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週刊だえん問答
世界がいま何に注目しどう論じているのか、「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが「架空対談」形式で解題する週末ニュースレター。毎週更新している本連載のためのプレイリスト(Apple Music)もご一緒にどうぞ。
A crash course in bureaucracy
官僚制と自警団
──こんにちは。お元気ですか?
先々週、先週と2週間にわたって、ウクライナの極右問題という言わば「ラビットホール」に落ちており、ただでさえ仕事が詰まっているところに長いこと寄り道してしまいましたので、今週は真面目に溜まった原稿仕事をやっつけていました。
──ウクライナの件は、2回分を合わせたら5万字近い文字量でしたが、一応ひと段落したということでよろしいでしょうか。
そうですね。あんまり言い続けるとただの陰謀論者みたいになってしまいますし、自分なりにおよそのあらましはわかりましたので、今週はもう勘弁と思っています。
──とはいえ、何か結論めいたものがあるとしたら、どんなことになるのでしょう。
個人的に気になるのは、世界がウクライナ政府支持でユナイトするのは結構なのですが、ずっとロシア語で生活してきたウクライナ東部の人たちは、そこにどう含まれるのかどうかというところでしょうか。ロシアを悪者にするのはいいとして、それをもって自動的にウクライナ東部の親ロシアの人びとを悪者にできるのか、というところです。
東ウクライナの分離派の人たちはユナイトの対象になるのか、ならないのか。分離派はすべからく内乱分子・テロリストとみなせば全排除という結論になりますが、果たしてそれで紛争が終わるのでしょうか。
──結局そこに行き着くんですね。
ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国による州全体の領有をウクライナ政府が受け入れることをロシアは停戦条件として加えたそうですが、ゼレンスキー大統領も、ロシアからの「解放」を言い続けてはいるものの、なぜこの地域で8年にもわたって内戦がくすぶり続けているのか、2014〜21年の間になぜ約1万4,000人もの犠牲者が出ているのかはよく理解しているとは思うんです。
──そうですか。
東側に暮らす人たちの未来は基本どうでもいいということならいいのですが、そうでないとするなら、問題含みの施策しか実行していないようにしか見えないゼレンスキー大統領の言動は、さらに国を分断に追い込んでいるように見えますし、世界を巻き込んでここまで遺恨と憎悪を煽ってしまえば、東側地域の「解放」はますます困難なのではないでしょうか。
──問題含みの施策とは?
侵攻後に限っても、18〜60歳までの成人男性すべての出国禁止や予備役招集も、受刑者を釈放して「前線で罪償える」とするのも、大いに問題ある施策だと思いますが。
──戦闘員と非戦闘員の区別をつけないと虐殺につながると、かの橋下徹さんが指摘していました。
その指摘はその通りだと思いますし、人道回廊の機能不全といったことが起きているのも、そのことと関連がないとも言い切れません。
──それでもやっぱり悪いのはプーチン、と多くの人はなりそうですが。
そうですね。プーチン大統領が悪辣な独裁者であるのはそうだとしても、ここまで8年続いてきた戦争のなかには、かなりいろんな経緯の蓄積があったように自分には見えます。
──感情的に許せんという部分も強いのでしょうね。
それはとてもよくわかります。わたし自身、プーチン大統領はそもそも好きでもなんでもないのですが、自分の場合、残念ながらそれと同じくらいウクライナの現政権も好きにはなれないんですね。
──どちらにも肩入れはできないな、と。
はい。今回は別の話をしようと言いながら、結局ウクライナの話になってしまっていますが、この辺りで少し話をずらしますと、ここ最近、映画やドラマなどでちょいちょい「旧ソビエト」が出てくるなということが、実はぼんやりと気になっていたんです。
──と言いますと。
