントを見ていてツラくなるのは、それが極めてサラリーマン的な日常に重ね合わせられるかたちで表出されているところなんですね。実際、「池江選手に五輪を辞退しろというのは、会社員にコロナで満員電車に乗りたくないから会社には行かない、と言うようなものだ」といったようにあからさまに会社員の日常に重ねたコメントも散見されるのですが、自分の人生を自分の手で操縦するということの可能性が、そうやって放棄されているのをたくさん見るにつけ、人の幸不幸はあずかり知らぬこととはいえ、おそるべき虚無だなと感じずにはいられません。
──「働くことの人類学」というポッドキャストのなかで、アフリカのカラハリ砂漠のブッシュマンを研究されている丸山淳子先生が、「嫌になったらやめられる自由」というお話をされていて、そのことに非常に大きな感銘を受けたのですが、そこで先生は、たしか、嫌になったときにやめるということができないと、『なんのために働くのか』という問いに対する答えが必要になって、「お金のために」とか「家族のために」と言ったことが、ある種のオブセッションのようにのしかかってきてしまう、とおっしゃっていました。いまのお話を聞くと、よくよく考えれば「辞める」という選択肢があるはずなのに、それが「ない」と思い込んでしまっている人が多いのだろうと思ってしまいます。
企業に所属していないと生きていけないと多くの人が感じているということなのだと思うのですが、これについては、わたしたちのなかで大きく印象に残っている話がありまして、あるとき、とあるアルメニア人の起業家に、こんなことを言われたんです。
──はあ。
「経済というものの主要なドライバーは、かつては国だった。つまり『ガバメント・エコノミー』だ。それが第二次世界大戦に、今度は主要なドライバーが企業へと移行する。『コーポレート・エコノミー』の時代だ。ガバメント・エコノミーがコーポレート・エコノミーに変わったことで経済の規模は飛躍的に伸びた。だがコーポレート・エコノミーも未来永劫続くわけではない。そのあとに来るのは、市民が経済のドライバーになる『シビック・エコノミー』だ。市民主導の経済というと一般には、低成長で定常的な経済モデルを想像するかもしれないが、必ずしもそうとばかりは言えないと自分は思っている。ガバメント経済がコーポレート経済に移行したことで、飛躍的に経済規模が大きくなったように、コーポレート経済が市民経済に移行することで、経済規模がさらに大きくなることはありえると思う。自分はそう信じているね」
と、まあ、ざっとこんな感じなのですが。
──面白いですね。資本主義のあとに来るのは、欲をかかないで、身の丈にあった生き方を選んでいくような定常経済のイメージしかもてずにいましたが、違う、と。
そうなんです。アフターインターネットの世界では、先にお話した経済や社会の「主権」が、企業から個人へと移っていくといったことはずっと言われていて、それこそいまから10年近く前に「メーカーズ・ムーブメント」なんていうものがありました。3Dプリンターが普及すれば工業製品すら企業ではなく個人がつくって販売できるようになる、「新たな産業革命だ」と盛り上がったのですが、現実にはそこまでのことは起きませんでしたし、そうなったとしてどういうふうに経済がまわるのか、あまりイメージもできなかったんですね。ですから、やはり自分も、「個人」への経済主権の移行は、それが起きたとしても、定常的なものなのかなとぼんやり思っていたんです。ところが、そのアルメニア人起業家は、小さな個人がネットワーク化されて、みんながビジネスをできるようになれば、経済規模はコーポレート経済よりもさらに大きくなるというので、まずは非常に驚いたのですが、それを「お花畑」と一蹴する気もしなかったんです。
──そうですか。
むしろ、「そういうふうに未来を信じることができるのか」と思っちゃったんですよね。というのもそっちのほうが意外性があって面白いですし、そうはならないと言い切れる根拠があったとしても、それは、あくまでもいまの経済の回り方で想像しているからだとも思うんです。
──ふむ。
たしか前々回の最後に、田中絵里菜さんが書かれた『K-POPはなぜ世界を熱くするのか』という本を紹介したのですが、この本に書かれていることになぜ自分が衝撃を受けたかと言いますと、K-POPファンの動きが、まさに、アルメニア人起業家の方が言ったような「シビック・エコノミー」のひとつの大規模の例なのかもしれないと思ったからなんです。
──ん。どういうことですか。
