A Guide to Guides
週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzが取り上げている「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが「架空対談」形式で解題する週末ニュースレター。「ゾンビチューン」も含む、本稿のためのプレイリスト(Apple Music)もご一緒にどうぞ。
Zombies: A crash course
ゾンビの社会学
──こんちは。
はい。ご苦労さまです。
──今週の〈Weekly Obsession〉のお題は、なんと「ゾンビ」なんですよ。
2週間前にゾンビについて語ったばかりですので(#75 ゾンビと現金)、困っちゃいますね。もうあまり語ることもないと言えばないのですが。
──とはいえ、US版Quartz編集部の興味と、完全にシンクロしちゃった感じありますね。
そうですね。ハロウィーンが間近だったということで、このお題が選ばれたのかもしれませんが、やっぱりUS編集部もゾンビは気になるんですね。
──どうしてここに来てゾンビがこんなに気になるんですかね。
ひとつ大きいのは、「ゾンビ化」という現象が感染症/パンデミックでもあるという点かもしれませんね。
──唾液による感染ということになるわけですよね。
アメリカのパンデミック対策を取り仕切ったCDC(アメリカ疾病予防管理センター)は、ゾンビ好きを自認していまして、そのウェブサイトを見ると、「ゾンビ・アポカリプスに備える」というタイトルで、「ゾンビ襲来」における準備と心構えを啓蒙する記事を掲載しています。これは、半分はゾンビをネタにした、災害やパンデミック時における危機管理啓蒙を旨としたものですが、ゾンビ対策は、災害時などにおける防災対策としても汎用性があるということでもあるのだと思います。
──半分お遊びだけれども、半分は本気、と。
ゾンビ対策として彼らが謳っているのは、以下のようなことです。
ゾンビやハリケーンやパンデミックのようなものが襲ってくる前にやっておくべきことはなんでしょう? まずは防災キットを家に準備しておくことです。避難所やシェルターにたどりつく前の、最初の数日を乗り切るための水、食料やその他の物資が必要となります。下記がそのリストとなります(完全なリストはCDCの別ページをご覧ください)。
– 水(ひとり当たり1日1ガロン=3.785リットル)
– 食料(腐らない食料をストックしておく)
– 医薬品(処方薬、非処方薬の両方)
– 道具・サプライ(万能ナイフ、ダクトテープ、電池式ラジオ etc.)
– 衛生・消毒用品(漂白剤、石鹸、タオル etc.)
– 衣料・寝具(家族全員分の着替えと毛布・ブランケット)
– 重要書類(運転免許証、パスポートといったID類など)
– 応急手当用品(ゾンビに噛まれたら一巻の終わりだが、災害時における切り傷、裂傷の手当には役立つ)
──なるほど。ゾンビ映画を見慣れた人からすると確かにリアルですね。
次にこうです。
防災グッズを用意したら、家族と一緒に防災計画を立てましょう。家の前にゾンビが現れたら、どこに行くか、誰に連絡するかなどを決めておきます。洪水や地震などの緊急事態が発生した場合にも、この計画を実行することができます。
– 自分の住んでいる地域で想定されている緊急事態の種類を確認します。ゾンビ・アポカリプスの他にも、洪水、竜巻、地震などが考えられます。わからない場合は、地元の赤十字に問い合わせてみましょう。
– ゾンビが家に侵入したり、ハリケーンで避難を余儀なくされたりした場合に備えて、家族が再会するための集合場所を決めておきましょう。家の近くの場所のほかに、家に戻れなくなった場合の場所も決めておきます
– 緊急時の連絡先を確認する。警察や消防署、地元のゾンビ対策チームなど、地元の連絡先をリストアップしておく。また、緊急時に家族に自分の無事を知らせるための州外の連絡先も確認しておきましょう。
