A Guide to Guides
週刊だえん問答
週末のニュースレター「だえん問答」では、世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzの特集〈Field Guides〉から1つをピックアップし、編集者の若林恵さんが解題します。今週は「家をもっと快適にする」と題した特集について、2回に分けてお届けする後編です。
このニュースレターは、2月7日にお送りした「Guides:#39 ホームリノベーションの効能・上」の続きです。
Finding happiness at home
ホームリノベの効能
──こんにちは。前回は森元首相の失言問題に大きくスペースを取られてしまいましたので、今回は、〈Field Guides〉「Finding happiness at home」の本筋であるところの「ホームリノベーション」に沿ってお話できるとありがたいのですが。
そうですね。そうしましょう。
──今回の〈Field Guides〉は、それこそ、コロナウイルスによるロックダウンから、いま一度「家」のありようを考えようという人が増えている状況を背景にした特集ですが、「家をもっとハッピーにする科学的な方法」(The science-backed ways to make your home a happier place to be)という記事では、アメリカの現況がこんなふうに紹介されています。
「2020年8月には、住宅市場は2006年以来の高値を記録し、とりわけ郊外の住宅が好調。バンク・オブ・アメリカのある調査によれば、パンデミックを契機に家のDIYリノベーションを行った家主は70%に上り、Home DepotやLowe’sといったホームセンターの株価は急上昇を遂げた」
この感じはなんとなくわかります。知人でもこの間に引っ越しを考えた人は思い浮かびますし、わたし自身も引っ越しを検討中です。必ずしもすべてがパンデミックの影響とは言えないとは思いますが、リモートワークやリモート学習が、一過性のものではもはやないということになると、多くの人が、コロナ以前の居住環境を見直さざるを得なくなるのは当然のことでもありますよね
──はい。
パンデミックによってもたらされた課題をデザインを通じて解決することをテーマとした「Critically Homemade」という、香港で実施されたイニシアチブを取り上げた「ロックダウン生活の課題をDIYで解決するデザインチャレンジ」(A design challenge helps DIYers solve the problems of lockdown life)という記事は、このプロジェクト主宰者でデザイナーのMarisa Yiuさんのインタビューを掲載していますが、そのなかで彼女はこう語っています。
「COVID-19のパンデミックロックダウンによって、もっとマシなありようがあるのではないかという目で家のなかを見直すことになりました。例えば、あなたの子どもがZOOMで授業を受けなくてはならないとすると、それに見合ったかたちで居間の環境をつくり直すことになります。そして、机の位置やかたちなどに合わせてどこにiPadを置くのがよいのかを考えることとなります。幼い子どもたちはZOOMの画面の前でじっとしていることに慣れていません。とすれば、どういう座り方がベストなのか、考えなくてはなりません」
──子どもだけじゃないですよね。ZOOM会議のために、家のどこに座るかを決めるにあたっては、背景などに何が映るかも気になるわけですから、いままで気にしていなかったところに目を向けることにはなりましたよね。
そうなんです。COVID-19は、わたしたちが、そのなかに暮らしていた「環境」というものについていかに無自覚であったか、いかに何も知らなかったかを強く気づかせてくれる契機であったのは間違いないと思います。例えば、昨年から、日本では盛んに「密」を避けるように言われ、「換気」というものの重要性が謳われていますが、今日たまたまある記事を読んだら、こんな一節があったんです。
「『厚生労働省に『換気はどのくらいのレベルをクリアすればいいのですか』と聞いてみたんです。そしたら「基準はありません」と言われました』。実態調査に動く予定もないとのことだった」(金志尚「『罰則は感染抑止に逆行』『接待を伴う飲食店』からの訴え」毎日新聞、2021/2/13)
──あ。ないのですね。
ないらしいんです。で、これを厚労省に問い合わせた方は、基準がないのだったら自分で調べてみるか、と、調査に乗り出したというのです。記事には、こうあります。
「二酸化炭素を測る装置を置き、1週間後に回収する地道な作業だ。併せて、客席や換気扇の位置など店の構造に関する聞き取りも行う。当面は80店舗を調査目標とし、データは国立保健医療科学院の研究班に提供。感染がどういう状況で起きやすいのか、その分析に役立ててもらうことになっている」
──へえ。面白いですね。これ、どなたがやっているのですか。
これが、「日本水商売協会」という組織なんですね。
──へえ!
