A Guide to Guides
週刊だえん問答
週末のニュースレター「だえん問答」では、世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzの特集〈Field Guides〉から1つをピックアップし、編集者の若林恵さんが解題します。今週は「2021年の旅」と題した特集について。コロナが国境線を閉ざす一方で、世界への眼差しはどう変化し、どう補完されていくことになるのでしょうか。
──こんにちは。
はい。ご苦労さまです。
──今回の〈Field Guides〉のお題は「旅行」(travel)ですが、お得意のテーマではないですか。
そう思いますか? 特に旅行好きというタイプでもないですよ。
──あれ? しょっちゅう海外にも行かれていたじゃないですか?
仕事だから行きますが、好きというわけでもないんです。出張前はだいたい行くのが嫌で、遠足に行く前の小学生みたいな感じです。
──その使い方、間違ってますよ(苦笑)。「遠足に行く前の小学生」は、ウキウキしている状態を指します。
あ、そうですか。「うー、行きたくねえ」と駄々をこねる感じではないんですね。
──違います。そういう小学生だったんですか?
わりと保守的かつ繊細なものですから、知らない場所に行くのが苦手なんです。食事でも、新しいお店に入ることだとかが結構苦痛で。海外に行くと、いつも食事するのがストレスで、結局ファストフードで済ましたりします。
──残念ですね。食事は旅の最大の楽しみじゃないですか。
もちろんそうです。コロナ前には、自社の企画で「イノベーションツアー」のような旅のプログラムを毎年1〜2回とやっていましたが、そこで企画する側として学んだのは、顧客満足度をあげるためには、とにかく食事が大事だということでして、特に最終日の夕飯のクオリティは非常に大事なんです(笑)。
──終わり良ければ全てよし、と(笑)。
そうなんです。ですから、旅においては、食事を念入りに企画しておいた方がいいということはよくわかってはいるつもりなのですが、自分ひとりで行く際には、どうしてもそういうアタマにならないんですよね。
──旅先で印象に残っている食事とかあります?
随分昔に、かつて文藝春秋社から刊行されていた『TITLE』という雑誌で、「音楽とコーヒー」という特集をお手伝いした際にパリに行ったのですが、そのときは、音楽レーベルの方とふたりで滞在したのですが、適当に入ったお店がどれもアタリで、めちゃくちゃ楽しかったですね。最初の晩がエチオピア料理、二晩目がクロアチア料理、三日目がバスク料理でしたが、どれも食べたことないものでしたが、ほんとうに美味しかったです。
──出会い頭に入ったお店がアタリだとテンションあがりますよね。
そうやって思い返すと、ほかにも思い出深い料理は、言われてみればたくさんありますね。それらが、もしかしたら二度と食べることのない料理かもしれないと思うと、余計、貴重な思い出ですね。
Travel in 2021
海外旅行の「経験」
──そう考えると、旅って、なんというか不思議なものですね。どうして人は旅をするのでしょうね?
さあ、なんででしょうね。昔、なにかの本で、それこそ中世のヨーロッパの話だったと思うのですが、「商人」というものは極めて胡散臭いものだと考えられていたということを読んだ記憶があるのですが、それはたしかにそうなんだろうなと思うんですね。というのも、商人というものは、こっちで安く買ってきたものをあっちで高く売る、というようなことをやるわけで、言うなればモノの価値体系が異なる共同体を行き来して、その価値体系の差分を利得として得るわけですから、そこには常に情報操作という側面があるわけですね。
──ウーパールーパーでもタピオカでもなんでもいいですが、例えば海外から新しい何かをもってきて、その商品の価値設定がない空間において、無理やりその価値を説得するという作業ですもんね。
はい。それがいかに貴重なものか、あるいは、ユニークな価値をもったものか、あるときには嘘八百を並べながら、無理やり価値化するわけですし、それが中世のような時代であれば、多くの人は、その情報の真偽は確かめようがないでしょうから、まあ、基本うさんくさいわけですよね(笑)。
──たしかに。
ですから、商人は山師、詐欺師と同等というものだった可能性はありまして、そんなことを言うと真面目なビジネスマンには怒られるかもしれませんが、ある年配の商社の方に聞いたところでは、入社したころには、「商社の仕事は基本3つ。詐欺。恫喝。売春だ」といった教えが先輩筋から脈々と伝わっていたそうですよ(笑)。
──いま、そんなことを社内で言おうものなら、即刻クビが飛びそうですが(笑)。
とはいえ、情報が少なかった時代には、旅をして何かを見聞きしてきた人というのは、それ自体が希少価値をもっているわけで、であればこそ、その人は、情報を自分の都合のいいように出し入れすることで、権力ともなり得たわけですよね。いずれにせよ、中世の時代の旅路というものが非常に危険の多いものだったというのはきっとそうで、山師、詐欺師、盗人、追い剥ぎなどが跋扈するような、そういう空間だったと見られています。いま、ちょうど手元に、中世の巡礼道について書かれた本がありますので、ちょっと引用しておきますね。
──いいですね。
「中世の巡礼は、命がけだ。巡礼者は多かれ少なかれ、なけなしの財産を身に着けている。巡礼道には追い剥ぎが出没し、身ぐるみ剥がされた屍が街道脇に転がっていたという」
──なるほど。これは、なんという本からの抜粋ですか?