つい先日、全然面白くないNetflixのドラマで、「イン・フロム・ザ・コールド」というのを観たのですが、これ、とあるシングルマザーが、実はずっと身元を隠していたロシアの元工作員で、CIAにそれを突き止められて協力させられ、ソビエト由来の凄技を使って国際謀略を暴いていくというものなんです。
──ほんとにつまんなそうです(笑)。
まったく面白くないので本当におすすめしないのですが、観ながら、どうしてロシアのスリーパーをあえて主人公にしないといけないのかと、ちょっと不思議だったんですね。で、記憶をまさぐってみますと、それこそマーベルの『ブラック・ウィドウ』(2021)や『ウィンター・ソルジャー』(2014)は、まさに「すっかり消えてなくなったと思っていたソビエトの亡霊」と戦う話で、「アベンジャーズ」の根底にも旧ソビエトが常にモチーフとして流れていたなと思い出したりもします。あるいは、シャーリーズ・セロン主演の『アトミック・ブロンド』(2017)やジェニファー・ローレンス主演の『レッド・スパロウ』(2018)なども冷戦時代のソビエトが絡む話で、そうやって考えていくと、これ以外にも、わりとあるような気がしてきたんです。2019年のリュック・ベッソン監督作『ANNA』も、KGBの女殺し屋の話でした。全然面白くない作品でしたが。
──まあ、でも昔から「ソビエト=敵」というのは、ハリウッドのお家芸ですよね。
そう言ってしまえばそうなのですが、とはいえ、映画のなかで描かれる「脅威」は、一時は中東がモチーフであったり、あるいは最近だと新興テック企業だったりと、それなりに時代のなかで推移している気もしていまして、それで言えば「旧ソビエトの脅威」を扱うものにもはや現代性はないように思っていたのですが、案外そうでもないんだな、という気もしてきたんです。
──『アトミック・ブロンド』はわたしも観ましたが、言われてみると「なぜいま『冷戦末期』?」と唐突な感じはしました。
一方で、じゃあ、そうしたブロックバスター的なアメリカ映画のなかで、「中国」が脅威として描かれるものがあるのかというと、必ずしも、そんな感じはしないんですね。例えば『ダイ・ハード』(1988)という映画の舞台は日系企業のビルですが、それはちょうど日本がアメリカにとっての経済的脅威として存在感があったからこそ、その舞台設定にリアリティもあったわけです。しかし、そういうかたちで中国企業が描かれるものを観た記憶がないんですよね。
──チャイナタウンのマフィアは出てきますが、「脅威」としての中国はいまひとつなのでしょうか。
もちろん、ハリウッドに大量のチャイナマネーが入っていることなんかも影響して描きにくいのかもしれませんが、実際の世界における「脅威」ということで言えば、アメリカは中国を目の敵にしてもよさそうです。が、なぜかそうはならず、いまでも「ソビエト」が根強く人気なんですね。
──きっとわかりやすいんでしょうね。
あるいは、この間も忙しい合間を縫って観ている韓国のドラマには、言うまでもなく「ソビエト」が脅威として描かれるようなものは基本的にありませんからね。
──まあ、そりゃそうでしょうね。
韓国の社会派ドラマにおける「脅威」は、極めてざっくり言いますと「政官民の癒着した複合体」でして、それがもたらす格差や貧困、不平等がドラマを推進するドライバーになっています。これは最近配信されたゾンビ学園モノの「今、私たちの学校は…」でも「未成年裁判」でも、昨年末に公開された「静かなる海」でもだいたい同じと言えるかと思います。
──だいぶざっくりしていますが、言わんとすることはわかります。
韓国の「政官民の癒着」は、財閥が推進する新自由主義経済が政治と行政を骨抜きにしていくという構成を取りますが、これは必ずしも韓国特有の状況ではなく、それこそオリガルヒが政権を骨抜きにしてきたウクライナのようなところでも起きているいわば世界的な事象で、であればこそ韓国ドラマが世界的に観られることにつながっているように思うんですね。
──「イカゲーム」もそうですよね。
