Guides:#87 アンフレンディングの厄介

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週刊だえん問答

世界がいま何に注目しどう論じているのか、米国版Quartzが取り上げている「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが「架空対談」形式で解題する週末ニュースレター。毎週更新している本連載のためのプレイリスト(Apple Music)もご一緒にどうぞ。

To unfriend or not to unfriend

アンフレンドの厄介

Image: Giphy

──こんにちは。ご機嫌いかがですか?

すでになんだか疲れが溜まっていまして、今日はわりとどんよりしております。

──忙しいんですね。

どうなんでしょう。自分が忙しいのかどうかは、あまり考えないようにしています。日々の仕事を、できる範囲でこなしていっているという感じです。いろんなことを考えないといけないのが、面白いは面白いのですが、頭のなかはごちゃごちゃになりますね。

──最近は何がお題なんですか?

そうですね。「NFTとはなんぞ?」について考えたりする一方で、サイバーセキュリティ業界についてリサーチをしたり、クラウドファンディングの先行きについて考えたり、その延長線上で著作権について本を読んでみたり、企業R&Dの今後について人とディスカッションしたりのほか、いくつかのメディアの展開について企画を立てたりといった感じです。

──わけわかんないですね。

ほんとうにそうなんです。

──サイバーセキュリティなんてお題は、基本、興味もなさそうじゃないですか。

そこなんですよね。自分としてはまったく関わりもないですし、どういう業界なのかも知りませんし、そもそもロクに企業に務めていたこともないので、いったいなんでそんな仕事が来るのかもよくわからないのですが、とはいえ、自分にまったく知識がなかったり、まるで姿が見えないある領域に恐る恐る入っていって、次第に視界が晴れてくるようになるというプロセスは常に面白いものですし、おそらくそれが好きなんですね。

──わかってきた、見えてきたぞ、という感覚が、どこかで生まれてくるわけですね。

そうですね。そのスキルと言いますか、そのプロセスをいかに効率的にやるか、ということについては、毎週この連載をやっていることが大いに役立ってはいまして、唐突に与えられた「」とか「豊尻」といったお題について、えいやで調べていくと問題系が次第に浮かび上がってきて、点だったものが面になって見えてくる、というか、その面が見えてくるまで調べるということを毎週やっていると、少なくともそのプロセスを楽しめるようにはなってきます。

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──実際、そのリサーチは、毎回どうやっているんですか?

そんなに難しいことはなくて、この連載ですと、まずはお題のきっかけになっている記事/レターがありますので、それを読みながら記事内に貼られているリンクを端から開いていきます。それだけで参照元が、大体10〜20くらいに広がることになりまして、今度はそれらをざっと見ながら、さらにそこに貼られているリンクを開いていったりしていくと、あるお題についての、基本的な議論の道筋のようなものが見えてくるんですね。

──ほほう。

というのも、Quartzのようなメディア企業が提供する記事では、あるお題を選ぶにあたっては、必ず先行する記事やレポートがあったりするものでして、色々見ていくと、あるテーマ系についての基礎的な情報や議論の方向性が、過去にあったひとつの記事やリサーチをベースにしていることがわかったり、ある人物の見解が大きくそこに影響していたりすることが見えてきます。つまり情報が連関しあいながら、言うなれば網の目のようなものを構成していることが見えてくるんですね。ですから、ここでは、リンクというものがとても重要でして、それが、あるテーマについての「網」を生み出す重要なものとなっています。

──なるほど。

これは本を読む際でもとても重要で、ある本を面白いと思ったら、次に読むべき本は、参考文献リストから探すのが極めて妥当なんです。少なくとも、その参考文献リストが構成する網のなかに、あなたが面白いと思った本は置かれているわけですので、ウェブ記事同様、一冊一冊の本も、テーマの網、つまりそれが構成しているネットワークのなかにおいて捉えると、もっと面白くなるのかなと思ったりはします。

──そうか。参考文献リストは、それ自体がネットワークなんですね。

というふうに考えるクセを自分についてしまった、ということだけなのかもしれませんが、ずいぶん昔に音楽家のジム・オルークさんにインタビューしたことがありまして、「現代音楽や前衛音楽にどうやってハマっていったんですか?」という質問をしましたら、フランク・ザッパの「フリークアウト」というアルバムの裏ジャケにザッパ自身が影響を受けた音楽家が列挙されていて、それを端から図書館で借りたりしながら聴いていったとおっしゃっていて、それにとても共感したことを覚えています。

──ザッパを中心とした固有名詞のネットワークを把握していく、と。

そうですね。そういう観点からも、「クレジット」って大事なんです。本でいえば、誰のことばや本が引用されているのかだけでなく、誰が編集を担当したのかとか、誰がデザインを担当したのか、といった情報も、テーマの網を構成する重要な点なんですよね。