星野博美さんの『旅ごころはリュートに乗って 歌がみちびく中世巡礼』という本です。星野さんはノンフィクションライターで、あるとき思い立ってギターの原型ともなる古楽器のリュートを自ら習うようになるのですが、リュートを学んでいくなかで中世ヨーロッパの世界にのめりこんで行った経緯や、その間に考えたことなどを綴った非常に面白いエッセイ集で。
──いいですね。自分のイメージですと、その当時のヨーロッパはいわゆる城壁で守られた都市を街道が繋いでいるというかたちだったように思うのですが、その城壁から外に出て「路上」に身を置くというのは、文字通り、無法地帯に身を置くようなことだったのかもしれませんね。
堀田善衛さんの名作『路上の人』は、中世を舞台に、まさにそのことをテーマにした本で、個人的には大好きな本なのですが、いま、おっしゃった無法地帯というのは、堀田先生の本のなかでは、ローマカトリックがかたちづくった世界からはみ出した空間を意味していて、ここでは、カタリ派と呼ばれるキリスト教の異端宗派が問題として扱われています。非常に面白い本で、スタジオジブリが映画化するという話が随分長いことあったように記憶していますが、ボツになったのかもしれません。ちなみに佐藤賢一さんというフランスを舞台にした歴史小説ばかりを書いていらっしゃる小説家さんがいらっしゃいますが、『オクシタニア』という作品もカタリ派を題材にした作品です。
──へえ。
すっかり脱線してしまいましたが、要は、ここで何が言いたかったかと言いますと、「国家」という考えが出てきて、国の経済・財政という論点が出てくるようになりますと、都市や町々の「自由な往来」がもたらす商業の活性化を促していくことは、重要な政策になってくるんですね。
──なるほど。無法地帯を合法化していく、と。
はい。ただし、とはいえ、路上には、相変わらずうさんくさい連中が往来しているわけですから、完全に自由にするといろんな面でリスクも高まりますので、誰が往来できるのかをちゃんと管理する必要も出てくることになります。いわゆる「ボーダーコントロール」という概念ですが、日本の江戸時代ですと「関所」というのが、それにあたるわけですよね。
──ははあ。そのお話は、例えばインターネットという「路上」を合法的なものとしてどう整備するのかということや、あるいは、今回のお題である「コロナ後の世界のボーダーコントロール」といった問題とも一直線につながっていますね。「自由な旅」がもたらすリスクと「経済」のトレードオフは、まさに「GoTo」に見られたトレードオフでもあるわけですし。
中国では市民を感染リスク別に「赤・黄・緑」の3種類に分類し、都市を出入りする人をQRコードを用いて管理しているそうですが、これがまさに江戸時代における「鑑札」にあたるわけですね。
──「COVID-19ワクチン・パスポート、2021年の開発状況」(The Covid-19 vaccine passports in development for 2021)という記事では、まさに国家間の人の往来を再開するためのパスポートをさまざまな主体が開発にあたっている状況が報告されています。
はい。ここではエティハド航空とエミレーツ航空が共同で開発しているシステムや、世界経済フォーラムが中心となったもの、あるいはシンガポール航空が現在運用しているもの、アメリカで運用されているものなどが紹介されていますが、言うまでもなく、こうした仕組みは、飛行機が発着する国の双方が同じシステムを導入していないと意味がありませんから、全世界で単一の仕組みを導入するか、あるいは、それぞれ好きなシステムを導入したとしても、システム間の相互運用性が確保されることが必要となります。
──かなりややこしそうですね。
はい。各国、あるいは国際機関の間には、当然政治的な思惑が控えており、それらが複雑に錯綜していますから「スタンダード化」のための国際合意にいたるにあたって、相当の困難が待ち構えていると記事は分析しています。
──ふむ。
この記事で面白いのは、そもそもいま運用されているパスポートのスタンドードが、いつ、どのように合意されたかを振り返った箇所でして、こんなふうに記述されています。