韓国ドラマに描かれている「脅威」のある種の傾向と、それこそアメリカの、特にブロックバスター系の作品が描いてきた、あるいは現在も描いている「脅威」は、そうやって対比してみると、改めてずいぶんと違うものだなという気がします。もちろん、自分が観ている範囲でしか言えませんので、どこまでいっても主観的な見解でしかないのですが。とはいえ、自分が韓国ドラマを観始めた理由、観続けている理由は、実はそこにあるんです。
──どういうことでしょう。
自分が最初に観た韓国ドラマは「秘密の森」(2017)というもので、これは検察を舞台にそれこそ政官民の汚職とそれがもたらす社会の傾きと格差を描いたものですが、それを観て「こんな問題をテーマとして扱うんだ」と思ったんですね。で、このドラマが全体の傾向における外れ値なのかどうかを知りたくて観続けているのですが、恋愛ドラマを除外すると、いわゆるヒーローもの、犯罪もの、法廷もの、軍隊もの、ゾンビもの、SFものなど、色んなものを観ても、自分が観た範囲ではだいたいがこの線に収まっているんです。それはそれでワンパターンだとも言えるのですが、逆にいえば、かなり確固たるナラティブがあると言えるようには思うんです。
──なるほど。
で、何が言いたいかと言いますと、そうやって新たなナラティブをもった新たな文化圏が勃興してきますと、次に気になってくるのは、「これまで自分たちが当たり前だと思っていた文化圏って、どういうものだったんだっけ?」ということでして、そこでいわゆるアメリカのナラティブを振り返ってみると、相変わらず「ソビエトの脅威」と戦ってるアメリカって一体なんなの?と思わざるを得なくなるということなんです。
──実際のところ、いわゆる「スーパーヒーロー」のありようも、描くのが年々難しくなっている感じもします。
アベンジャーズ作品で言いますと、ひとまず『エンドゲーム』(2019)で全宇宙的なカタストロフィからアベンジャーズが全宇宙を救ったのはいいとして、主要メンバーも死に、あるいは老化するなか、世代交代が構想されることになるわけです。そのとき、いわゆるZ世代のヒーローというものが何を脅威とみなし、何と戦うのかということになってくると、もうさすがに「ソビエト」というわけにもいかないと思うんです。
──そりゃそうですね。とはいえ、それに代わる脅威といったら何になるんでしょう。「気候変動」とかですか。
昨年末に配信されたドラマ「ホークアイ」は、それこそ世代交代をモチーフとした作品でしたが、ホークアイの後継者たるべきケイト・ビショップという女性主人公が戦っていたのは、結局自分の母親だったりしました。
──そうなってくると、もはや「ヒーローもの」というカテゴリー自体の存続も怪しくなって来ますね。
映画における「ヒーロー」という概念が、これまでのように単純には成立しなくなっていることは、これまでも言われてきたことかと思いますが、実は最近、これまた別の作品で、Amazon Primeで配信されている「ジャック・リーチャー」(2022)というドラマを観たんです。
──忙しい割には結構観てますね(苦笑)。
それしか楽しみもないので。この作品は、トム・クルーズが主演した映画『ジャック・リーチャー』シリーズ(2012、16)のスピンオフでして、思ったより面白かったとはいえ、ひどいと言えばひどい内容なんです。元軍人のジャック・リーチャーはいくつものメダルを授与された元英雄で、いまは退役してぶらぶらしている人でして、それが旅の途中で訪れたある田舎町で事件に巻き込まれ、それが思わぬ巨大謀略だったことから正義感と良心をもった何人かの地元警官と協力しながら巨悪を叩き潰す、という内容です。
この手のドラマの常として、流れ者のジャック・リーチャーは、「悪いやつ」に暴力を振るったり殺したりすることになります。そして、この手の物語の常として、言うまでもなく、それが許される根拠はどこにもないわけです。
──そりゃそうですね。この手のヒーローは「超法規的存在」ですし、なんならサブタイトルにも「正義のアウトロー」とありますし。
ただ、この事件のなかで自分のお兄さんが殺されているので個人的な私怨はありまして、であればこそ、「リーチャーに殺される相手は殺されてしかるべき奴だ」ということに物語上はなっているのですが、とはいえ、ものすごい数の人を殺しちゃうんですよ、リーチャーが。