– 避難経路を計画する。ゾンビは腹を空かせていて、食べ物(人の脳みそ)を手に入れるまで襲ってきます。どこに行くか複数のルートを事前に決めておけば、ゾンビたちにチャンスを与えずに済みます。これは、自然災害が発生したときに、すばやく避難する際にも役立ちます。
──勉強になりますね。
自然災害対策を考えろと言われても、きっとなかなかやる気にならないでしょうけれど、ゾンビ対策を考えておけと言われると、リアルに考えることができそうな気もしてきますよね。ちなみに、このCDCのゾンビキャンペーンは、2011〜12年に行われたものですが、これはおそらく、2010年に放映開始され、いまだ継続しているドラマシリーズ「ウォーキング・デッド」の大ブレークを機にしたものと言えそうで、CDCのサイトにも「『ウォーキング・デッド』に学ぶゾンビ対策」というコラムが掲載されています。
──なるほど。
映画『ワールド・ウォーZ』の原作者、マックス・ブルックスの著書『ゾンビサバイバルガイド』は、原著は2003年の刊行ですが、日本語版は2013年に出ていますので、現在の「ゾンビルネッサンス」のひとつの大きなきっかけとして「ウォーキング・デッド」はやはり大きいのだと思います。
──ゾンビルネッサンス(笑)。
アメリカのポップカルチャー評論家のチャック・クロスターマンは、2010年に『The New York Times』にゾンビに関するコラムを書いていますが、これも「ウォーキング・デッド」の人気に触れるところから始まっています。
──クロスターマンはヘビメタに関する著作でも有名ですよね。
はい。デビュー作が、ノースダコタの田舎町の少年とヘビメタの出会いを描いた自伝的ノンフィクション『Fargo Rock City: A Heavy Metal Odyssey in Rural Nörth Daköta』です。彼は1972年生まれで自分と世代も近いので世代的共感もありますし、書く内容も面白いのでめちゃリスペクトしていますが、彼が2010年に書いたこのゾンビ論も非常に優れていまして、ここで書かれていることが、おそらく現代のゾンビ論においては基盤になるものではないかと思います。
──へえ。そうですか。
ゾンビに関するコラムや記事は、今回のQuartzの小特集でも多く紹介されていますが、例えば『Vox』の「ゾンビはいかにしてアメリカの恐怖を表象しているか:ハイチからウォーキングデッドまで、ゾンビの社会政治史」(How the zombie represents America’s deepest fears:A sociopolitical history of zombies, from Haiti to The Walking Dead)という記事は、ハイチ生まれのゾンビが、いかにしてアメリカ社会の無意識的な恐怖を表象してきたかを丹念に整理していますが、それによれば、アメリカゾンビ史は、こう区分されるとしています。以下、わたしの方でざっくりとまとめてみました。
1. 野蛮人ゾンビ:非文明・野蛮への恐怖の象徴として
1915年にアメリカがハイチを接収。入植したアメリカ人ウィリアム・シーブルックがゾンビと邂逅。1929年刊行の回想録『The Magic Island』に記載、その本を元ネタとした初のゾンビ映画『White Zombie』が1932年に公開。西洋文明を脅かす非文明・野蛮の象徴としてゾンビ/ヴードゥー/黒人が描かれる。
2. アトミックゾンビ:核による世界の終末と共産主義化の恐怖の象徴として
第二次大戦中にゾンビと国際諜報・謀略が融合。1941年の『King of the Zombies』はゾンビを操る諜報員が登場、1943年の『Revenge of the Zombies』ではナチスによるゾンビ兵器の使用が描かれる。1955年の『Creature With the Atom Brain』はナチスの残党による放射能を用いたゾンビ開発が描かれ、1960年の『Teenage Zombies』ではガス兵器によってアメリカ国民のゾンビ化を目論む「東側」の科学者が登場。