「COVID-19ヘルス・パスポートをめぐる議論は、1920年代に国際連盟がパスポートの規格化を呼びかけた際に起きていた問題によく似ている。第一次大戦後、欧州内に鉄道産業が花開いたことで、国境管理官は、旅行者たちが提示する多種多様な認証、ブックレット、パンフレットの類に埋め尽くされることとなった。国際連盟は、この問題を『ノーマルな交流の再開、さらに世界の経済復興を阻む深刻な障壁となっている』と呼んだ。1920年、『パスポート・税関書類・越境チケットに関するパリ会議』が開催され、わたしたちがいま利用しているパスポートのサイズ・レイアウト、グラフィックデザインが合意された」
──なるほど。面白いですね。よく映画なんかでスパイが偽造パスポートを何冊も貸金庫に隠していたりするシーンがありますが、サイズが揃っていることを特に不思議にも思ってきませんでしたが、考えてみたら全世界で同じ規格になっているのは、すごいと言いますか、改めて、そうやって合意を取り付けるのは大変だな、と思ってしまいます。しかも、いまのパスポートの雛形が100年前のものだというのも驚きです。
当時の世界情勢がどういうものか、あまり詳しくは理解していませんが、国際連盟が当時のアメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンによって提唱されたのが第一次大戦中の1918年で、その骨子となったのが「14か条の平和原則」というものだったと言いますから、初めての「世界戦争」がもたらしたショックが、少なくとも欧米諸国では、大きな傷として残ったのではないかと想像されます。実際、その戦死者の数は、戦闘員・非戦闘員を合わせると3,700万人とされているそうです。ちなみに第二次大戦については、当時起きた飢饉などの犠牲者も含めると全世界で5,000万〜8,000万人だったとWikipediaにはあります。
──コロナウィルスによる全世界の死者数は、2月20日時点で約245万人とありますが、それと比べる意味はないとはいえ、恐るべき数ですね。
ここで注目しておきたいのは、第一次大戦についていえば、日本の死者数は415人と、ほとんど犠牲者が出ていないことです。欧米諸国が戦争からの「復興」を思い描いた際に、「こういうことが起きないように国際関係を調停する機関が必要だ」と切実に考えたモチベーションが、日本ではもしかすると同様の切実さをもって体感できていなかったのではないか、と想像してしまうのは、実はコロナ対策においても重なる部分があるようにも思えるからです。
──ふむ。
今回の〈Field Guides〉を読んでいて一番ハッとした記述は、「COVID-19のなか、対面イベントを再開するために必要なこと」(What will it take for in-person events to return during Covid-19?)という記事のなかにあった、テニスの全豪オープンに関するものでした。
──はあ。
テニスの全豪オープンは参加する選手・スタッフ全員をチャーター便で国内に移動させるという徹底したバブリングを行ったものの、飛行機の乗客のなかに感染者がいたことで、同乗した選手・スタッフなどが2週間のロックダウン状態に置かれました。外に出られず、練習もできず、かつ、食事もまずいといったことから、選手たちからの非難の声があがったのですが、それが逆にオーストラリア国民から大きな反発を受けたりもしたそうです。
──ふむ。
記事では、ある選手とオーストラリア市民のTwitter上でのやりとりが紹介されているのですが、文句を言った選手が市民の反発を受けて謝罪し、それを受けて、ある市民がこう返しています。
「選手:先ほどの(すでに削除した)ツイートについて、オーストラリアのみなさんにはお詫びをしなくてはならないと感じています。私のみっともない投稿に対するあなたの反応によって、みなさんがこの1年の間、どれほどの苦難を通り抜けてきたかに気づかされました。私自身が、この状況が不安だったのだと思います。口をつぐむことにします。
市民:ありがとうございます。メルボルンのわたしたちは、つい最近も114日間にわたる厳格なロックダウンを経て、まだそこから立ち直っているさなかです。あなたを乗せた飛行機がウイルスを運んできたことで、また同じことを繰り返すのを、わたしたちはとても恐れています。隔離はつらいものですがやる意味はあるのです」
──なるほど。本当に興味深いやりとりですね。