──あはは。
しかも、適当にその辺に死体を放置していくわけです。で、最後にFBIが事件の捜査に入ってきて巨悪が暴かれ大団円となるのですが、リーチャーは「おれは人と話すのが苦手だ」とか言って事件の捜査にも協力しないで、あばよって感じでいなくなっちゃうんです。
──ウケますね。
こんなドラマをことさら深刻に取り扱う必要もないとは思うのですが、とはいえ、このリーチャーの「おれの気に入らないやつは悪」「なので殺していい」「法や政府なんてクソ喰らえ」「なぜなら話すの苦手だし」というスタンスは、なんというか、そのままアメリカのアンチマスク/アンチワクチンの人たちの気分とさして変わらないんだろうな、と思わざるを得ないところはあったんですね。
──やけくそな自由主義。
あるいはこれが、自分が観てきたような韓国ドラマですと、そこにもう少し機微というものはありまして、違法行為に手を染める側にもそれなりの理由があったりして、根っからの「悪人」がいるというよりは、人が悪に染まっていく環境に対する目配せがもう少しあると思います。ただ、「リーチャー」のような出来の悪い作品では、「悪」はもう出てきた瞬間、「悪」なんですね。
──先天的な属性として「悪」だと。
というか、そうでないと暴力による悪の殲滅は根拠づけられませんし、うっかり環境について気配りしてしまったら、乱暴な武力解決なんかできなくなってしまいますからね。
──それはそうですね。
そう考えると、アメリカのヒーローはだいたいが基本的にただの自警団、もしくは私怨に基づく復讐者なんですね。
──アベンジャーズって名前はまんま「敵討ち」の意味ですし。「世界の警察」って言い方も特に誰が頼んだわけでもないとすると、まあ、自警団ですよね。
はい。で、この「スーパーヒーロー/自警団」というものの問題は、いまお話ししたように、その前提として超法規的な「悪」を必要とするところだと思うのですが、そこがもしかしたら「ソビエトの亡霊」が持ち出されることにもつながるところなのかなと思ったりするわけです。
というのも、冷戦時代のソビエトは、アメリカにとっては問答無用の「敵」で、そこはもう疑いを挟み込む余地のない超法規的な「悪」だったわけです。そうであればこそ、それに対置する格好で問答無用の「善」としてヒーローを描くことができたわけですよね。逆にいうと、スーパーヒーローのコンセプトやナラティブそのものが、冷戦構造の産物なのではないかとさえ思えてくるほどです。
──ソビエトがいたからスーパーヒーローが成り立ち得た、と。
はい。キャプテン・アメリカが輝くためにはソビエトがきっと必要なんです。
──しんどいですね、その二元論。
とはいえ、世界がその二元論が動いていたときは、それもリアリティがあったんだとは思うんですね。かつ、その二元論のなかにあったときこそ、アメリカが一番輝いていた時代だったとすると、ここに来ての「ソビエトの脅威」の持ち出し方は、もはや老年を迎えた男性の回春のようにすら思えて来るわけです。
──バイアグラとしてのソビエト、ですか。
はい。
──気持ち悪いですね、それ。ジェニファー・ローレンスをお色気むんむんに描いた『レッド・スパロー』は、言われてみれば、もろにそんな印象でしたが。
とはいえ、問答無用の悪なんていうものを、リアリティをもって設定するのは、実際、ますます困難にはなっているのは事実だと思うんです。最新作はまだ観られていませんが、それこそ『バットマン』なんかでも、善と悪の境界が不分明になっていくなかで、ブルース・ウエインはほんとんど精神分裂を起こしているような状態になっているわけですし。
──アベンジャーズが最後に戦った悪者の「サノス」なんかも、全宇宙的な悪ということになっていましたが、とはいえ、そんな巨大な悪を、一個の個体が背負わせるには無理もあって、どんなに邪悪な相貌で描いたとしても、ひとつの個体として描いていくと、なんだかただ寂しいだけのおじさんにしか見えず、そこになんだか妙なギャップがあるなとも感じました。
