A Guide to Guides
週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzが取り上げている「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが「架空対談」形式で解題する週末ニュースレター。毎週更新している本連載のためのプレイリスト(Apple Music)もご一緒にどうぞ。
The evolved MBA
MBAのアリストクラシー
──こんにちは。
お疲れさまです。
──今週は、先週の回の最後にお話の出た中国の女子フリースキーのスター、アイリーン・グー選手が金メダルを勝ち取ったことが、それなりに話題になっていましたね。
日本ではどうなのかは知らないのですが、中国では大変な騒ぎになってソーシャルメディア「Weibo」が一時ダウンしたともいわれていますね。祝福の投稿が殺到して、サーバーが落ちたということらしいですが。
──グー選手を祝福するハッシュタグが1時間で3億回視聴されたとのことですが、その人気は凄まじいものですね。
520機のドローンでグー選手の顔を空に描くというパフォーマンスが海南市で行われたのも映像がアップされていましたが、実施のスピード感に驚いてしまいますね。
──また、試合後の記者会見では、かなりしつこく世界の記者に国籍の問題を問われてもいました。
そうですね。この記者会見の応対は、なかなか見事なもので、「わたしはスポーツを人と人を結びつけるための力(force for unity)として使っている」という主旨のことを強固に主張し、国籍の問題については一切触れないという方針で押し通したわけですが、18歳とは思えない老練さに、正直舌をまきました。しかも、ほとんど感情的になることなく、それでいて機械的になるわけでもないんですよね。
──ほんとですね。
『South China Morning Post』は、記者会見のやりとりの一部をこう紹介しています。
勝利の後、記者がグーに、アメリカ生まれの中国人アスリートとして「(両国を)ハッピーにする」ことの難しさを尋ねると、彼女はこう答えた。
「はっきり言うとですね、わたしは誰かを幸せにしようとは思っていないということなんです。いいですか、わたしは18歳の女の子で、自分なりの最高の人生を送ろうとしているだけなんです」
昨年、中国のサマーキャンプで子どもたちを指導した際に、彼女はこう語っている。「わたしは自分の声を使って、自分自身に関連する分野で、わたしの話に耳を傾けてくれる人たちのために、できる限りポジティブな変化を起こそうとしているんです」。記者会見で彼女はこう続けた。「もしよその誰かが、わたしの意図を勘繰っているのであれば、それはただ、彼らが、わたしのモラルを共有していないためか、良心をもって人と共感することができないだけです」
ちなみに、このあと彼女は、こうも言っています。
「誰かがわたしのことを信じなくてもわたしのことを嫌いでも、それはその人の問題で、その人たち自身の損失です。そういう人はオリンピックに勝つことはできないと思いますよ」
──ものすごい自信ですね。
グー選手の立ち位置は、徹頭徹尾これなんです。上記の引用にあるように、彼女は、国や世界をレペゼンする立場にあるというきっぱりと拒否しているんですね。彼女にとって自分のやっていることは、「自分の声を使って、自分自身に関連する分野で、自分の話に耳を傾けてくれる人たちのために、できる限りポジティブな変化を起こす」ことなんです。
つまり、極端な話、「世界」に変化をもたらそうとは思っていないということです。むしろ、「自分が変化を起せる範囲」を最初から策定し、そのなかでできることをやる、という立場を取っています。なので、自分に共感できない人はいても別に構わないし、そういう人はわたしとは関係がない、という立ち位置なんです。
──ふむ。それはそれで若干の感じの悪さもありますね。
とは思います。また彼女は、なぜ中国代表としてオリンピックに参加したかを問われた際に、中国代表として参加する方が「より大きなインパクトを与えられるから」と答えています。つまり冬季スポーツ後進国である中国の方が、彼女がインスパイアすることのできる若者──なかでも若い女の子をインスパイアしたいと彼女は語っているわけですが──の数は圧倒的に多いと感じているわけですね。
──投資に対するインパクト、という観点から見ているという意味で、彼女には、どこかビジネスマンっぽい感覚がありますよね。
実際そうなんだと思いますよ。スポーツ選手に限らず例えばアーティストなんかもそうだと思いますが、その人たちを「事業主体」とみなす感覚は日本では特に薄いですが、普通に考えてスポーツ選手というのは「スポーツビジネス従事者」なわけですよね。