そうなんです。ここでハッとさせられたのは、「経験」の重さと言いますか、それがもたらした「傷の深さ」の重大さに、気づかされるからなんです。オーストラリアのロックダウンがどの程度の厳しさであったのかをわたしたちは、もしかいたら情報として知ることはあっても、それがどれほどしんどくて苦しいものであったか、ということには、なかなか思いいたることができないのですね。というのを、1年も経たいま気づくというのも、実に間抜けな恥ずかしい話なのですが。
──特に日本は欧米と比べると感染者数・死者数も少ないですし、対策も微温的なものばかりで基本個々人任せですから、海外の状況や、それがもたらす物理的・心理的、あるいは経済的な圧迫のようなものに思いをいたすことが難しいですね。
そうなんです。このコメントを見て気づかされるのは、日本においては、パンデミックという非常事態が、あらゆる人にとって共通の「体験」になっていないのかもしれないな、ということなんですよね。
──人によって、捉え方が、完全にまちまちですもんね。
そうなんです。もちろん身近な人を亡くしたり、商売を廃業に追い込まれたりした方もたくさんいらっしゃるわけですし、医療従事者のみなさんがとことん疲弊している状況もあると言われていますが、そうした状況を目の当たりにするような機会がなければ、パンデミックの恐怖というものがあったとしても、それは抽象的なものでしかないわけですよね。
──さっきのテニスの選手も、自分が隔離されて初めて事態に気づくことになったわけですものね。
そういう意味でいえば、コロナ禍というのは、必ずしも「共通の体験」ではないんですね。例えば、地震の場合には、実際に地面が揺れて、広範なエリアにおいて多くの人が同じような経験をしますよね。その恐怖の記憶が共有されていればこそ、未来に向けた対策の方向付けも明確になりうるのだと思いますし、先の国際連盟も、「あれは二度と繰り返したくない」という思いが共有されていればこそ、多くの国が合意にいたることができたようにも思うんです。
──コロナ禍については、それが「全人類的な災厄である」ということがよく語られますし、実際、そうだと思いこそすれ、どんどん、その認識が緩んでいる感覚は、たしかにありますね。
そうなんです。実は、先日、英国のミュージシャンに演奏のライヴ配信をお願いする機会があったのですが、英国のロックダウンの状況下では、そもそもバンドも、撮影クルーも集まることが大前提として難しい、という返事をいただきまして、自分の甘さを指摘されたようで、恥ずかしい思いをしたんです。全然想像が及んでいなかったんです。想像力がまったく欠如していたことに、われながら強いショックを受けたんですね。
──とはいえ、日本においては、総理大臣を筆頭に政治家が率先して会食したりして、自ら発した「緊急事態」を、自らの手でなし崩しにしているわけですから、日本での「コロナ体験」が共有化されないのもやむなし、という気もしますが。
そのことを言い訳にはしたくないとも思うのですが、いまわたしがお話したような「切実さ」のズレみたいなものが、もしかしたら国家レベルで起きている可能性があるというところは、たしかに怖いところです。先に紹介した「COVID-19のなか、対面イベントを再開するために必要なこと」の記事には、当然のこととして東京オリンピックのことが触れられていますが、政府や組織委員会が語る「安心安全」が、どこまで海外で考えられている「安心安全」と揃っているのか、不安なところもあります。記事は、菅首相の経済アドバイザーとして影響力をもつ人物として、サントリーの新浪剛史社長が、この1月末にアメリカのCBSと行ったインタビューを紹介していますが、そのなかで新浪社長はオリンピックが実現するためには、少なくとも4つの条件をクリアしなくてはならないとしています。
──ほお。
お題目だけ並べると、以下となります。
- 感染の広がりをコントロールすること
- 参加者全員がコンタクトトレーシングアプリを携行すること
- ワクチン接種が遅くとも2月中に「必ず」始まること
- 開催までの期間のうちに他のイベント(プロ野球等)で実験が行われること
──ええと。これが最低条件であるなら、すでに相当ビハインドと言っていいのではないですかね。ここで新浪社長がおっしゃっているアプリは、まさか悪名高き「COCOA」じゃないですよね?