自分もK-POPがそんなことになっているのを恥ずかしながらまったく知らなかったのですが、K-POPファンの間では、例えば自分の“推し”のアイドルの誕生日など記念日に広告を出すという文化が、2017年を契機にして劇的に広まったそうなのです。その広告というのも最初は韓国国内の駅の広告だったのが、いまではニューヨークのタイムズスクエアにまで進出しているそうで、田中さんによれば「そのタイムズスクエアですらK-POPファンにとってお決まりの広告スポットになってきている」そうです。ちなみに広告費は、1週間で3,000万円相当だそうです。
──すごいすね。
続けて引用しますね。
「EXOのメンバー・セフンの中国ファン連合は25歳の誕生日をお祝いして2018年に、ドバイのブルジュ・ハリファ、上海のグローバルハーバー、バンコクのスワンナブーム国際空港をはじめとして世界25か国の地下鉄、バス、カフェ、映画館、空港に広告を出し、誕生日当日のニューヨーク・タイムズ紙にお祝いの全面広告を掲載した(これだけでも約2400万円)。2019年の誕生日にはさらにTWay航空の機体から機内テーブルまでセフンの写真でラッピングし、飛行機一機をまるごとジャックした初のK-POPアイドルとして話題になった」
──どひゃー、凄まじいですね。
広告というものは、これまでは明らかに「コーポレート・エコノミー」をドライブするためのツールで、広告業界がここまで大きくなったのはコーポレートをクライアントとしてからだったわけですが、その空間が、いまや「市民」にジャックされつつあるというわけです。先に挙げたようなものと同等のキャンペーンを仮にレコード会社が世界25カ国で実施しようと思ってもおそらく無理だろうことを思うと、企業はすでに広告という領域における「主権」を、完全に市民・ユーザー・カスタマーに明け渡してしまっていると言えそうです。ちなみに、こうした広告で使用される画像や映像は、これも主にファンが撮影したものだそうで、これは著作権法上、かなり問題があるのですが、企業側にとってのメリットも少なくありませんから現状は黙認するしか手立てがないとされています。
──なるほど。そうなってくると、アイドルは事務所やレコード会社の資産であるというよりは、ファンとの共有財産のようなものになってくるわけですよね。それはつまるところ、必然的にファンを「ステークホルダー」とみなさざるを得なくなっていくということでもありますね。
そうなんです。面白いのは、このK-POPの事例が、かのアルメニア人起業家が「シビック・エコノミー」と言ったとき、あるいは「メーカーズ・ムーブメント」などが叫ばれたときにおそらく想像されていたものとはまったく違う、想定外のものだということだと思います。先ほどから「主権性」ということを言っていますが、ここで起きていることは、ビジネスの主権が、ステークホルダーたちの真ん中に置かれているような格好になっている、もしくはビジネスの事業主体をハブのようなものとして、そこをステークホルダーたちがある意味ランダムに入り混じるようなかたちになって、主権性がどこか特定の場所に帰属しているのではなく、「主権性」そのものが融解してしまっているところなのかもしれません。しかもK-POPの場合は、国というステークホルダーも、そこに関与していますから「誰が真のドライバーなのか」という問いが失効してしまうほどに、「主体」が融解してしまっているんですね。
──よい言い方をするなら、みんなでビジネスがつくられていくという感じですかね。みんなが主権をもって、みんなが主体になってしまうと言いますか。
そうですね。ここでは明らかに「提供者/消費者」の区分けが壊れているわけでして、そうやってビジネスの主客のようなものが不分明なところで形成されていく経済が生まれているのだとすると、それを果たしてビジネス理論や経済理論によってどう説明しうるのかは、ぜひビジネススクールあたりで真剣に検討していただきたいところです。
──ほんとですね。
ちなみに、ちょっと前に、中国の音楽ストリーミングサービスのUXを解説した非常に面白い英文の記事をいくつか読んだのですが、ここやここ、ここやここでも書かれているのは共通して、「西洋のストリーミングアプリはもっと中国のサービスのUXを学ぶべき」ということだったのですが、ここでキーワードになっているのは「ファンダム」ということばでして、かつての「消費者」と呼ばれていた存在を、それが置き換えていくとされています。
──これまでのように企業がコントロールし管理することできた「消費者」ではなく、「ファン」がビジネスの基盤になるということですね。
はい。なかでも「音楽産業の5つの次なるドライバー」(The Music Industry’s Next Five Growth Drivers)という記事は、タイトルの通り、今後の音楽産業を加速させる5つの要素を挙げていますが、これは必ずしも音楽業界に限った話ではなく、今後あらゆるビジネスにおいて重視されていくことではないかと思いますので挙げておきます。