かつ、スポーツ選手というのは、これまでは国家やテレビに飼われ、囲い込まれるかたちで、その「中立性」が担保されてきたわけですが、これがそうした枠組みから外れたストリートスポーツのようなものになってくると、デジタル空間のなかで自分なりにファンダムを構築して、そのなかで各選手たちが自ら主体となってビジネスをつくっていくようなことが当たり前になってきているわけですね。
──スポーツにおけるクリエイターエコノミーみたいな。
まさにそうだと思います。例えば、昨年の東京オリンピックで話題になったスケートボードのスカイ・ブラウン選手は、自身のYouTubeチャンネルに30万人以上の登録者を抱えていまして、想像するにビジネスの根幹に「ユーチューバー」であることが、もうデフォルトとして置かれているはずなんですね。当然その背後には、クリエイティブとビジネスを担うチームがいて、それが競技を支えるトレーニングチームとインテグレートされているはずでして、つまり、もはや会社といっていいほどのチームがあって、「選手」というものが初めて持続的に存在しうるということになっているんだと思うんですね。
そうだとすれば、選手名というのは、もはや個人の名前ではなくブランド名であって、ビジネスとしては、その名前をどうマネタイズするかというものになるはずで、これはとりわけいまになって始まったことではないとは思いますが、こうした状況は、スポーツの主戦場が、テレビという政治的な空間から離れて、リアルに「数字」が問われるソーシャルメディアに移行していくに連れて、よりシビアに進行しているのではないかと思います。
──ふむ。
そうした環境に若い頃から身を置いてきた若い選手の感覚からすると、「テレビの向こうにいる有象無象にどう好かれるのか」という問いは、ほとんど有効性をもたなくなっているように思うんですね。むしろ、そこでの関心の焦点は必然的に「自分たちのフォロワーにいかにポジティブなメッセージを届けていくか」ということになるわけでして、そこでは、自分のファンでもないヘイターの人生は、ありていに言えば「管轄外」なんだと思うんです。
もちろん、それがいいことなのか悪いことなのかは、議論がありそうですが、ヘイターがあちこちでうろうろしているような環境では、自衛という観点からも、そうした考えをもたざるをえないところもあるでしょう。そもそもソーシャルメディアはそうした排除性、内向性をもったものでもありますので、そんなのダメだと言ったところで、その趨勢が変わることはないはずです。
──エコーチェンバーということですよね。
はい。いずれにしても、何が言いたかったかというと、グー選手の記者会見に見られる思考の方向性というのは、明確にソーシャルネイティブのものと言えるのではないかということです。
彼女は、中国、米国という二大超大国に挟まれて、その間を非常に細心に綱渡りしているわけですが、彼女のアイデンティティのひとつの拠点は、ソーシャルメディアをはじめとするデジタル空間なんだと思うんですね。おそらく彼女にとって、デジタル空間は、同じモラル、良心、共感をもって人が集うことのできる空間で、彼女は、それを自分の支持の拠点だと自明のことと考えていたんだと思うんです。ところが、そこに落とし穴がありまして、彼女は、今週、その落とし穴にハマってもいるんです。
──Instagramについての投稿ですね。
はい。グー選手をめぐるこの騒動については、欧米のメディアも報じていますが、ここではあえて台湾の英字新聞の記事「アイリーン・グーの“マリー・アントワネットの瞬間”」(Eileen Gu has ‘Marie Antoinette moment’)から、経緯を引用してみます。以下のような顛末です。
10代のスキー選手アイリーン・グー(谷愛凌)がバーチャルプライベートネットワーク(VPN)について発言し、欧米と中国のネットユーザーの怒りを買った。欧米ではマリー・アントワネットの「彼らにケーキを食べさせよ」に、中国では金王朝時代の皇帝の言葉になぞらえて報じられている。
18歳の彼女は、2月8日(火)に北京で開催された大会中に金メダルを獲得し、一躍脚光を浴びることになった。サンフランシスコで中国人の母親と身元不明のアメリカ人の父親の間に生まれたグーは、2019年に、生まれ育った土地の代表としてではなく、中国の代表としてオリンピックに参加することを選んで以来、物議を醸す存在となってきた。
4日、グーは開会式で赤い中国チームのユニフォームを着た姿や、さまざまな衣装でカメラに向かってポーズを撮る写真を投稿した。