2週間ほど前にIOCが発表した東京オリンピックの「プレイブック」によれば「COCOA」と書かれていますね。
──え〜〜〜〜〜〜マジすか。
そうなりますよね。結局、よくわからないんですよね。IOCも日本政府も、参加者のワクチン接種は義務化しないとしていますから、だとすれば、いざ感染者が出たときにアプリだけが頼みになるはずであるのに、それを改善して万全な状態でオリンピックを迎えようとならなくてはいけないはずなのに、とてもそうした切実さのなかで運用されているようには見えませんから、オリンピックを本当にやりたいのか、それともやりたいフリだけして実際はサボタージュしているのか、まったくよくわかりません。
──この連載の前々回でも、全豪オープンの主催者が「アドバイスをくれ」と問い合わせてきたJOC関係者に、「グッドラックと答えた」というくだりを紹介しましたが、オリンピックは全豪オープンと比べて桁違いの規模で、それをパンデミックのさなかに行うのは未曾有のチャレンジになるはずだというのに、全体に呑気な感じですよね。ワクチン接種もずるずると期日が後退しているわけですし。
旅行といえば、アメリカでも上院議員のテッド・クルーズが、地元テキサスが寒波と電力網の崩壊で死者が多数出ているなか、娘たちを連れてメキシコのカンクンに旅行に行ったことで大炎上していますが、緊急事態と言いながらステーキを食べている人たちと本当に似たりよったりだなと呆れてしまいますが、ここでもやっぱり、上院議員の寒波の「経験」が、市井で本当にシビアな状況に直面している人びとの「経験」から激しく乖離して、もはや想像力が及ばないまでになっていることを思い知らされますね。
──代議士が地元が苦しんでいるときに地元を離れて異国のリゾートに行ったら、それは集中砲火浴びるだろうということは、想像できそうなものですけどね。
クルーズは、「旅行の最中も地元政府と緊密に連絡を取って、電力グリッドの崩壊の原因を探っていた」といった弁明をしていますが、CNNのエディター・アット・ラージは、「電力の専門家ではないクルーズに誰も電力の復旧を期待しているわけではない。人びとが政治家に求めているのは、安心と保証である」と語っています。
──おっしゃる通りですね。
つまり、ここでもやはり「経験」の共有というものが大事なんだと思うんです。政治家が被災現場を訪れることの意味は、現場を訪れることによって適切な対策を講じることよりも、むしろ、「ひどい目にあっているわたしたちの現実を見てくれ、現場でその困難を感じてくれ」という思いに応えることにある、とおそらくこの論考は言っているのだと思いますし、その「経験」の基盤があってこそ、その後の補償を含めた対策が意味のあるものになると期待されるからなんだと思います。
──ある意味ウェットな部分に応えるということですよね。
たしかにそれは非常にウェットな話ですし、なんなら浪花節であるかもしれませんが、とはいえ、「合意」「信頼」というものの基盤には、やはり「経験」が共有化されていくことが重要ではあるように思うんですね。
──たしかに。
ちなみにテッド・クルーズの件で株を上げたのはカントリー歌手のケイシー・マスグレイブで、彼女はクルーズの問題が発覚するや否や、即座に彼を揶揄した「Cruzin’ for a Bruzin’」という文言がプリントされたTシャツの予約販売を開始し、その売り上げを、地元の支援団体に寄付することを発表しました。自分も早速買ってみましたが、予約は本日日曜いっぱいとのことですので興味ある方は、ぜひお急ぎください。
──なるほど。テキサス市民として、地元と経験をともにする感じはたしかにありますね。
そうなんですよね。最後に旅行ということに関して、もうひとつ中国の状況をレポートした「愛国ツアーに週休3日:国内旅行を盛り上げる中国都市」(Patriotic tours and four-day weeks: How China’s cities are promoting local travel)という記事によれば、海外旅行が難しいなか中国は、各都市が競って国内旅行を推奨しており、そうしたなか共産党の歴史的な場所や遺構を訪ねる「愛国ツアー」が盛り上がっているらしいのですが、旅行を、単に経済復興のトリガーにするだけでなく、共産党への共感を高めるドライバーとして利用しようというしたたかさは、さすがだなと感じ入ります。それがいいとは、あんまり思いませんが。
──でも、やっぱり旅というのは、実際の「経験」を通じて、人のなかに理解や認識をつくりあげていくものではあるわけですから、いい意味でも悪い意味でも、パワフルなツールではあるわけですよね。