全宇宙的な「悪」を個人が体現するようなことは実際ありえないようにも思いますしね。もちろんヒトラーが行った大虐殺などは、個人の妄執の結果でもあると言えなくもないのでしょうけれど、そこは、実は今回取り上げようと思っていた〈Weekly Obsession〉の話題とも関わるところでして、今回のお題は実は「官僚制」(beaurocracy)なんです。
──おっと、いきなり。
〈Weekly Obsession〉でなぜいま「官僚制」が話題となったのかは正直よくわからないのですが、記事のなかにハンナ・アーレントの一節が引用されていまして、それが、ここまでの話と関わるところになるかと思います。『暴力論』からの引用ですが、記事の英文から直接翻訳するとこうなります。
公的生活の官僚化が進めば進むほど、暴力への誘引は高まる。完全に発達した官僚制のなかでは、議論できる相手、苦情を訴える相手、権力に圧力をかけることのできる者はいなくなる。官僚制は、誰もが政治的自由、行動力を奪われる政府の形態である。「誰もいない支配」は「無支配」ではなく、全員が等しく無力であるところでは、先制者のいない専制政治が出現する。
──アーレント先生のこのことばは、おそらくナチによるホロコーストなども踏まえて書かれたものなのだと思います。実際、600万人ものユダヤ人を殺害するためには、機械的かつスケーラビリティのあるシステムが必要で、それはまさに官僚制という仕組みがもたらしたものでもあると言えるわけですね。
起点にヒトラーの妄執があったとしても、それを効率的かつシステマティックに運用する仕組みがない限りは実現できない規模の殺戮ですから、そこで官僚制というものが果たした役割は小さいものではないと思います。この官僚制を、近代社会を規定する重要なものとして定義したのはマックス・ウェーバーですが、彼は、その特徴をこう定義しています。これも記事からの直接の翻訳で失礼します。
– ルール:官僚制には、その活動を許可される管轄権と何をすべきで何をすべきでないかについての規則が必要
– ヒエラルキー:明確な権限系統があれば、苦情は上に流れ、命令は下に流れる
– 文書主義:「現代のオフィスの管理は文書(ファイル)に基づいている」と彼は書いている。だから「ビューロー」(机)の語が用いられる。官僚は物事を書きとめ、記録を残す
– 専門知識:官僚は訓練された専門家であり、他の仕事と並行して行われる名誉職とは異なり、彼らはプロフェッショナルである
– 使命:官僚は個人的な利益のためではなく、義務から公務に従事する
– 客観性:個人的な関係に依存する組織形態とは異なり、官僚機構は意図的に非人間的である
──わかりやすいですし、いまも基本はあまり変わっていない気もします。
ウェーバーは、これがいいか悪いかを論じたというよりは、これが時代の趨勢で、政府のみならず、企業を含め、それがいったん社会のなかで機能し始めると、そのシステムは永続化すると指摘したそうです。しかし、官僚制が普及し始めた19世紀当時においてこのシステムが非常に効率的で合理性が高いとみなされていたのはいいとしても、いまから見て、これがどう考えても運用が難しい仕組みであると思えてならないのは、「官僚も人間である」ことが、あんまり考慮されていないような気がするからです。
──と言いますと。
これまでもよく引き合いに出してきたことなのですが、行政システムを猛然とデジタル化し、内閣にAIを導入すべきだとさえ主張しているエストニアの人たちが、なぜそこまで熱
心に官僚制のデジタル化に取り組むのかを聞いてみたところ、返ってきた答えは、「人間は腐敗するから」というものだったんです。
──ああ、なるほど。
これを逆に言うなら、ウェーバーが定義した官僚制は、公務員に「AIもしくはロボットになれ」と要請するものだった、ということだとも思うんです。
実際、公務員は、そうやって自らをロボット/AI化していくことで、無感覚の無色透明な存在へと、自分たちを変えていかなくてはならなかったはずで、その結果、杓子定規で硬直的なやり方でしか作動できなくなるわけですが、はなからそうであるように要請されていたわけですから、それも当然といえば当然だと思うんです。こうした硬直化は、行政学では「逆機能を起こす」と呼ぶそうですが、その逆機能の症例として、規則に従うことが目的化する「目標の転移」や、その結果としての「訓練された無能力」などが現れてくることとなります。