そこに彼女のフォロワーのひとりがコメントをした。
「なぜあなたはInstagramを使うことができ、本土の何百万人もの中国人はできないのか。なぜあなたは中国国民として特別な扱いを受けているのでしょう。それは不公平です。インターネットの自由がない何百万人もの中国人のために声をあげてください」
そしてグーは、その投稿に即座にコメントをした。
「VPNはApp Storeで誰でも無料でダウンロードできます」
中国のアプリストアには、このようなVPNアプリは存在しないため、グーの発言はすぐに中国と欧米諸国の双方で憤慨と嘲笑の的となった。それらは中国のグレート・ファイアウォールの外で購入する必要があり、利用し続けるには料金がかかる。
2017年、中国政府はAppleに対してApp StoreからVPNを削除するよう強制し、GoogleのPlay Storeに至っては共産主義国において数年にわたりブロックされている。グーの発言に対するもう一つの大きな批判は、中国の工業情報化省(MIIT)が2018年に個人使用の「無許可」VPNを禁止し、国有企業や政府機関だけが使用許可を得られるようになっていることを彼女が理解していない点にある。
──なるほど。まさに、「パンがないならケーキを食べれば?」と言ったとされるマリー・アントワネットを思わせます。
ネットは自由空間であるということを、グー選手がそこまで無邪気に信じていたとは思えませんが、これは図らずも彼女の「特権性」を浮き彫りにした発言として注目されました。そして実際、彼女は極めて特権的な存在でもありまして、彼女が「国家を超えた人びとの連帯」をいくら謳ったところで、それを言える立場を国家が保証しているから言えているだけじゃん、という批判を招くことになってしまいます。
実際、彼女の国籍問題についても、中国政府は二重国籍を認めていないのですが、欧米メディアは、中国政府が、彼女に特例的に二重パスポートを認めているのではないかと勘繰ってもいまして、であればこそなおさら、国籍について厳重に口を噤んでいると見ています。
──それが明らかになれば中国国内からも猛批判が出そうですね。
グー選手の特権性については、『California18』というよくわからないメディアが、彼女のバックグラウンドを含め簡潔に論じていますので、ちょっと見てみましょうか。
アイリーン・グーはアメリカの名門大学であるハーバード大学、プリンストン大学、スタンフォード大学などに通ってきた新しい世代の中国貴族に倣って、両方の世界の良いところを摂取するが、政策的違いは無視する。「米国にいるときは米国人です。中国にいるときは中国人です」と、北京への出発前の米国での記者会見でアイリーン・グーは語っている。
彼女の母親ヤン・グーは中国政府高官の娘だ。高等教育を受けるために渡米し、投資銀行で働いた後、カリフォルニア州サンフランシスコでベンチャーキャピタルを立ち上げ、そこでアイリーンの父親と出会う。父親はハーバード大学を卒業していること以外はほとんど何も知られていないアメリカ人だ。
娘のアイリーンは、アメリカの超高級私立学校に通い、北京の数学オリンピックに出場した後、スタンフォード大学へ入学する。
サンフランシスコから上海へ、ニューヨークから北京へと移動する特権は、多くの共産党幹部の子どもたちに共通するもので、実業家の薄瓜瓜(2012年に失脚した元トップリーダー薄熙来の息子)、あるいは中国の習近平主席の娘、習明沢もハーバード大学へ進学している。アッパーミドルクラスの中国の若者の多くが同様に米国留学を選択する。アメリカで学ぶ留学生の3分の1を占める中国人は、合計で40万人にも上る。彼らは、中国本土にいる若者のように習近平の思想を学ぶ必要がない。
この「チャイナメリカ(Chinamerica)」のエリートは、ワシントンと北京の間のライバル関係や相互不信を超えた、二大大国の間の特別な関係を象徴している。彼らは、20世紀初頭にアメリカに移住した貧しい移民たちとは何の関係もない。彼らは、資本主義と共産主義の間に大きな生み落とされた新しい貴族階級を体現している。
アメリカでは、アイリーンの母親は法的な問題に直面することなく、一人で子どもを育てることができた。中国では1997年までシングルマザーは違法だった。社会的な汚名だけでなく、結婚せずに子どもを産んだ人には罰金や刑罰が科されるためシングルマザーになるのはいまでも難しい。