3. 宇宙ゾンビ:冷戦期の米ソの宇宙開発競争がもたらす恐怖や不安の象徴として
1952年の『Zombies of the Stratosphere』、1959年の『Plan 9 From Outer Space』、1960年の『The Earth Dies Screaming』では、宇宙から来たエイリアンが人類のゾンビ化を目論んだり、ゾンビを用いて人類を殲滅させようとするといったプロットが描かれる。
4. アポカリプスゾンビ:公民権運動やベトナム戦争の社会不安の象徴として
ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』がもたらした革命的転回により、ゾンビは人種問題や階級格差、消費資本主義などをめぐる社会問題を批評する存在として扱われるようになる。現代ゾンビの原型。
5. パンデミックゾンビ:集団感染の恐怖の象徴して
1976年にエボラ熱、1980年代におけるエイズ、90年代における鳥インフルエンザといった感染症に対する恐怖・不安を下敷きとして『Resident Evil』(バイオハザード)シリーズや『28 Days After』などがつくられる。2011年のCDCのゾンビキャンペーンもこの文脈のなかにある。
6. ポストアポカリプスゾンビ:隣人への恐怖の象徴として
2013年にカンザスシティで「カンザス・アンチゾンビ・ミリシア」という自警団が発足。マッチョな自由主義、政府の不介入、銃に自主防衛によって特徴付けられるキャラクターが「ウォーキング・デッド」に頻出。隣人に対するゼノフォビア、グローバリゼーションの対抗策としての壁の建設など、トランプ/オルタナ右翼的なテーマが見て取れるようになる。
──なるほど。面白いゾンビ進化史ですね。
はい。ゾンビが社会不安の表象として時代ごとに進化してきたというのはおそらくそうでしょうし、そもそもホラー映画というジャンルが、時代時代の「恐怖」を扱ってきたことを思えば、それも当然と言えそうですが、先のクロスターマンのコラムに戻りますと、彼は、21世紀以降のゾンビブームは、必ずしもこうした社会的な不安に基づくものではないとしています。
──そうなんですね。
ちなみにですが、一応お伝えしておきますと、アメリカで制作されたゾンビ映画は、21世紀に入って劇的に増えていまして、80年代には69本、90年代は46本だったのが、00年代には172本、10年代には176本とされています。ですから、ゾンビルネッサンスというのは実数においてそうなんですね。
──そんなに増えてるんですね。
はい。で、クロスターマンは、そのルネッサンスの要因をこう分析しています。
モンスターを批評的に解説する際、モンスターを自分たちが恐れるものの表象として理解しようとする傾向がある。フランケンシュタインは、科学の暴走への不安を表し、ゴジラは原子力時代への不安から生まれ、狼男は人間が自然から分断されていることへの本能的なパニックに根ざしている。吸血鬼とゾンビには感染症への恐怖が埋め込まれている。ゾンビと狂犬病(あるいはゾンビと消費社会)に象徴的な関係性を見出すことはたやすいし、吸血鬼とエイズ(あるいは吸血鬼と純粋さの喪失)の間に象徴的関係を見出すのも同様だ。製作側からすれば、こうした恐怖こそ物語の要であり、それによってただのクリーチャーは、まさに概念となる。
しかし、もしも観客がまったく別のメタファーを想像していたらどうだろう。現代人が無意識の恐怖の描写には興味がなく、日々の生活における感覚に根ざした寓話に惹かれているとしたらどうだろう。その観点から見ると、「ウォーキング・デッド」の第1話をこれほど多くの人が観た理由も説明がつく。彼らは、自分たちがそれに共感できることを知っていたのだ。
現代生活は、まさにゾンビ殺しのようなものなのだ。ゾンビ殺しについて誰もが理解していることは、それが簡単だということだ。至近距離から(できればショットガンで)脳を撃ち抜く。これがステップ1だ。ステップ2はその場にいるほかのゾンビにも同じ仕打ちを加えることで、ステップ3はステップ2と同様、ステップ4もステップ3とまったく変わらない。とにかく(a)自分が死ぬか、(b)すべてのゾンビがいなくなるまで、このプロセスを繰り返す。これこそがゾンビに対処するただひとつの戦略なのだ。
