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週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzが取り上げている「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが「架空対談」形式で解題する週末ニュースレター。今年最後の配信です。毎週更新している本連載のためのプレイリスト(Apple Music)もご一緒にどうぞ。
At the end of this year
2021年の疲労
──お疲れさまです。2021年も最後の回となりました。
はい。お疲れさまです。
──今年だけで言いますと52回目ということになります。
つい先日、今年一年のベストアルバムを選ぶことをやっていたのですが、選んだものをプレイリストにしたりしていてわかったのは、今年はほんとに疲れてたんだな、ということです。
──そうですか。
明確にダウナーな音楽が多いというわけではないのですが、今年好んで聴いていたものを選んでいくと、それぞれが、自分のなかのことばにならない疲労に対応している感じはします。
──ちなみにベストはなんなんですか。
Parannoul、Asian Glow、sonhos tomam contaという韓国とブラジルの3組のシューゲイザーが協働した『Downfall of the Neon Youth』が、今年は一番よかったかもしれないですね。めちゃくちゃなサウンドの作品なんですが、今年の心理的カオスにはよく合っていたように思います。それでいて、非常にエモいのもいまっぽかったんです。
──世間的に評価されているわけでもなさそうですが。
そうですね。さる知人が、この作品を年間ベストと言っていまして、気が合う人もいるもんだとは思いましたが、まあ、少ないでしょうね。今年の後半は何かと韓国ドラマを観続けていたのですが、その理由がこのアルバムを聴いてわかったような気がしました。
──どういうことでしょう。
あまりうまくは説明できないのですが、自分が観ている限りにおいて、韓国ドラマには通奏低音としてほとんど「格差」という問題が立ち現れてくるように思うのですが、これは、ちょうど昨日、配信されたばかりのSFスリラー「静かなる海」でもそうでしたが、環境として完全に格差が制度化された社会ができあがっていて、かつ、そのなかで政治がある権益・利権を私物化しているという問題が、物語が進むうちに明らかになってきます。こう言うとあまりにも図式的ではあるのですが、こうしたフレームは、それこそ「秘密の森」から「梨泰院クラス」から「ヴィンチェンツォ」から「イカゲーム」、あるいはゾンビを扱った歴史物である「キングダム」のような作品にいたるまで見られるもののように思います。
──とにかく世の中が腐ってる、と。
はい。そして、そういう世の中で、環境に屈服することなく生きることは可能なのか、ということが執拗に問われる、というのが自分の理解する韓国ドラマのフレームでして、自分が韓国ドラマを観るきっかけになったのは「秘密の森」でしたが、ほかの作品を続けざまに観るようになったのは、そのモチーフが何を見ても繰り返し立ち現れてくることに、ある意味驚いたからなんです。
──驚いた?
「なんかどれも同じこと言ってんな」という感じで、観れば観るほど同じモチーフなんですよね。で、韓国がずっとこのモチーフにこだわっていることについて、よほど世の中が辛いのだろうというくらいにしか考えていなかったんですね。格差が拡大するなか、若者は就職難で、政治と財閥とが結託して政治経済を私物化している、といったことはぼんやりとは知っていましたが、とはいえ、名だたるドラマが判を押したように同じモチーフを繰り返すのは、やはり結構特殊な感じもするんですね。
──ふむ。
そこで、今年になってたまたま知人の本棚に『目の眩んだ者たちの国家』という、2014年の「セウォル号事件」に関する本を見つけて、面白そうだと思って買って読んでみましたら、ひとつ大きな謎が解けたという感じがあったんです。