だからこそ、このオリンピックチャンピオンの勝利は、その笑顔以上のものを体現している。彼女の勝利は、多くの中国人が奪われていると感じている夢を象徴している。中国の雑誌『Caixin』は、彼女の象徴性について読者に再考を促す記事を掲載している。彼女の成功は普通の中国人の手の届かないところにあると同誌は書き、チャンピオンが中国の法律で禁じられている二重国籍を保持していることをほのめかした。共産党政権はこの記事を検閲し、アイリーン・グーが中国の豊かさを表す理想的な象徴であるという箇所以外をウェブから削除した。
──新しい貴族、ですか。なるほど。
この記事では「aristocracy」ということばが用いられていますが、これは本来は「優れたものによる統治」という意味なんだそうです。
──へえ。まあ、そう言われると、アイリーン・グーは間違いなく「優れたもの」ではありますよね。スポーツの語学も勉強も堪能でファッションモデルですから、最強ですよね。
ここからちょっとアイリーン・グーの話から逸れていきますが、いま、世の中では盛んに「民主主義の危機」ということが叫ばれていますが、今後ますますデジタルテクノロジーが浸透した社会を、どうガバナンスしていくのか、ということを考えていきますと、民主主義的なアプローチというのは、かなり厳しいんじゃないかという議論はあるわけです。
実際、中国は全体主義的な体制のなかで、それをガバナンスしているわけですが、少なくともこの10年ほどは、それが大いに功を奏して、すべてとは言わないまでも国民の幸福度はかなり上がり、それを受けて、世界をリードする先進的国家としてのプライドも高まっているわけです。その一方で、民主国家は、自由だ平等だと言いながら、ぐだぐだに利権化したガバナンス機構に対する信頼がすでに崩壊しています。その結果としてポピュリズムがまかり通るようになったわけですが、ポピュリズムは民主主義的手続きを踏まえているという意味では、民主主義の機能不全から発動したオルタナティブではなく、同一線上にある帰結だということができるんだと思うんです。
──ふむ。
そう考えると、いまわたしたちが直面している「危機」は、ポピュリズムに陥る危険性を常に抱えた民主主義による統治でいくのか、あるいは中国、もしくはシンガポール的な技術官僚などによる新しいアリストクラシーでいくのか、という分岐を示すものであるように感じます。
──「優れたものによる統治」への回帰。
それがいいと言っているわけでは決してないのですが、とはいえ、実際、会社であったり政府であったりというものが直面する問題というのは、信じられないくらい複雑化しているのは間違いないと思うんです。コロナ対応などにおいてもそうでしたが、問題の専門性の高さと、アプリの開発などを含めたソリューションの複雑さ/高度さは、すでにして政治家や一般市民に判断ができるレベルを超えているわけで、さらにそこにサイバーセキュリティなんていう観点が入ってきましたら、自分も含めてですが、理解する前に思考停止になってしまう人がおそらく大半なはずです。
そうしたなか、ある程度専門家の知見に任せなくてはならないという領域はかなり増えていると思うのですが、とはいえ、専門家は専門分野については知識はあっても、専門分野外のことは市民と変わらない素人ですから、その人たちに政治的判断をさせるわけにもいきませんよね。そうしたときに、意思決定というものは、それ自体が非常に困難になってくるので、これはもう「あらゆる分野に通じた、超人のような知識と頭の良さをもったヤツ」じゃないと意思決定できないじゃん、となってくるんだと思うんです。
──というか、そういう人たちの意思決定でないと、こっちももう信用できないですもんね。とは言え、そんなスーパーエリートは本当に存在するのか、ということですよね。
上記の記事で描かれている「チャイナメリカ」のエリートというのは、おそらくそういう人たちが想定されているはずで、であればこそ、国家的な特権が授けられているはずなんですね。
──なんだか身も蓋もない話ですね。
格差社会という言葉が含意するところは、こうしたことでもあると思うんです。つまり、意思決定できるポジションに行くためには、おそらくマルチタスクのスーパーエリートでなくてはならず、そうであるためには、若い頃からあらゆるリソースへのアクセスが必要で、そうなると必然的に、そうした人たちが生まれ出てくる可能性は富裕層にどんどん固定化されていくことになります。そして、そうなればなるほど、スーパーエリートの「貴族化」が進行し、市井の感覚からは乖離して、アイリーン・グーに見たように「マリー・アントワネット化」していくことにもなりうるんでしょうね。
──イヤな話ですね。
イヤな話なのですが、おそらく社会的にはそういう趨勢なんですね。今回の取り上げたいお題はQuartzの〈Field Guides〉から「進化するMBA」(The evolved MBA)というもので、この特集で語られている問題系は、「新しい貴族」ということと繋がっているように思えます。