対ゾンビ戦争は消耗戦だ。それは常に数字のゲームであり、複雑であるよりも反復的だ。言い換えれば、ゾンビ退治は、月曜の朝に400通の仕事のメールを読んで削除することやひたすら書類を処理すること、あるいは義務的にTwitterのゴシップをフォローすること、つまり量の多さに飲み込まれることだけが唯一のリスクであるような些細な仕事を繰り返すことに哲学的には似ている。ゾンビの襲来の最悪なところは、ゾンビが延々と襲いかかり続けてくることで、生き延びようとする側から見てそれが最悪なのは、何をしようと終わりがないないことだ。そして、インターネットは日々、このことを思い起こさせてくれる。
──ゾンビ自体の象徴性よりも、クロスターマンは、どちらかというと、それを殺す行為の際限なさに着目したわけですね。
クロスターマンはさらにこう書きます。
食い尽くされてしまうこと。これこそがいまのわたしたちの集合的な恐怖だ。ゾンビは、インターネットやメディアや望んでもいない会話によく似ている。それらは延々と(無思考に)わたしたちに襲いかかり、もしわたしたちが降伏すれば、飲み込まれ食い尽くされてしまう。この戦いは、勝てなくても生き延びることはできる。目の前にあるものを削除し続けることで限り、なんとか生き延びることができる。わたしたちは明日またゾンビを殺すために今日を生きている。そうやって当面は人間であり続けることができる。わたしたちの敵は容赦なく巨大で、創造性がなく、愚鈍だ。
──それこそ、前々回で「疲労社会」というものとゾンビという話がありましたが、それとも重なる感じがしますね。
はい。これはまさに前々回に紹介したドイツ在住の韓国系思想家ビョンチョル・ハンの『疲労社会』が書いていることとも重なりあう部分でして、ハンは『疲労社会』のモチーフとして、序文でプロメテウスの神話を言及し、繰り返し生えてくる肝を大鷲に食べられることをただただ繰り返しているプロメテウスと大鷲との関係が「自己搾取」の関係にあり、それによって「終わることのない疲労に襲われている」のだとしています。ゾンビは敵ではありますが、結局クロスターマンの言うインターネットやメディアに参加し、現状をつくり出しているのがわたしたち自身であるとするなら、まさに自己搾取を延々と続けているということにもなりそうです。
──たしかに。
2006年に『The New York Times』に掲載されたコラムで「ゾンビのマーケット? それは不死なのだ(うぎゃああああ!)」(Market for Zombies? It’s Undead (Aaahhh!))と題されたものがありまして、この時点ですでに、出版業界においてゾンビブームが起きていたことが語られているのですが、このなかでゾンビ小説の大家デイビッド・ウェリントンは、こんなゾッとすることを語っています。
「ゾンビはコンシューマー(消費する者)なんです」。ウェリントンは言う。「食べて食べて食べる。彼らを突き動かしているたったひとつの欲求は、空腹です。空腹の衝動しかないのです」
──怖いですね。自分たちの姿そのものという感じなんですかね。
クロスターマンは先ほど「食い尽くされてしまうこと」への恐怖こそが、わたしたちを苛む集合的恐怖だと語っていますが、これとウェリントンのことばを重ね合わせますと、ゾンビは人を食い尽くしていく「何か」なんですね。そこで思い出すのは、哲学者の木田元さんの『技術の正体』という本なのですが、いま手元に見つからなかったので、うろ覚えで恐縮なのですが、この本のなかでたしかハイデガーを引用しながら、いまの世界はふたつの怪物によって食い尽くされていて、それはもはや人間によって制御することが不可能なものでひたすら自律的・自動的に拡張しているといったことが書かれていたと記憶しています。
──ほほう。そのふたつの怪物とは?