──セウォル号事件は、300人近い高校生が亡くなった海難事故でしたが、救助活動らしきことは行われず、船長船員が先に逃げ出したとか、老朽化した船の安全点検がろくに行われていなかったとか、さまざまな問題があとになって次から次へと発覚して、事故どころか、ほとんど人災と呼ぶべき「事件」だったというふうに認識しています。
はい。『目の眩んだ者たちの国家』は、キム・エラン(『外は夏』)、キム・ヨンス(『世界の果て、彼女』)、パク・ミンギュ(『カステラ』)といった日本でも知られる作家たちがセウォル号の惨事について書いたエッセイを一冊にまとめたもので、本当に読むだけで胸が痛む本なのですが、韓国社会において「セウォル号事件」がもたらしたインパクトを、例えば、キム・エランはこんなふうに書いています。
四月十六日以降、「海」や「旅行」が、「国」や「義務」が、まったく異なる意味に変わってしまった人もいるだろう。当分の間、「沈没」や「溺死」は隠喩や象徴として使うことができないだろう。私たちは私たちが見たものから逃れることができないだろう。(中略)「海」がただの海になり、「船長」がただの船長になるまでに、「信じろ」という言葉が信じるに値する言葉に、「もっともな言葉」が道理にかなった正しい言葉という本来の意味を表すようになるまでに、いったいどれほど多くの時間が必要だろうか。いまは見当もつかない。
──なるほど。
もちろん、これは社会のなかで最も鋭敏な感性をもった人たちの書くことですので、それが社会の実際の肌感覚における総意として言えることなのかはわからないところもありますが、一方で、社会で最も鋭敏な感性が、ここまでの重大事、つまりその前と後とでは、世界のパースペクティブや価値観が変わってしまうほどの断層をつくり出す事件だったとみなしていることは、やはり相当に重たいことなのだろうと思ったんですね。
とはいえ、そういったことをいまさら知ったのも恥ずかしいことなのですが、韓国ドラマを、しかも、セウォル号事件以降につくられた作品ばかりを、短期間で浴びるほどに見たあとでこの本を読みますと、その影響を感じずにはいられなくはなります。あるいは、韓国でゾンビ作品がある種のブームになるのも、事件以降ですから、そこにも暗黙の影響があるようにも思えてきます。
──公開されたばかりの「静かなる海」は、まさに「海」「溺死」がモチーフとなった作品ですが、そう言われると、また違った重みが感じられます。
こういったことをあまりに図式的に言うのは、作品の面白みや作家の意図を恣意的に歪めることにもなりますから、あまりそこを強調することはよくないとも思うのですが、ただ、その一方で、韓国社会がセウォル号の事件において象徴的に目の当たりにすることとなった、政治の崩壊、社会というものへの信頼の崩壊は、必ずしも韓国特有のものではなく、それこそアメリカやブラジルやロシアでも見られる、おそらくは全世界的な事象なのでしょう。
それは日本でも同じように思えるところはありまして、韓国映画やドラマが、物語を発動させるフレームとしている社会像は、ある種の世界性をもっているということも言えるのではないか、と思ったりもします。というのも、例えば、先に引用したキム・エランが、こう書くとき、わたしたちは、それをよその国の話だとは思えなかったりするわけです。
「最善」を尽くすと言うのを聞いた。「最大限」努力するという言葉も。「すべて」を動員するという約束も聞いた。一回や二回ではなく、何回も繰り返し聞いた。もっともらしい言葉は、主に「上」から下りてきた。そこには副詞や形容詞、述語や抽象名詞はたくさん使われていたが、時制は不明で、動詞や主語、固有名詞はほとんどなかった。続いて聞こえてきたのは「責任」という言葉だった。「積弊」という言葉、「厳罰」という言葉も登場した。ところがその言葉を最後まで全部聞いても、いったい誰が何に対してどのように責任を取るというのかわからなかった。
──痛いほどわかります。コロナ対策でもオリンピックをめぐる騒動でも、わたしたちをやたらと疲れさせたのは、まさに、こういう状態に置かれたことですよね。
『目の眩んだ者たちの国家』における作家や評論家の文章から、ものすごくざっくりと総意のようなものを取り出すと、セウォル号の事件の直接的原因の根源にあるのは、新自由主義的な政策ということになりそうでして、それは船舶航行の安全という、本来は行政が担うべき役割を民営化していってしまったことを指しています。