記事は、この取り組みの主旨を、こう評価しています。
「感染対策の基準がなければ、どれだけやっても『正解』がない。それでは店によって対応にばらつきが出てしまう──そんな現状を是正するのが狙いだ。その上で国や自治体に対し、対策を評価する仕組みの構築を望んでいる」。
──ごもっともな意見ですよね。
せっかくですので、協会の代表の甲賀香織さんという方のコメントを引用しておきますね。
「ちゃんとやっている店には営業を許可し、できていないところには認めない。そんな形が理想だと考えています。今この状況でも来店するお客さんはそもそも感染リスクを気にしない人が多い。結果的に店が対策を徹底しようが、おろそかにしようが変わらないわけです。これでは対策の意味がないし、しっかりやっているところもやらなくなってしまう恐れもある。悪循環です。だからこそ、対策をきちんと評価してほしいのです」
──めちゃ真っ当ですね。
そう思います。
──基準がなければ「正解」もない。ということは、逆に言えば「不正解」もないことになりますから、責任も発生しないことになってしまう。日本では、コロナ対策に限らず、一事が万事こういう感じのように見えますね。
そうかもしれません。
──達成基準がないから、「努力した」「頑張っている」といったことが評価軸として入ってきたりしちゃうのでしょうね。
本当にそうですね。
──それこそオリンピックの開催について、バイデン大統領が「科学に基づき判断を」と言ったそうですが、それもまさに同じことですよね。
パンデミックがもたらした気づきは、わたしたち自身が、わたしたちの暮らしの内実を、実際には、ある意味、何も知らなかったということなのかも知れませんね。「換気が大事」と言われて、「はい、そうですね」と当たり前にそれを実行していたけれど、いざ、「どこまでやれば十分と言えるのか」という問いが提出されると、誰も答えをもっていない、と。
──面白いですね。
「家をもっとハッピーにする科学的な方法」という記事は、まさに、そうした私たちの思考の盲点のようなものを「家」というものとの関係性のなかで、「科学的」に見つめ直そうというものです。環境心理学という学問の研究者の意見が多く参照されていまして、空間内における自然光の量や、壁の色、木材の利用、匂いが、人の心理に与える影響を考察し、家をいかにして、より良い環境へと変えて行くことができるかが語られていますが、壁はライトグリーンにするといい、といった具体的なティップスもそれはそれで面白いのですが、もう少し大枠の議論のところがやはり面白いように思います。
──と言いますと。
例えば、あるカリフォルニア大学バークレー校のビルト・エンバイロメント研究センターの心理学教授リンジー・T・グレアムは、こんなことを言っています。
「わたしたちの社会的・個人的な関係性は真空のなかでおきているわけではなく、空間のなかで起きているのです。わたしたちがいる空間はわたしたち抜きでは存在しません。わたしたち自身が空間の反映であるならば、空間は人の内面から始まると言っていいのかもしれません」
──ははあ。なんだかエラく哲学的ですね。
ここでグレアム教授は、「空間」を「Space」という語でもって語っているのですが、この対話の前日である昨日(12日)、わたしがお手伝いしている「B Corp」に関する翻訳ゼミがあってその準備をしていたところ、「as if people and space mattered」という文章が出てきて、これをどう訳すか、なんてことを議論していたんです。
──それは奇遇ですね。どんな議論だったのですか?