──想像できます。
とはいえ、規則の遵守が命題として課せられているわけですから、心を氷にして「規則なんで」と個別に便宜を図ることを拒絶することは責務としては正しいわけですし、杓子定規だと非難される筋合いもないわけですよね。ところが、まあ、公務員も人間なので、というところで非常に難しい立場に立たされることにもなるわけです。
AIやロボットであれば、こちらがいくら「頭が固い」「融通が効かない」と詰ったところで意にも介さないでしょうけれど、言ってもそこは人ですし、そこで鉄面皮を貫くにあたっての根拠がプロとしての義務感や責任感しかないのであれば、人間性の発露を防ぐことの防御としては、かなり脆いですよね。
──そうですね。
あるいは逆に、ヒトラーのようなよくわからない妄執から発せられた指令を、個人的な倫理や感情に反するからという理由で拒絶するのも、それが正しいのかということもありますよね。政治が決めたことを無色透明の執行機関として遂行することが官僚・行政職員の使命であれば、「それはちょっと……」と拒絶するのも、実際のところかなり困難なことのように思えます。
──であればこそ、極めて暴力的な存在になりうるとアーレント先生は警鐘を鳴らすわけですね。
自分がずっと気になっているのはまさにそこでして、「官僚にも行政職員にも人生ってものがあるよな」ということを、これまでの社会というのは、あまり考慮してこなかったように思うんです。「税金で食ってるんだから黙って言われた通り職務を遂行しろ」と言うばかりで、その人たちの幸福や夢や希望といったことを度外視してきたように感じます。またやってる側も、国家のためであれば私欲は抑えて奉公するのである、と自らを律してきたのだとは思いますが、倫理観といった極めて曖昧な根拠をもって大規模な人数の人間を管理できると考えるのも、これほど価値観が多様化したいまからするとほとんど現実味のない見立てにしか思えないんですよね。
──たしかに。
ですから先進的な国ですと、それこそライフイベントを考慮した働き方をいかに行政府内に取り込んでいくかといった議論もされるようになってきているわけですが、それも要はウェーバーが定義した官僚像が、そもそも人間離れした要件を課してしてきたからですし、その理念と現実の間で、官僚や公務員の「堕落」「無能力」が蔓延してきてしまったことに対する反省からきていると思うんです。
──ふむ。
そうしたところから、先ほどのアメリカ映画のナラティブの話に戻りますと、これは例えば「スターウォーズ」シリーズが一番わかりやすいですが、ソビエトやナチスドイツのイメージに依拠した「悪」の表象は、ひとつにはダースベイダーやパルパティーンに代表されるような「邪悪なトップ」なのですが、別のところでは、画一化されたストームトゥルーパーや名前さえ与えられない官僚や下級公務員たちなんですよね。
──アベンジャーズにおけるサノスの軍勢も、基本個体判別のできない、ただし命令には至極従順な有象無象ですよね。あるいは日本を代表する有象無象としては、やられるためだけに登場する「ショッカー」などを挙げてもいいのかもしれません。
とにかく「敵」というものは、邪悪なワントップ以外は完全に画一化された顔のない集団であることがおそらくとても重要で、それが「顔のある個人」であるヒーローと対照されることに意味があるのだと思うのですが、アメリカ的なナラティブにおけるそうした「顔のない集団」は、実際は「官僚制」の表象なんですね。
──『フォースの覚醒』では、個人としてのストームトゥルーパーが描かれましたが、個人になった瞬間、半ば自動的に「正義アウトロー」になっていました。
そう考えると、映画のなかに出てくるような社会主義的ディストピアは、社会主義そのものが問題となっているというよりは、むしろ極度な官僚主義こそが打倒すべきターゲットとしてあるのかなとも思えてきます。
──「官僚主義」を「顔のある自由な個人」が打倒していく、と。