けれども、問題は、それがどうして先のように、政治家のことばを空疎化させたり、あるいは政治家と国民・市民との間にあったはずの信頼を壊していってしまうのか、という点でして、それこそ「聖域なき構造改革」を叫んだ小泉純一郎が、当時から「ワンフレーズポリティクス」と揶揄されたように、新自由主義的な政治理念と、政治の空洞化・空疎化は、ある意味セットで起きてきたのは体感的にはわかるのですが、それがどういうメカニズムで起きるのかはいまひとつよくわかっていなかったんです。
──たしかに。
政治学者の藤井達夫さんの『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』という本は、このあたりの経緯をうまく説明してくれる本でして、いま挙げたような問題を、こんな言い方でフレーミングしています。
政治の機能不全や政治の責務の放棄という現状は、新自由主義による小さな政府化──換言するなら、政治の新自由主義化──だけからの説明では、不十分でもある。新自由主義化した民主主義諸国のいくつかでは、これに加えて別の深刻な事態が進行している。それが政治およびその権力の代表者──選挙によって選出された政治家──による私物化である。
──「政治の私物化」というのは、よく言われることですが、なぜそれが可能になるのかと言われてみると、よくわかりません。
藤井先生はスティーブン・レビツキーとダニエル・ジブラットによる『民主主義の死に方』という本を拠り所に、そうした「私物化」が起きていく経緯を、アメリカに例を取りながら、こう説明しています。
この事態はどのように進行してきたのか。著者たちは、民主的な憲法や法律によって明文化されていないものの、民主主義を守るために不可欠な規範が破棄される中で、その衰退が生じたことを指摘する。つまり、民主主義がうまく機能するには、憲法や裁判者だけでなく、不文律の民主主義の規範が必要なのだが、それがなし崩し的に反故にされることで、いまのアメリカの民主主義がおかしくなったというわけだ。
『民主主義の死に方』では、アメリカの民主主義を支えてきた二つの規範が挙げられている。一つが「相互寛容」、もう一つは「組織的自制心」だ。
前者は、自分たちとは立場を異にする政治家や政党を、殲滅すべき「敵」としてではなく、ともに民主的な政治を担う正当なライバルとして認め、尊重する気構えのことを意味する。(中略)
後者は、政治権力を掌握した政治家や政党がなりふり構わずあらゆる特権を用いてその権力を維持したり、拡大したりすることを控える気構えを意味する。要するに、たとえ可能だとしても、仕組み自体を破壊してしまわぬよう強硬手段に打って出ないということだ。
──なるほど。「相互寛容」と「組織的自制心」の破壊は、この何年もの間見てきた馴染み深いものですね。
藤井先生は、さらにこう続けます。
レビツキーとジブラットによれば、現代の政治権力を私物化する独裁者を誕生させようと思うなら、非常事態宣言の下で憲法を停止し、軍隊によって政党と議会を解散させる必要はもはやない。先に挙げた「相互寛容」と「組織的自制心」という二つの規範を破壊すれば、民主主義の制度はその機能を果たせなくなる。本書の議論に即せば、人権が制約されることなく、また選挙も通常通り行われる中で、政治権力は私物化され、専制政治は行われるのだ。
そして、日本の現状をこう概説します。
政治主導を看板にした政治改革をとおして脈々と続き、第二次安倍政権下において絶頂に至った、民主主義の規範からの逸脱とそれによる民主主義の「柔らかいガードレール」の破壊。これは、国会で繰り返し追及され、世論の批判を受けた森友問題や桜を見る会などにおいてより分かりやすい形で表れているといえる。これらの問題は、専制というにはあまりに陳腐ではある。なぜなら、安倍首相には、そうした意図もさらにはそれをなしうるだけの能力もなかったからだ。しかし、そこで起きていたことは、専制に繋がりうる、紛うことなき代表者により政治の私物化である。
──いや、ほんとに。納得感あります。
さらに、こうした状況を新自由主義がどう後押し、加速したかを、藤井先生は「決断主義」の一般化という問題を指摘します。
──決断主義?