普通に直訳すれば「人と空間が大事であるかのように」という感じになると思うのですが、これがB Corpという、社会的責任をまっとうすることを目指した企業のあり方をめぐる文章であることを考えると、「人」という語には、単に生物学的なヒトだけでなく、人と人との繋がりだったり、それが構成するコミュニティであったり社会が含まれるであろうことが想像されますので、ここでの「people」は、思い切って「社会」と訳した方がいいんじゃないか、なんて話をしていました。
──面白いですね。
もう一方の「place」には、当然、環境運動やエコロジーといった概念が示すところの「環境」という要素が含まれているのですが、ここでは、あえて「環境=environment」という語を使わずに、「place」と言っているところがミソだろうと考え、ここでの「place」は、まさに先ほどのグレアム教授が言ったように、わたしたち自身が空間の反映であり、逆もまた然りであるという相互性によって成り立っている空間である、という意味で、「風土」という語を当てるのはどうだ、なんていう話をしていました。
──ははあ。和辻哲郎ですか。
と言って、自分はお恥ずかしながら和辻先生の議論はよく知らないのですが、風土ということばには、その土地の固有性がニュアンスとして含まれていることと、それがある意味文化的な空間であることも含意されているように感じがするのですが、ここで言われている「place」にも、そうした含みがあるように思えるんですよね。人と人が醸す「空気」のようなものなども含んだ上での「place」なのではないか、と。
──「企業風土」なんていうことばが実際にはあるわけですしね。そういうものですよね。
おっしゃる通りですね。
──そうやって考えると、人と人は真空のなかに暮らしているわけではない、という先の大学の先生の指摘は、改めてちょっとハッとするところが、ありますよね。
「人間関係が悪くなると空気が淀む」みたいなことを、ただの気分の話としてではなく、より実体的なものとして把握していこうというのが、おそらくはいま空間をめぐる「科学」が俎上に乗せようとしているものなのだと思いますが、ここでも主題となる問いは何かと言えば、前々回でもお題となっていた「ウェルビーイング」なんですね。先のグレアム教授は、私たちがいま迎えている転換をこう問い直しています。
「いま誰しもがウェルビーイングやウェルネスや、いかにして人間(People)をよくすることができるかについて語っている。わたしたちは、いま、単に『生き延びる』こと以上のことを考えなくていけないところに来ている。わたしたちはより深く考えることができる。長く生きることが可能になり、単なる生存の要件としてだけでなく、空間をつくることができようになっている」
──逆に言えば、これまでの家やオフィスというのは、効率的な生存のための箱でしかなかった、ということにもなりますね。
おそらく、これまでずっと問いは提出されてきたのだろうとは思いますし、その都度デザインの改善などは行われてきたのだとは思いますが、それが必ずしも大きな転換をもたらしてこなかった、あるいは状況をむしろ悪化させたのは、これは自分の個人的な見立てですが、ある時期から「家」や「生活空間」が明確に資本主義的な欲望の対象として消費財にされていったからのように思います。というのも、グレアム先生は、これから家のリフォームに着手する人へのアドバイスとして「見た目やセンス」ではなく、自分が「空間にどのような心地よさや機能を求めるか」に正直に向きあうことが重要であると語っているのですが、これは取りもなおさず、わたしたちが、これまで自分の空間や所有物を、簡単にいうと「見栄」の対象として扱ってきたかを逆に物語っているように思います。先生は続けてこう語っています。
「わたし自身もそうだが、みなさんには、家が『正しいもの』であることを望む欲望を解きほどいて欲しいと思っています。『わたしが欲しがっていること』は必ずしも『わたしたちが感じていること/感じたいと思っていること』ではないのです。わたしたちは、もっと自分を心地よくしてくれるもの、こうあって欲しいと望むものやあり方に興味を向けるべきなのです」
──それこそ『コロナの迷宮』の第23話「ホームオフィスの含意」のなかで「こんまり」さんに言及した箇所で、同じことを指摘していましたね。「自分が『好き』だと思っているものが、案外、外からの要請や外に対する適応戦略を、さも自分の欲求であるかのように自分を偽ったものでしかないことは、少なからずあるはず」。
そうなんですね。ウェルビーイングやウェルネスというキーワードにおける重要なメッセージは、自分にとってのウェルネスやウェルビーイングがどういうものであるのかを「自己決定」できることであるはずです。ところが、その一方で、「科学性」のようなものを十分に考慮することも大事とされていまして、ここが実は難しいトレードオフになるというところは気をつけた方がいいと思います。