「1. コンテクスト化された体験/2. クリエイターのためのツール/3. バーチャルイベント/4. ファンダム/5. ソーシャル」
──ふむ。
ここで重要なのは、「ファンダム」を従来の「消費者」がそのままスライドしたものと理解してはいけないということなんだと思います。
──どこかが決定的に違うんでしょうか。
先のEXOの事例でもあった通り、もはや「ファンダム」は「ただ売られている商品を買う」だけの存在ではなく、事業者が担っていたはずの「広報」「宣伝」といった業務をいわば勝手に遂行し始めていることからもわかる通り、事業主体の外側で、自発的に経済圏をつくり出してしまっている点だろうと思います。つまり「ファン」が勝手にサードパーティのサプライヤーみたいなことになっているような図式で、従来であれば、そこで発生したコストや収益は、すべて事業者の管理下にあったのが、そこからはみ出して、事業の外側にオーガニックな「事業圏」とでも呼ぶべきエコシステムが自生的に生まれていってしまうわけです。これは、これまでの考え方であれば、頭を抱えてしまうような事態ですが、K-POPではそれがなぜかすくすくと育ってしまい、それはいまや中国や日本にも伝播しています。
──わけがわからないですね。
そうなんです。こうしたことを踏まえていま一度「スモールビジネス」という本題に無理やり戻ってみますと、いまお話したような「ファンダム・モデル」は必ずしも新しいものではなく、実はずっとあったもので、それこそがもしかしたら「スモールビジネス」というものの本質だったのかもしれない、と思えなくもないような気がしてきます。というのも、「スモールビジネス」というものは、もとから、エンゲージメントの深い数十人〜数百人のお客さんで成り立つような一種の「ファンダム・ビジネス」であったわけですから。
──おお。面白い。
実際、冒頭でお話したような「チャレンジャー・ブランド」の多くは、おそらく、そういうものなんですよね。「コンテクスト化された体験」があって、ソーシャルなファンダム・ビジネスなんですよね。
──シビック・エコノミーというものがあるとしたら、それはスモールビジネス/ファンダムビジネスが大きく拡張していった先にある何かなのかもしれないということですよね。しかも、それは、現在のコーポレート経済を凌駕する規模のものになる、と。
そこまでは、まだわかりませんが、何かしらその萌芽が見えつつあるのかもしれないという気が少ししています。ちょっと今日は遠回りをしてしまい特集記事を読み解くところまで行きませんでしたが、スモールビジネスが、なぜこれからの経済において重要なものなのかは、次回にもう少し踏み込んで考えられたらと思います。
──オリンピックなんていうものも、それを自分たちでわざわざ「ムーブメント」と呼んでいたりするわけですから、本来であれば、事業者とファンとが一体になったK-POPの経済運動に倣って、一般市民を含めたステークホルダーたちをエンゲージさせていきながら機運を高めていくような戦術が必要だったのかもしれませんね。
とはいえ、正直、K-POPの戦術が、音楽/アイドル以外のプロダクトにおいてどこまで有効なのかは未知数ですし、どこまでモデル化できるものなのかはわかりませんが、いずれにせよ、コーポレート主導のやり方はもうすでに限界で、そのあとに来るのが、本当に市民主導の経済であるなら、オリンピックもそうした方向に舵取りすべきなのかもしれません。
──オリンピックは、それこそナチスのオリンピックに代表される国家主導だったものが、1984年のロサンゼルス大会を契機にコーポレート主導に移行したわけですから、先のアルメニア人の方の話の流れに沿っていますよね。
そうなんですよね。そういう意味では、今回のオリンピックは、この先どうなれ、大きな転機を象徴的に表しているのは間違いないと思います。
──池江選手が、やがて葬り去られる旧時代の象徴的存在なのだとすると、それはとても残念なことではありますね。
有森さんは、きっとそのことを危惧して苦言を呈されたのかもしれませんね。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。本連載をまとめた書籍「週刊だえん問答 コロナの迷宮」もぜひチェックを。
✏️ このニュースレターの続きとなる後編は、来週日曜5月16日に配信する予定です。
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