いわゆるトップダウン型の政策決定を是とする考え方です。先生はこう解説します。
新自由主義的政策を推し進める中で、既得権益集団と闘いながら、規制によって固められ錆びついた鉄の檻から人びとを解放するリーダーというイメージ。このイメージを日本のみならず多くの民主主義国の代表者たちは自ら進んでまとうようになる。しかし、それだけではなかった。さらに冷戦終結後、急速に進んだグローバル化によって、代表者たちは先の見通せない状況下での政策決定を迫られることになった。
その一例が「テロとの戦争」であり、直近では新型コロナウイルスのパンデミックである。こうした多くの民主主義国では政治の決断主義が加速する。これまでのルールが通用しない不確実な状況であっても──いや、そうだからこそ──、代表者のトップダウン的決断によってこれまでにない政策を決定・実行できる政治。これがグローバル化した世界で、新自由主義を推進する国々が行き着いた政治のあり様であった。
──うーん。身につまされる話ですね。日本で言いますと、これは自民党政治というよりは、どちらかというと、いわゆる「維新」がじわじわと勢力を広げていることと対応しているような感じがしますね。
はい。ここは、自分としてももう少し理解する必要があるようにも思いますが、そうやって考えて見ますと、安倍元首相というのは、自民党的な政治のありようを象徴していたというよりは、維新的な何か──その「何か」はうまくは言えないのですが──を自民党内に持ち込んだというふうに理解するほうが、なんだか腑に落ちる気もしてきます。
──ふむ。
あるいは、「デジタル庁」的なものの、なんとも言えない腹落ちの悪さは、個人的には、それがなんとはなしに「維新的」なものをまとっているように感じるからで、これはこの間、選挙のたびに、わりと気にしてきたことなのですが、選挙公約において「デジタル化」を前面に出すのは、自分の観測範囲では維新の党員であることが多く、あるいは、自治体の首長で「デジタル」とか「イノベーション」といったことウリにしようという人たちは、だいたいのノリが維新的なんですね。
──なんか、わかる気がします。日本のスタートアップ界隈の雰囲気も、新自由主義的というよりは、なんというか「維新的」なんですよね。
その違いを、自分もいまのところ、あまりうまくは言えないのですが、それを「新自由主義的」と呼ぶにはあまりに土着的なものが入り込んでいる感じはしていて、そこには、藤井先生の話を敷衍するのであれば、日本的な「トップダウン型」のモデルが、どうしてもある種の土着性を帯びてしまうことと関係があるのかもしれません。
──革新と土着が変な感じでハイブリッドしている感じはありますね。
つまり、日本において「イノベーション」といったものは、おそらくは維新的なものにどんどん回収されていくことになるような気がしていまして、その集大成として現状想定されているのが、言うまでもなく、2025年に開催が予定されている大阪万博ということになるのではないかと思います。
──ああ、なるほど。そう聞くと、なんだかやたらと気味悪いすね。
岩波書店が刊行する『世界』の、「イベント資本主義」と題された今年6月の特集号には、森裕之さんという立命館大学政策科学部教授が寄せた「大阪の興行的都市政策:堺屋太一と維新政治」という論考が掲載されていまして、維新のそもそもの立ち上げにおいて、堺屋太一が果たした役割をこう概説しています。
「大阪都構想」の背景には、このような一見合理的にみえる根拠の奥に潜む精神性がある。それは一種の歴史的ロマンチシズムではる。この歴史的ロマンチシズムを実現するという原動力が、維新の会の政策を突き動かしてきたといえる。そして、そこに影響を与えてきたのは、経済企画庁長官でもあった作家の堺屋太一である。
堺屋は歴史小説、現代小説、社会評論などさまざまな分野で活躍し、近年は小さな政府、規制緩和、道州制といった新自由主義的な主張を行なってきた。この堺屋が大阪府知事に担ぎ出した人物こそが維新の会の設立者である橋下徹である。
──へえ。そうなんですね。
さらに万博の大阪誘致の決定の経緯が、こんなふうに綴られています。
大阪へ再び万博を誘致するきっかけになったときの様子について、橋本は次のように述べている。
東京五輪の招致活動が盛り上がっていたある日、堺屋さん、松井知事、当時は大阪市長であった僕の三人で、大阪の北浜にある古民家風の寿司屋の二階に集まったときのことです。酒をかっくらって大阪の将来を熱く語り合い、話題が七〇年の万博に及んだとき、ふと、堺屋さんが、こう口火を切ったのです。
「もう一度、大阪で万博をやろう」
そのときの雰囲気を、まるで幕末の池田屋・寺田屋・近江屋での志士たちの会合のように感じちゃったんでしょうかね。松井知事もすっかりその気になって、翌日から二度目の万博実現に向けて動きだしました。