──先ほどチラとお話に出たように、「心理学的には壁の色はライトグリーンがいい」というようなことが規範化していったり制度化していったりすると、そこはただの「ウェルネスの牢獄」になりかねない、ということですよね。
はい。それはまさに前々回の「マインドフルネス」の話のなかでも触れたことでして、ある種の無垢な状態、完全であったり純粋であったり透明であったりする「いい状態」が、自分の外に設定されてしまうと、それが規範化され、それに到達することが目的となっていくようなことが起きると思うんですね。
──イヤですね。
で、実際、マインドフルネスの回でも触れたように、そうした「無垢さ」や「純粋さ」への信仰は瞑想アプリの広告などでは、結構蔓延しているように思いますし、エコロジー、環境保護といった議論においても、「自然の原初的な状態」というものに対する信仰というものは明確にあったりするのだと言われています。
──そうですか。
って、これは『「自然」という幻想──多自然ガーデニングによる新しい自然保護』(エマ・ハリス著、岸由二・小宮繁訳、草思社)という本からの受け売りなのですが、この本では「手つかずの自然=ウィルダネス」というものが、英国のロマン派に端を発し、それがエマーソンやソローといった詩人たちによってアメリカに根をおろし、さらにジョン・ミューアといった環境活動家によっていかにイデオロギーとしてフェティッシュ化されるにいたったかが明かされていてとても面白いのですが、こうした経緯からもわかるように、わたしたちの「自然」というものをめぐる認識や理解の仕方は、それ自体が普遍的なものではなく、極めて歴史的なものなんですね。
──なるほど。当然、そうした自然観とセットとして「人間かくあるべし」という規範も存在してきたということですよね。
はい。「原初」という名の完全無欠な状態があるというのは、少なくともこの本のなかでは否定されていまして、というのも、安定的な「原初の状態」というのはないと、ここでは考えられているからなんですね。つまり、生態系というのは、常に動的に動いているもので、人間がいようがいまいがそれは変わらないと言うんですが、そうだとすれば、環境保護は「過去の自然」を取り戻すことに主眼を置くのではなく、人間が存在し、人が常に自然を改変している状態において、自然を守ることを考えるべきだとするのが本書の主眼で、そこで提出されるのが、本書の原題である「Rambunctious Garden」という概念なんですね。
──はあ。
「Rambunctious」は「乱暴な」といった意味で、「Garden」はいうまでもなく「庭」。日本語では「多自然ガーデニング」と訳されるようでして、その細かい内実は実際に本を読んでいただけたらと思うのですが、ここで提起されていることの面白さは、自然・環境保護を「ガーデニング」のアナロジーで捉えていることで、かつ、それは欧州のつくり込まれた庭園ではなく、だいぶ適当にマネージされた庭をモチーフにしている点だと思います。著者のエマ・ハリスさんは実際、かなり乱暴に、こう言い放っています。
「私の希望は、もっとずっと多くの多自然ガーデンが雑草も抜かれぬまま、乱雑なままであれということだ。さらには、役立つことすらないままであってほしい」
──かなりヤケクソ感ありますね(笑)。
この話題を持ち出したのは、今回の〈Field Guides〉にまさに「庭」をテーマにした記事があるからなのですが、「ステレスと向き合うために人がガーデニングをするのかを科学する」(The science behind why people turn to gardening to cope with stress)という記事が面白いのは、冒頭で、著名な脳神経科医のオリヴァー・サックスのエッセイから「自然というものがどのようなやり方で、わたしたちの脳を鎮め、まとまりを与える効果を発揮するのかをはっきり言うことはできないのだが」という一文を引用し、こう、いきなり結論づけてしまっている点です。
「自然がわたしたちの健康やウェルビーイングにとってよいものであることに反対する人はほとんどいないにしても、サックス先生をもってしても、それがなぜ、どのようにいいのかはわかっていない」
──そっか。よくわからないのですね。
らしいんですよ。サックス先生をもってしても「自然は間違いなくわたしたちの奥底にある何かを呼び覚ます」と言うのがせいぜいでして、かつ、ここで先生が語っている自然というのは、植物園のようなものも含んでいますので、雄大で無垢な自然でさえないんです。ちょっとした鉢植えですら重要な意味をもつと言っているくらいです。