技術と資本主義、とされていたというのがわたしの記憶なのですが、それはもはや制御不可なので、自滅するのを待つしかない、とハイデガーは絶望していたと語られていたはずです。
──ふむ。
わたしたちが何かによって「食い尽くされる」と恐怖を感じるのだとすると、やっぱり自分としては、大きくこのふたつなんじゃないかという気がしてくるんですね。「容赦なく巨大で、創造性がなく愚鈍」「消費する者」「空腹によって動かされる」ということばは、資本主義というシステムや、それによってドライブされ肥大化した技術というものを、言い表しているような気がするんですね。で、人は、そこでは、そのふたつの怪物が自律的に作動するための燃料のようなものでしかないのではないかという気がします。
──とするならゾンビは、その燃料である人も含めたシステムの総体の表象であるということですかね。
自分たちを燃料にしながら自分たちを食い尽くしていくシステムを保持しているという感じなんじゃないんですかね。それこそビョンチョル・ハン言うところの「自己搾取」ということですが、ビョンチョル・ハンは、「疲労社会」というものを駆動させているドライバーは「生産性の最大化するための努力」だとしていますから、この自己搾取の構造をもたらしているのが経済の要請に基づくものだと言えるのではないかと思います。
──それこそ、ゾンビがハイチのプランテーションにおける奴隷労働に起源があることから、ゾンビはその起源において資本主義と関わりがあって、ゾンビは資本主義の進化とともに姿を変えているのだといったことは、この連載でも何度か指摘されてきたことですが、「ゾンビ=食い尽くすもの=空腹」という定義でいけば、際限なく拡張し、資源を搾取していく資本主義というものをよく表していると感じます。
そこにおけるゾンビは、システムそのものとも言えますし、そこに否応なく参加させられ、自分の身をそこに差し出し自らゾンビ化していく人であったり、日々ゾンビを撃ち殺すことでなんとか人間として生存を続けている人をも表しているようにも感じます。そう考えると、自分はゾンビなのかそうでないのかがよくわからないのが現状だとも思えてくるのですが、ゾンビ映画は、ゾンビと非ゾンビとがわかりやすく対置されているので心安らかに見ることができるというところはありますよね。
──面白いのは、ゾンビは撃ち殺すべき相手ではあるにも関わらず、憎悪したり明確に「敵」とみなす対象ではないところですよね。なんならさっきまで知り合いだった人がゾンビになっちゃったりするわけですから、ある意味では共感すべき対象だったりするわけですし。
そのあたり、本当に複雑ですよね。生存のためには撃ち殺すしかないわけですが、相手は敵対する「悪」ではないんですね。かつ、撃ち殺す側はただ生存のために撃ち殺すだけなので、そこには取り立てて「正義」と呼ぶべきものもないんですね。ただの条件反射と言いますか、習慣でしかない、という。そこはとてもいまっぽいところではありますよね。
──そうなんですよね。今日は話をお伺いしながら、それこそソーシャルメディア上でのクソリプ合戦などをずっと思い浮かべていたのですが、うまく言えないのですが、かなりゾンビ退治に近いものだと感じます。
わかる気はします。相手陣営をそれこそ条件反射で食いかかってくる愚鈍なゾンビと見て、相手の脳に散弾をぶち込もうと撃ちまくるわけですが、どちらかというとそれを正当化するために「正義」みたいなものが持ち出されるという感じはしますよね。そして撃てば撃つほどに自分の「正義」に固執せざるをえなくなっていくのだとは思いますが、でも、ゾンビ退治は、善悪といったこととは本質的には関係がないんですよね。
──ゲームと一緒ですよね。ゾンビが襲ってくるゲームにおいては、撃つか死ぬかの二択しかなく、そこで「なぜ撃つのか」という問いは意味をなさないですもんね。
21世紀に入ってからのゾンビルネッサンスの要因としては、やっぱりゲームというものが果たした役割は大きいと思うんですね。わたしは本当にゲームの世界は疎いのであまり迂闊なことは言えないのですが、ゲーム内においては、なぜそこにゾンビがいるのか、とか、なぜそいつを殺さなきゃいけないのか、という問いに対しては「そういうゲームだから」という答えしかないのが、ゲームというものだと思うんです。そこでは因果というものが放棄されている部分があっても、別に気にしないと言いますか、そこで止まってたらゲームオーバーになってしまいますので、そこに引っかかっていないでとにかく行動を進めないといけないわけですよね。
──たしかに。