また、そうした官僚主導の管理社会は、どうせ腐敗と恐怖政治が蔓延っているだろうとの憶測も成り立ちやすいので、敵とみなすには大変好都合なんですね。文化人類学者のデイヴィッド・グレーバーは、官僚制度を目の敵にする態度を「官僚制の悪魔化」と名付けていますが、民主主義社会における最もわかりやすい敵は実際官僚組織でして、そうした「悪魔化」が新自由主義に大きな免罪符を与えてきたわけです。
──日本ですと、小泉首相がわかりやすく郵便局を悪魔化していましたね。
ところが、ここで面白いのは、アメリカは自己イメージとしては、「顔のある自由な個人」の国であるという認識をもっていて、であればこそソビエト的やナチス、もしくは中国的な官僚主義の対抗軸になるのだと考えたがるけれど、実際はそうではないとグレーバーが指摘していることです。これは過去に自分が編集した『次世代ガバメント』というムックでも引用したものですが、『官僚制のユートピア』という本にある以下のような一節です。
わたしの観察するところイギリスの人びとは、じぶんたちが官僚制にとくにむいていないということを大いに誇りに感じている。ところがアメリカ人は、概して、じぶんたちが官僚制にとてもむいているという事実に困惑をおぼえるようにみえる。自国の自己イメージにふさわしくないからである。われわれは、本来、自立した個人主義者であるはずなのに(まさにこれが右翼ポピュリストによる官僚制の悪魔化が、どうしてかくもうまくいくのかの理由である)。とはいえ、アメリカ合衆国が根っからの官僚制社会である──そして一世紀を超えてずっとそうだった──という事実は揺るぎない。
──面白いですね。
この自己イメージと実際のありようとの乖離が、グレーバーが指摘した通り、右翼ポピュリストの台頭のテコとなってきたのでしょうし、その乖離からくる苛立ちのようなものが、さらには「ディープステート」といった観念やアンチマスク/アンチワクチンをめぐる運動の底流にある感覚であるようにも思えてくるんですね。
──トランプ支持の底流にあるのも、おそらくそうした感覚でしょうし、コロナ下では、米国立アレルギー感染症研究所のファウチ所長なんて、まさに「悪魔化」の格好のターゲットにされていました。
そういうことで言いますと、この間起きている、いわゆる「社会の分断」における、ひとつの大きな「分断線」は「政府」といったときの実行組織である行政府、そしてそれを支えている官僚制をめぐるもののように思えてくるんです。コロナ禍によってもたらされた分断も、実際は、行政の介入をどこまで許すのかというところにあったわけですし、一方で中国のやり方に自由を重んじる人たちが眉をひそめるのも、習近平というワントップのイデオロギーもありこそすれ、一方で、それを実行するにあたっての水も漏らさぬ官僚制度への警戒感からだとも思います。
──とはいえ、西側は西側で、官僚制を今後どう取り扱っていくのかというところの道筋も見えてはいないわけですよね。
それこそ台湾やデンマークといった国がただいまトライアウト中ということになるのだとは思います。実際、「官僚の人間化」つまり「人間中心の行政府」へのトランスフォーメーションは、ポピュリズムに対抗するための重要な鍵なんだといったことを、デンマークの政府筋に聞かされたこともあります。
とはいえデジタルテクノロジーがまさに官僚国家が待ち望んでいた管理・統治ツールになりえるのだとすると、「官僚制をどう取り扱うのか」という問いは、ますます重い課題になってくるように思います。ちなみにQuartzの記事は、中国の官僚制について、その先進性をこう説明していたりします。
宋代(960〜1279年)以前の中国では、政治的な任命は推薦状が頼りだった。しかし、宋の時代、中国は初めて印刷された書物を持つ社会となり、正式な教育が行われるようになった。宋の皇帝は、当時まだ始まったばかりの試験制度を拡大し、試験の点数で職を得る公務員の数を一気に倍増させた。
この実力主義へのささやかな転換は、官僚制の歴史において重要な意味を持つ。官僚が、政治的な判断で任命されるものから、専門的な知識に基づいて任命されるものとなったのだ。
欧米が中国のイノベーションを真似るには、1,000年以上の歳月を要した。1854年、英国政府は国家公務員に採用試験を求める「ノースコート=トレヴェリアン報告」を発表した。1883年、アメリカではペンドルトン公務員改革法が成立し、これも試験を導入し、官職の売買を制限した。