──ほほう。
今回の〈Field Guides〉のトップに置かれている記事「MBAの未来」(The future of MBA)はこんな書き出しではじまっています。
ビジネス学生に関するツイートが、今年1月にバズった。投稿はビジネス学生を喜ばせるものではなかった。ペンシルベニア大学のトップクラスのビジネススクール、ウォートンの教授は、学生の4分の1がアメリカの平均給与は10万ドル以上だと考えていると、ツイートしたのだ。
その投稿の内容は以下です。
ウォートンの学生たちに、アメリカ人の平均年収を聞いたところ、25%が6桁以上だと考えていました。そのうちの1人は80万ドルだと思っていました。これをどう考えたらいいのか本当にわからない(実際の数字は45万ドル)。
この投稿は20万以上の「いいね」を集めたもので、記事は、そのリアクションを以下のようにまとめています。
ある一部のTwitterユーザーにとってこのツイートはエリート大学の経営学部の学生、ひいては企業幹部全般に対する疑念を裏付けるものだった。一方のビジネススクールの教員や管理職にとっては、このツイートは、彼らが払拭したがっている富裕層のイメージを再浮上させるもので、彼らは揃ってこの投稿にうめき声を上げた(ちなみに、米国の平均年間賃金は約5万3,000ドルだ)。
イェール大学経営大学院(SOM)の学長であるカーウィン・チャールズは、「この投稿が反響を呼んだのは、それが、MBAについて人びとが誤ってもっている観念と一致しているからです」と語る。「つまり、MBAを取得するようなヤツは無愛想で金持ちになりたいだけの、世の中のことはどうでもいい特権階級だ、という認識です」。
「実際は、MBAは一般に思われているよりももっと世の中を理解しており、もっと気にかけています」とチャールズは言う。
20年前であれば、ビジネススクールの利他主義に関するチャールズの主張は、空想に過ぎなかったかもしれない。多くの人にとって、MBAは富を得るための手段であり、教育機関の使命は株主価値を高めることを学生に教えることだった。社会的問題は、もし考えられていたとしても後回しにされていきた。
しかし、この20年の間に、学校と学生の双方がその目的について語る方法に変化が生じている。その中には、明らかにビジネス教育の評判を落とそうとする努力も含まれているが、目に見える変化も起きている。
──これまでのエリート主義に変化が見られるようになってきた、というわけですね。
今回の特集は、そこからMBAがビジネスというものを捉える考え方がシフトしているということを中心に語っていまして、その考え方を簡単に説明しますと、こういうことになります。
ビジネス教育の重心が変化しているのは、MBAクラスの大半を占めるミレニアル世代の価値観を反映しているからでもある。優れたビジネスと同様に、教育機関もまた市場に適応しなくてはならない。
またこの変化は、2008年の金融危機や気候変動の脅威といった劇的な問題を受けて、企業の役割、ひいてはビジネススクールの役割に対する危機感が高まったことにも起因する。
マドリッドにあるIEビジネススクールのリー・ノイマン学長は、「ビジネスは悪でも善でもありうるということに異論はないかと思います」と述べています。「ビジネスは、公害の元にも搾取工場にもなりえますし、ポジティブな変化の担い手になることもできます。現在、すべてのビジネススクールは、ビジネスはその点において大きな責任を負っているという考えに軸足を置いています」
──ビジネスは、社会にとって善にもなりうるし、悪にもなりうるので、まあ、できるだけ善をなすよう使って行きましょうということですね。
そうした観点からダイバーシティやサスティナビリティを考慮したマネジメント教育へとシフトしていることが、記事では明かされていますが、なかでも大きなシフトは、実践的なコミュニケーション教育が重視されている点で、ビジネススクールは、それを学ぶためにより実践的な環境を整える必要があるとされています。ですから多様な国籍や人種的バックグラウンドをもつ学生を集めることが重要になっています。IEの学長のノイマンは、ダイバーシティに富んだビジネススクールの魅力をこう語っています。
「世界中から集まったビジネススキルも文化も言語も異なる何百人もの人たちと一緒に過ごすチャンスは、そうそうあるものではないでしょう? それは、成長のための素晴らしい触媒となるのです」
──とはいえ、それって結局似たような所得水準の人たちが集まっているだけ、ではあるんですよね。