このような堺屋の歴史的ロマンチシズムを体現しながら、大阪での政治行政は展開されてきている。
──うう。ドン引きするくらいの古臭さですね。すごいですね。
ほんとですね。その古臭さは堺屋太一の政策に一貫したものといえるかと思いますが、森先生は、それをこう説明しています。
堺屋がリードしてきた万博や「大阪一〇大名物」に基づく都市政策は、彼自身が命名したように「興行」主義といっていい。そこには集客が見込める催事性だけでなく、経済的にも成り立つべきだという考え方が含まれている。それが単なる「公共事業」のような通常の行政サービスとの違いである。この「興行」主義は、大阪での政治行政の特徴となっている。これが大阪・関西万博そしてカジノ・IRの誘致へとつながっている。
──「興行」とか「催事性」とか、ことばからして、どんよりするくらい古臭くて、これはもうほんとにしんどすぎます。
70年万博の成功を一生の成功体験として生きてきた元官僚のビジョンが、いまから4年後の国際イベントを規定しているという時点で、日本の未来のなさは明らかだという気もしますが、これまでの議論を見ていきますと、新自由主義政策による政治的規範のなし崩し的な崩壊、それを加速させる決断主義を、50年前の成功体験に培われた「興行主義」でパッケージしたのが「維新的なるもの」の正体だということになるのかもしれません。そして、それは必ずしも、維新だけのお家芸というわけではなく、コロナ禍のなか安倍元首相が発動した謎政策の数々からオリンピックへといたる、もやもやするばかりの国家運営に通ずるものであるようにも思えてきます。
──たしかに。しかし、つらいものがありますね。万博では、それこそ前回、前々回にここでも取り上げたメタバース的なものの実装なんかも検討されることにはなるのでしょうけれど、それも堺屋太一流の「興行主義」に回収されるのだとすると、すでにしていまから目も当てられない感じがしてきます。
それこそ今年は、もはや誰も語りさえしませんが「オリンピック・イヤー」だったわけでして、そこにかろうじてなんらかの「レガシー」があったとしたら、それは「昭和的なもの」の終焉を刻んだことにあると、さる知人が言っていたのですが、実はまったくそんなことなく、万博において50年前の亡霊は平気で生き延びていますし、ほかに何も目ぼしいアジェンダをこの先もっていない国としては、万博くらいしか期待をかけるものもないわけです。
──ええ。といって、それほど話題にもなってないと思いますが。
もちろんそうなんですが、堺屋太一的な政治アジェンダのなかでは、それなりに大きなものと目されているということはありそうで、知人でも駆り出されている人もいますが、いい加減こういうものからはみんな手を引いたらいいのにな、と心底思います。
──どうして参加しちゃうんですかね。
もちろんそこに関わっている人たちのなかには誠実でやる気がある人もいるのだろうとは思いますし、そうした人たちが手を組んで、どう足掻いてもしょうもないものにしかならないものを、少しでもよくしようと思うことがあったとして、それが悪いとは思いませんし、そもそも仕事であれば、自己判断でそうしたものに背を向けることも難しいこともあるとも思うのですが、とはいえ、とも思うんですね。
──それ自体が、ただの自己搾取でしかない、ということもありますしね。
まさに、以前ここでも紹介したビョンチョル・ハンの『疲労社会』に描かれていたように、自分で自分の屍肉を食うようなやり方でしか生きられないのが、新自由主義以降の「私物化社会」のありようで、そこから逃げることも逸脱することも困難なのだとすると、誰も責めるわけにはいかないのですが、その環境のなかで、どういうふうに生きていくのかは、来年以降、より重たい課題になっていくような気がします。
──そうですか。
この間、特に今年の後半に顕著だったように思える動きは、「日本は生産性が低い」ということがかなり強く言われ、かつそれを社会全体として許容しはじめていることのように感じます。OECDの統計を引き合いにして、日本は生産性が低い、給与水準も低いと語られることが感覚的に増えているように感じますし、例えば、この間のデフレ経済のスターであった牛丼が値上げを敢行したことを世間も「まあそうだよな」と受け入れているように見えるのは、ある意味健全だとは思ういます。
ただ、「生産性が低い」を語るそうした議論の延長線上には「45歳定年」の議論、つまりは中高年社員のリストラや、新卒入社の激烈化といった話も同時に乗っかってきますので、「生産性を上げる」が「給与を世界並みの水準にまで上げろ」という議論にちゃんとつながる手前で、「できないヤツにはそもそも仕事ないよ」という状況が加速する危惧もあるわけです。『現代ビジネス』には、12月15日付けで、「いよいよ始まった『日本型雇用』の大崩壊」という記事を掲載していますが、これがもたらすのは、ハン・ビョンチョル風にいうなら、「生産性の最大化」を旨とする「能力社会」ということになります。