おっしゃる通りですね。いまからちょうど100年前にこれまで人類が経験したことのないような酷い戦争を「経験」したことで、各国の利害を調整・調停する「国際機関」といったものが生まれ、「世界市民」といった感覚が生まれでるようになったことで、旅行といったものを通じて「世界を知る」ことの意味や意義は大きく広がった、といったことがあったようにも思えます。戦後の日本でも、国際社会への復帰と、海外旅行の自由化は切っても切れない縁はあったはずですし、日本が国際舞台に返り咲くきっかけとしての1964年の東京オリンピックは、観光のデスティネーションとして日本という土地をプロモートする意味も含まれていたわけですよね。つまり、海外旅行を活性化することは、「国際社会」というものにコミットすることだ、という含意が、きっとどこかに含まれていたはずなんです。
──なるほど。
ところが、いま、世界を見渡してみますと、「国際機関」といったものの正当性が、どんどん失われているようにも見えるんですね。この間のコロナの問題を見ても、WHOへの不信感は根強くありますし、オリンピックの問題についても、IOCのいい加減さには多くの日本人も呆れているはずです。国連ですら、長いこと、その意義については疑問符がつけられていますし、一方で、世界経済フォーラムのような民間の国際機関も、何かと批判にさらされています。
──言われてみると、そうですね。「国際性」とか「国際的」といったことばは、ある時期までは、それ自体がちょっと煌めいていたところがあったように思いますが、いま、あんまり魅力のあることばとはいえなくなっちゃいましたね。なんだか古ぼけて煤けたことばになってしまった印象です。
国家というものを基軸としていた「国際社会」が、経済を基軸とした「グローバル社会」に取って変わられたあたりで、もしかしたら「国際=インターナショナル」という概念の命脈は尽きていたのかもしれませんし、その頃から、実は「海外旅行」というものの意義の設定も、微妙に変容していたのかもしれません。
──面白いですね。日本の若者が海外に興味を持たなくなった、といったことはよく指摘されることですが、マクロな視点で見ると、そういうことが影響しているのかもしれませんね。
おっさんの昔話で恐縮ですが、わたしが学生のころなんかは、バックパックで世界を旅するような学生の貧乏旅行は、「すべきもの」という了解がまだ色濃く残っていまして、もちろん強制力があったわけではありませんが、それなりの圧でのしかかっていたような気はするんです。それも誂えのパック旅行ではダメで、ヒリヒリするような世界のリアルを見てこないとダメだ、といった感じは、あったんですよね。それこそ沢木耕太郎さんや藤原新也さんの本なんかが、まだ非常に大きな影響力ももっていましたし。
──インドに行かないとダメ、みたいなノリですね。
はい。自分はどっちかといえば、高級ホテルでのんびり過ごしたいタイプですから、そのノリが苦手だったんですが、それでもやっぱり「海外に行って世界を見てくることは大事なんだ」ということは、半ば自明のこととして信じて育ったようには思います。
──でも、いつからか、その圧があんまり作動しなくなったということですよね。面白いですね。
そうなんですよね。逆にいえば、いま、海外旅行に行く意味って何なのだろう?という話でもあるかと思うのですが、この問いに、いま説得力のある答えを見出すのは案外難しいのかもしれませんよ。
──たしかに。海外のリアルな情報もSNSで取れますよ、となれば、まあ、行かなくてもいいといえばいいわけですし。
ただ、そのひとつの帰結として、「海外にいる友達に会いに行った」というような旅行は増えているような気がしなくもありません。いずれにせよ、それって、もうすでにかつて言われた「海外旅行」とはまったく違うものですよね。そこにコロナによる「体験」が加わることで、「海外旅行」というものの意義や、その根拠もまた大きく変わってくることになるのかもしれません。観光立国を謳っていた日本としては、本来であれば、そうした変化にも十分に目を凝らしておく必要があるのではないかと思ったりはしますが。
若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社を設立。NY在住のジャーナリスト 佐久間裕美子さんとともホストを務める「こんにちは未来」をはじめさまざまなポッドキャストもプロデュース。これまでの本連載を1冊にまとめた『だえん問答』も好評発売中。
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