──科挙制度の話ですね。
はい。中国は科挙制度によって、欧米に1,000年先んじて、実力主義(メリトクラシー)による統治を実現したということですね。
──中国から見ると、欧米の官僚社会なんていうのは素人同然のものという感じなのでしょうか。
さあ、中国社会全体が官僚制をどう理解しているのかはわかりませんが、1,000年来それを当たり前としてきた社会における社会的想像力が、わたしたちが想像するものとは大きく違っている可能性はあるような気はします。
──問題はアメリカがそれをどう見るかですよね。
「官僚制の悪魔化」を激しくしていくことで、「自警団」としての自らのアイデンティティにますます固執するようになると、なんだか厄介な気がとてもします。実際、アメリカの極右勢力や白人至上主義グループなどはそういう立ち位置を取っているように思いますし、昨年1月の議会襲撃はそれが暴発したものとも見えますが、以後その勢いが減衰しているような気もしません。
──どうなんでしょうね。ウクライナの話に戻してしまって恐縮ですが、今回のロシアとの紛争がそうした流れを活性化させることにもなりそうなのは、ちょっと怖いですね。
ウクライナの問題で最も衝撃的なのは実はこの部分でして、ウクライナという国の問題は、極右云々以前に、オリガルヒによって政治と行政が腐敗させられていった挙句、警察や軍隊を自警団化させていってしまったところだと思うんです。これは国家崩壊の兆しだとNATOのシンクタンクであるAtlantic Councilは、2018年にこんな警告を発しているほどです。
極右勢力に政府が与えた免罪符は、ウクライナの国家存立に関わる重大な脅威でもある。西洋の政治・法哲学では、国家が正統な国家であるためには暴力機関を独占せねばならず、国家が暴力を独占できなくなると社会が崩壊し始めると理解されてきた。ウクライナはまだその段階にはいたってはいないが、そこにいたる危険を冒すべきではない。
このような状況を見て見ぬふりをすることは、ウクライナの国際的な評判を落とす危険性があることをキエフは理解する必要がある。クレムリンは遠慮なく極右の活動を利用して、ウクライナはファシストの巣窟だと主張するだろうし、キエフも無策のままでいるなら西側諸国の支持を失うこととなる。
幸いなことに、当局がいますぐ行動を起こせば、事態の芽を摘む時間が残されている。ペトロ・ポロシェンコ大統領(当時:編註)は、無許可の自警団活動に対する「ゼロ・トレランス」政策を制定し、国家警察の戦略的重要拠点の警備責任者であるセルゲイ・コロツキーのような極右シンパを法執行機関から排除するよう指示することから始めることができる。
──2018年の段階で、国家崩壊へと向かっていたということですか……。
これはウクライナという国だけの問題というよりは、もはや近代国家というコンセプトそのものに対する脅威だと思うのですが、自分としてはそれが近代国家の基盤OSとなってきた官僚制というものへの根源的な不信とそれに伴う機能不全に起因しているような気がしてならないんです。
──官僚制を無理に維持しようとすれば中国のような管理体制の方に向かうし、そのOSを否定するなら、自治・自警に向かうわけですね。
これはまさにデジタルテクノロジーのガバナンスをめぐる議論とも通底していまして、それを官僚制のためのガバナンスツールとみなすか、あるいは自治のためのツールとみなすのかに、ひとつ大きな分岐があるわけですが、自分としては後者の方向に進むのがいいと思いはするものの、ただ、となるとどこかで武力抗争が起きたら当然全員参加がマスト、となってきちゃうんですよね。
──どっちもキツいですね。
そうですね。どっちもキツいです。
──ここ、何やら重大な分岐点ですね。
そうなんです。重大な分岐点だと思います。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。
꩜ 「だえん問答」は毎週日曜配信。次回は2022年3月20日(日)配信予定です。本連載のアーカイブはすべてこちらからお読みいただけます(要ログイン)。