──そうした能力社会化への圧がより高まると、人はさらに自己搾取する必要に迫られることになるわけですよね。
はい。そうしたなかで、ビョンチョルは、ペーター・ハントケというオーストリアの作家を引きながら、「疲労」というものに希望を見出す道筋を描き出しています。ハントケは、『疲労をめぐる試論』というテキストのなかで、疲労には「人を仲違いさせる疲労」と「人々を和解させるような疲労」があると書いたそうです。
──人を和解させる疲労、というのはいいですね。
ビョンチョル・ハンはこう書いています。
他者と話すことも、他者を眼差すこともできず、人々を仲違いさせてしまう疲労に対して、ハントケは他者と語り合い、眼差しあうことができ、人々を和解させるような疲労を対置する。それは「自我がどんどんと減退していくこと」としての疲労である。この疲労は自我という締め金を緩め、あいだを開く。
さらにハンは、そうした疲労が「創造的刺激」をもたらす、と書きます。
疲労によって私たちに可能となるのは、物事をそのままにさせておく特別な平静(グラッセンハイト)であり、そのままにさせておく無為である。こうした疲労は、あらゆる感覚が衰弱していく状態ではない。むしろ疲労のうちで、特別な視界が開けてくる。だからハントケは、「目が明晰になるような疲労」について語っている。疲労によって、私たちはまったく違った仕方で注意できるようになる。つまり、短時間で素早く[対象を]切り替えていく過剰な注意(ハイパーアテンション)によっては捉えられない、長くゆっくりとしたかたちへと近づくことができるようになる。
──にわかには実感的に理解しにくいですが、疲労を通して、長くゆっくりとしたものに対する明晰さを得るということですかね。
自分も、ハントケが語る、この「疲労」というものがいまひとつ理解できずにはいるのですが、この対話の冒頭に戻りますと、今年のベストアルバムを選んでいて感じたのは、今年聴いて好きだったものは、なんとはなしに「創造的刺激をもたらす疲労」と関わっていそうな気がしたということです。というか、音楽というものがもたらす癒しというものがあるとしたら、それはそもそもが、疲労というものとの関わりにおいてあるのかもしれない、という気すらしたんですね。
──おお。面白い。
さらにこんなことも書かれています。
疲労によって深い友情がもたらされ、私たちは帰属も血縁もない共同体(コミュニティ)について考えられるようになる。(中略)ハントケの疲労は、私という自我の疲労、つまり疲弊した自我の疲労ではない。ハントケの疲労を、彼はむしろ「私たちの疲労」と呼ぶ。
──なんかいいですね。音楽が人を結びつけるやり方を言い表しているようにも感じます。
というのは、ほとんど当てずっぽうで言っている話ですので、与太話として聞いていただきたいところですが、いずれにせよ、今年の年間ベストは、自分としては、2021年の「疲労社会」のサウンドトラックではあったということで、なぜか韓国ドラマにハマっていたこととも、そこと関連していたのだと感じます。もちろん、これは後づけの説明ですが。
──来年はどんな一年になるんでしょうね。
さっぱり予測もつかないですが、これは最近よく感じることですが、それこそ「エコ」や「ダイバーシティ」といった、これまでリベラル陣営のお家芸と考えられてきたような価値観が、どんどん右派や維新的なコンテクストに回収されていくだろうという気はしていまして、例えば、気候変動といった問題が、「災害」というコンテクストから「国土強靭化」といった非常にナショナリスティックで管理主義的な政策に落ちていくといったことが強まっていくように感じます。
──とほほ。先行き暗いですね。
ビョンチョル・ハンは、「目が明晰になるような疲労」について、さらにこんなことを書いています。こいいお守りになることばかと思いますので、最後に引用させてください。
あらゆるかたちはゆっくりしたものである。あらゆるかたちはひとつの回り道である。効率とスピードを重視する経済は、こうしたかたちを消し去ってしまう。
──よくわからないですが、噛み締めておきたい感じはわかります。今年もお疲れさまでした。
こちらこそお世話になりました。
──来年は1月9日に再開でいいですかね。
そのつもりでおります。
──それでは良いお年を。
良いお年を。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。。
꩜ 「だえん問答」は毎週日曜配信。次回は2022年1月9日(日)配信予定です。
📆 年末のニュースレター配信は12/28夜まで。12/29〜1/3は、朝・夜の配信をお休みさせていただく予定です。