そこなんです。その問題についてはこう指摘されています。
ビジネススクールは文化の多様性だけでなく、所得の多様性にも目を向ける必要がある、とイェール大学のチャールズ教授は指摘する。「一流のMBAプログラムを卒業した学生は、その国で最も高い収入を得るようになり、自分と同じ稼ぎの人びとともに働き、付き合うことになる」と彼は言う。
「わたしたちの卒業生が、アメリカの所得分布の下位30%に収まるふりをするのは意味のないことです。なぜなら彼らはそうはならないからです」と彼はいう。「結局、この教育から得られる特権が、彼らが気にかけなければならない人たちから、彼ら自身を阻害してしまうのです。わたしたちは、彼らが気にかけたいと思っている世界と、彼らを結びつける方法を考えなければなりません」。
同様に、チャールズは、信じられないほど高額な学費が、ビジネススクールから多くの人びと、特に有色人種を締め出しているとも語る。
マッキンゼーのマウラーも同様の懸念を抱いており、ビジネススクールが多様性への取り組みを怠らないよう促している。
マウラーは語る。「わたしたちは、より多様な履歴の人びとに目を向けなくてはなりません。人種や性別だけでは不十分です。あらゆる側面からホリスティックな視点から多様性というものを捉え、学習チームの構成や事例研究の中身などを検討しなくてはなりません」
──なるほど。偉そうに批評できる身分ではありませんが、こうやって、ビジネススクールがインクルージョンを気にかけているのは素晴らしいことだとは思うにせよ、とはいえ、例えば、「多様な所得をもつ人たちのなかに入ってともに課題解決をしていく」スキルが、スキルとして価値化され、その希少性が高まれば高まるだけ、それを身につけた人たちの特権性が高まっていく感じもしますよね。なんというか、ビジネスエリートが「多様性」を語れば語るほどダイバーシティの理念から乖離していってしまうような、そんな感じを受けてしまいます。
難しい問題ですよね。まさに「教育から得られる特権が、彼らが気にかけなければならない人たちから、彼ら自身を阻害してしまう」というのは、教育というものにまつわる根源的な矛盾だと思うのですが、そこにおいて重要なのは、教育によって得られる知識や教養といったものを、人がどれくらい信頼するか、だと思うんです。結局のところ、人が誰かの言うことを聞いてみようと思うのは、そこで語られていることの合理性よりも、「その人が一生懸命考えて出した結論なのだから信じてみようか」と思えるかどうかにあるのではないでしょうか。
──そういう部分はきっと多分にありますよね。映画やドラマで「おれは難しいことはわかんねえけどよ、おまえがそう言うなら」みたいなセリフがあったりしますけど、知識というものは、それ自体が、格差となり、人を分断してしまう力がある、ということですよね。とすると、知識や情報がない側は、それをもっている人のことを「信じる」かしかななくなる、と。
とはいえ、その「信じる」「信じない」の判断は極めてデリケートなもので、この人が語るダイバーシティは信じてみよう、こいつは信じない、という線引きには大きな意味があるものだ思いますし、そこには語られる内容とは別のレイヤーでの合理的な判断が働いているのだと思います。感情のパラメータというのは、主観的なものではありますが、とてもデリケートで精密なものですから、そこを軽く見ている限りは、「教育から得られる特権が、彼らが気にかけなければならない人たちから、彼ら自身を阻害してしまう」という矛盾は、乗り越えられないのではないかという気がとてもします。
──ほんとですね。
いずれにせよ、大事なポイントは、少なくともビジネスという観点だけから見ても、今後のマネジメントというのは、恐ろしく複雑なものになっていくということなんだと思います。というのも、この数年だけでも、「C◯O」という肩書きはどんどん増えていまして、それは取りも直さず、経営の立場にある人がカバーしなくてはならない領域が、どれだけ増えているかを表しています。
──チーフ・サスティナビリティ・オフィサーからダイバーシティ・オフィサーからインフォメーション・セキュリティ・オフィサーからカーボン・オフィサーからデザイン・オフィサーといった感じで、もうやたらといますもんね。
問題は、こうした各方面の課題が連関しあっており、かつ、それらすべてを個別単体の課題として扱うのではなく、それを「きちんと事業に統合しろ」とされていることです。詰まるところ経営者は、これらの要件をすべて包括的に理解して、事業性との間でバランスを見ながら経営することになるわけですが、そうなったらおそらくもう、日本の経営者なんてほとんど全部アウトだと思うんです。というか、そんなことをやれる人間が本当にいるのか、とさえ思ってしまうのですが、となればなおさら、ビジネススクールの意義は高まるわけでして、そこに、わたしたちの社会が直面している課題があるんですね。