──なるほど。先ほどのエマ・ハリスさんの仰っていた「役立つことすらないままであってほしい」ということばと、自然が人間に及ぼす影響が「わからない」ということは、話としては、ちょっと繋がっているように感じますね。
そうなんですよね。この記事の面白いところは、ガーデニングは、ストレスを和らげることに間違いなく効果はあるはずなのだけれども、それがなぜかはわからないと言ってしまっているところです。つまり、それが、ガーデニングは科学的に「方法化」することが困難だということを意味するのだとすれば、ガーデニングを目的化することもフェティッシュ化することもできないということになるんですね。つまり、ガーデニングは、厳密には「役に立たない」という前提をもっていて、それを受け入れて、ただそれに参加するしかないというものだということになるように思うのですが、そうやって、ある意味合目的性を逃れうるという点に、大きな可能性が宿っていると見られているのではないかと感じるんですね。
──サックス先生は、「慢性神経疾患にとって決定的に重要な非薬学的なセラピーの手法はふたつしか知らない:音楽と庭だ」と語っています。
その一文、いいですよね。そうなんですよ。音楽が、その本質においてまさに非合目的的で、その非目的性をただ受け入れることにおいてしか、身を浸すことができないものであるように、庭というものと接することは、あらゆるものが科学の名の元、管理の対象となっていく世の中にあっては、それ自体がひとつの希望だと思うんです。
──それこそ、ブライアン・イーノが、インタビューのなかで仰ってましたね。「身を委ねる」ということは、「『世界は自分を中心に回っている』という考えを手放すことに関係している」のだ、と。
はい。同じインタビューでイーノは、「身を委ねることは負けを意味しているのではない。能動的な選択なんだ。違う形で世界と繋がるための選択なんだ」と語っていますが、これは、いままさにわたしたちが、自分たちの身体も含めた「自然」、もしくは自分たちがそのなかで暮らしている風土と、新しいやり方でつながる方法を模索している状況、つまり、コロナを受けて、いま改めてわたしたちが自分たちのいる環境を、「真空」なものとしてではなく、より実体的な何かとして捉え直そうとしている、その眼差しと重なるところがありそうですね。ようやく時代がイーノに追いついた、と。
──「これは40年くらいずっと言い続けていることなんだけど、今になってようやく、みんなこの考え方の核心を理解し始めたんじゃないかな(笑)」とご本人も仰ってますしね。
と、最後に、ここ最近で非常に気に入っている文章がありまして、これは美術家の岡崎乾二郎さんが書かれた文章で、豊田市美術館で2019〜2020年にかけて開催された展覧会のカタログに序文として掲載されたものなのですが、これが庭について触れたものなんです。非常に複雑な文章で、要約するのは難しいのですが、いいなと思う箇所を抜き出しておきますね。
──お願いします。
「こうした庭いじりが身体を伴う技術に似ているのか、庭を身体として捉えているだけなのか、わからないけれど、肝心なのは、そこで作者は主体ではなく、聞く側に立っているということである。結局のところ庭の美しさが、地面の上に表れた模様──姿にだけ見出されてしまうとしても、そのメッセージを理解するには、そこにメッセージを送り出しているところの土壌を少しでも知る、とりあえずは触れてみるしかない」(岡﨑乾二郎『視覚のカイソウ』ナナロク社、2020)
──非常に短絡的ですが、「聞く側に立っている」というところを読むと「音楽」と「庭」とが、なぜある種似た効果を人にもたらすのか、その秘密がちょっと見えて来そうな気もしますね。
今回の〈Field Guides〉を非常に図式的にまとめるなら、いまわたしたちが、自分たちの社会や風土を新たに見つめ直し、そのなかにもう一度わたしたち自身を置き直すことが必要であるなら、そのときわたしたちは、「聞く側」として、そこに身を置くべきということなのかもしれません。
──それこそ、森義朗元会長の騒動においても、実際に問われていたのは「聞く力」だったということもありますよね。自戒も込めてですが、「聞く力」、自信ないです。
わたしもないです。学んでいかないとですよね。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社を設立。NY在住のジャーナリスト 佐久間裕美子さんとともホストを務める「こんにちは未来」をはじめさまざまなポッドキャストもプロデュース。これまでの本連載を1冊にまとめた『だえん問答』も好評発売中。
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