ついこないだ、「ポケモン」映画を初めて観る機会があったのですが、作品の途中でポケモン同士のバトルシーンがあって、それがほとんどストーリーの流れと関係がないように思えたのですが、普通に観ている分には特にそこは気にならないらしいんですね。ポケモン同士が戦うゲームとして始まっている以上、「ポケモン」はポケモン同士がバトルするものであって、そこに「なんで?」はないんですね、というめちゃ基礎的なことを、この年で初めて知ったのですが(笑)。ただ、それを映画やテレビ番組といったストーリーで駆動される表現形式に移行させるとなると、そこにはある程度の因果が必要になってきますから、バトルを正当化するために善悪といった要素が必要となってくるということになってるんですね。
──ああ、なるほど。そうかもしれません。
それこそソーシャルメディア上で、小室圭さんと眞子さんの結婚に関する話題が出回っていますが、Twitterでさまざまな人のコメントを見ていると、まさに同じことをやっている感じがするんです。自分が見たかぎりの範囲での個人的感想ですが、コメントの多くは特に言いたいことがあるわけでもないようにしか思えなくて、何かを言うというゲームに参加するために、何か言うべきことをみんなが必死でこさえているという感じがとても濃厚です。かつ、ある記事についたコメントのいいね数やリツート数を見ても、ほとんどがゼロで、一生懸命コメントを捻り出しているわりにはほとんどが誰からもなんの反応も得られていないのを見るにつけ、自分で自分を必死に搾取している感じがものすごくするんですね。
──そんなに無理してコメントすることないだろうってことですよね。
もちろんかねてより皇室の行方については一家言あるという方もおられるとは思うのですが、ソーシャルメディアに乗っかった瞬間に、何かをいうゲームに参加するために、何か言うべきことを探した感じになってしまうんですよね。
──にしても、眞子さん問題は、なんだかもうめちゃくちゃでしたね。ふたりを餌食にしてやろうとゾンビの大群が群がるような感じさえしました。
それこそメディアの問題から、ジェンダーに関わる問題から、21世紀における皇室をどう考えるのか、といったさまざまな角度から分析が出ていると思いますが、ターゲットのふたり(もしくは小室母を入れて3人)を食い尽くしてやろうと大量に群がった人たちがゾンビであったなら、そのゾンビたちがいったい何に飢えていたのか、社会のどういう不安を体現していたのかという点が自分としては興味あります。
──なんなんでしょうね。
よくわからないんですが、少なくとも重要なことは、そこに参加した人たちは、どんな意見の人であれ、おそらく自分はゾンビ退治をしていると思っていたであろうことで、そうだとするとある意味で、皇室そのものが一種のゾンビとみなされていた可能性もあるのかな、などと思ってしまします。
──めちゃ不敬なこと言ってますが。
とはいえ、「国の象徴」というわかったようなわからないような抽象的「機能」だけを負った、特権的ではありながらも、国民としての基本的な権利ももたされていないという意味では極めて抑圧された家族のメンバーが、民主主義国家、法治国家において正しく「人間」なのかという問題はあるわけでして、昨年ある政治家の「天皇は法律的には日本国民ではない」というコメントが端的に言い表していたように、皇室は法的には「無国籍」であったりするんですよね。法的に国民としては存在していないのであれば、法的には生も死も定義できない存在となってしまいますよね。
──ゾンビだ。
そうなのだとすれば、少なくとも眞子さんは人間へと回復することを望んだということになりそうですが、もしかすると、世の少なからぬ人が、自分だけゾンビから人間になろうとしたことが癪に触ったのかもしれないとも言えそうです。
──皇室をもっとちゃんと管理しろとか、躾がなってないという声も少なからずあった気がします。
怖いですよね。
──なんなんでしょうね。この問題については、やたらと上から目線で「躾」を語る感じが強く見られましたし、言い方が、あからさまに犬猫か、あるいは召使いか奴隷にでも言うようなものもありました。
ゾンビというのは、人をいったん死んだことにして人格を奪った状態で生き返らせ、IDのない「無国籍者」として無賃労働をさせるところに、その起源があったということを、ここでは再度確認しておくとしましょう。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。本連載の書籍化第2弾『週刊だえん問答第2集 はりぼて王国年代記』のお求めは全国書店のほか、Amazonでも。