──というと。
ダイバーシティやインクルージョンが大事だという趨勢になっている一方で、意思決定の内容が極めて高度化・複雑化しているので、教育の高度化が必要になる、ということです。そして、その必然的な帰結として、一般に向けた教育と、エリートのための教育は分けて行う必要がある、という判断が行われていくのではないかという気がするんです。
──ありそうな流れですね。
もちろん、その間にさまざまなグラデーションがありうると思いますし、ビジネススクールのなかにも注目すべき面白い事例はあるんです。例えば、ブリスベンのグリフィス大学のビジネススクールについては、「エシカルビジネス教育のかたち」(What does an ethical business education look like?)と言う記事にこう記されています。
約10年前、オーストラリアのブリスベンにあるグリフィス大学のグリフィス・ビジネス・スクールのMBAディレクター、ステファニー・シュライマーは、MBAプログラムのあらゆる側面(すべてのコース、すべての課外活動、プログラム全体の設計)を見直すよう学校に訴えた。金融危機後、彼女は「ビジネススクールが学生に冷酷なリーダーになるよう教えてきたことを恥ずかしく思った」のだと言う。
シュライマーは、MBAの教育がいかにひどいものであるかを思い知らされていた。ある戦略本の「超有名な著者」との会合でのやりとりを彼女は回想する。「ご著書の中にサステナビリティ戦略の章がありませんね」と彼女が問うと、その著者は無表情で「必要ないだろ」と答えたのだという。
彼女は言う。「それは2009年のことですが、以前としてMBA教育は時代遅れだと思います」。
グリフィス大学のビジネススクールの教授陣は、同大学の環境学部の研究者と密接に連携し、ビジネスと科学の学生がペアになって、アジア太平洋地域の主要な課題に取り組む問題解決型のプロジェクトワークを行うようになった。学生たちは会計学の代わりに「説明責任のための会計学」を履修し、教授たちはコミュニティや慈善活動を行う小規模な組織のケーススタディに傾倒している。シュライマーは、精神的・身体的障害をもつ労働者の割合が一般的に「恥ずかしくなるほど低い」ことを研究し、より包括的に仕事を組織化する方法について研究している。
シュライマーは、グリフィスで、他の学校とは一味も二味も違うビジネススクールをつくり上げた。彼女は、「わたしは、このことを率直に言っていますし、マーケティングにおいても、そのことを強く打ち出しています」と説明する。「入学希望者にはこう伝えるようにしています。もし、あなたがホワイトカラーエグゼクティブのためのMBAをお望みなら、川向こうに素晴らしい大学がありますから、そちらをお勧めします、と」
シュライマーは、戦略の授業でシェアドバリューについて語り始めたら、何人かの学生が戸惑っていたことを覚えている。シュライマーは「わたしたちの学校は環境にフォーカスしすぎではないか」という懸念からアンケートを取ってみたが、学生も卒業生たちも、それをもっと望んでいたという。
やがて、学生の属性も変化していった。かつて男女比は男性に偏っていたが、いまでは学生の58%が女性だ。また、以前は高所得者層が多かったが、いまではあらゆる社会経済的背景をもつ学生が集まっている。多くの卒業生が非営利団体を立ち上げたり、よりパーパスドリブンな仕事に就くためにキャリアプランを変えたりしていると、シュライマーは語る。
──ああ、なんかいいですね。エリートっぽいイヤな感じがないのはどうしてでしょうね。
「イヤな感じがしない」って大事ですよね。「教育から得られる特権が、彼らが気にかけなければならない人たちから、彼ら自身を阻害してしまう」という矛盾に対する答えは、その辺にあるのかもしれません。
──アイリーン・グーもこういう学校に行ったらいいのに、と思ってしまいます。
この学校は、MBAに興味ない自分でも、ちょっと覗いてみたくなりました。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。
꩜ 「だえん問答」は毎週日曜配信。次回は2022年2月20日(日)配信予定です。本連載のアーカイブはすべてこちらからお読みいただけます(要ログイン)。
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