──音楽でいうと、プロデューサーやエンジニアの存在が、ある作品を捉える上で重要だったりするのと同じことですよね。

そうですね。というわけで、毎回、そんなやり方でこの連載を書いていくので、原稿が書き上がった時点で、ウェブブラウザ上に、40〜50のタブが開いていることになるのですが、とはいえ、実際に言及するのは、5個くらいだったりしますので、効率がいい作業というわけでもないとは思います。

──そうやって50個開いたタブのなかから、これは大事だなと思う記事は、どうやって選び出すんでしょう。

基本的には「これは面白い」と感じたものが選ばれることとなるのですが、この「面白い」の基準がどういうものかをごくごく簡単にいいますと、人に話して面白いかどうか、なのではないかと思います。

──ふむ。

これもずいぶん以前に何かのメディアで読んだことなのですが、あるアメリカの名編集長が、1号の雑誌のなかに「パーティで話すことのできるような話題を、必ず3つ入れる」と言っていまして、これには、なるほどなと納得したことがあります。

──そうですか。

これは単なるゴシップを扱えばいいというものではなく、もうちょっと角度が必要なんですね。というのも、このことばのミソは、舞台が「パーティ」であるところで、必ずしも親しいわけでもない、場合によっては初対面の人とのやりとりが想定されていまして、そうであればこそ、ただ「こういうニュースがありましたね」では物足りないでしょうし、といっていきなり、ある出来事やニュースについての是非や好悪を語るのも踏み込みすぎ、となるわけですね。

──なるほど。

たまたま先日ある友人と今となってはすでに懐かしい小室圭さんについてちょっとした会話をしたのですが、それが海外の床屋事情についての話題だったんです。例えばある会合で、小室圭さんのことが話題になったとして、パーティや会合の席でいきなり皇族の継承問題や女系天皇の是非に踏み込むのが野暮であるなら、小室圭さんの髪型をダシにして、ニューヨークの床屋事情や、弁護士事務所とロン毛といった話題を持ち出すことができるとしたら、それは「ちょっと面白い話」になったりするわけですね。

──他愛もない話ではあるとはいえ、たしかに角度はありますね。

同じように「NFTってどうよ」みたいな話題になったときに、自分の立場なり見解を開陳する手前に、さまざまな「面白い話」がありえるはずで、そうしたものを交換しあう限りにおいては、いきなり「意見」をぶつけ合うといったことにはならずに済むはずですし、とくに雑誌メディアが提供する情報というのはそういうものだ、というのが先の名編集長のことばの含意だと思うんです。

──特に新聞やテレビは真正面から大上段に、あるニュースを評価しますが、もうちょっと違う角度から、そのニュースなり出来事に膨らみを与えていこうということですね。

はい。ソーシャルメディアの一般化以降、人は世の中のあらゆる出来事について立場を表明しなくてはならないという前提がなんとなく一般化してしまい、そうなればなるほどに、人は自分の立場や視点を強く信念化していくようになってしまいます。そうした環境にあってメディアは、それを一層強化するような方向に進んでしまっていますが、本来は、そうした信念化を緩和する方向に作用すべきようにも思うんですね。そうでないと、メディア企業は、ソーシャルメディア上の罵り合いをただただ加速させていくだけになってしまいますので。

──いや、ほんとですね。

前回か前々回にNetflixで配信されている「ドント・ルック・アップ」という映画についてちらとお話ししたと思うのですが、この作品は、ある意味、そうしたメディア環境におけるメディア人のダメさをよく表しているように思えて、だいぶげんなりしてしまったんですね。

というのも、この映画は、リベラル寄りの制作者、出演者が一丸となって、トランピストや反ワクチン的な人びとを嘲ることに執心したもので、その内輪受けな雰囲気も含め、ちょっと嫌な気持ちになるものなんです。もちろん、それなりにリベラル陣営自体を自虐的に風刺化したところもあるのですが、それにもどこかあざとさが感じられてしまうもので、『The Guardian』は、そうした点も含めてこっぴどく、この作品をこき下ろしています

アダム・マッケイの脚本は、観客がそれを理解できないほど愚かであることを前提にした高飛車な優越感から当たり前のことを述べるばかりで、説得すべき対象である人びとを逆に追い払ってしまう。(中略)

マッケイはあまりに臆面もなくそうした侮蔑を表明するので、この映画がいったい誰のためのものなのかすらわからなくなる。その嫌味な自画自賛に共感する人たちがいるとしたら、本来は自分たちと似た立場にいるはずの人たちを優越感をもって排除する、リベラル陣営のある一部の人たちくらいだろう。

この歯切れの悪いコメディは、良識あるはずの年配の親戚がFacebookに投稿した政治的ミームと同じ感触をもって届けられるのだが、そこにはなんの批評性もなく、こうした手合いはほんとにウザいなということをみなに再確認させることにしか役に立たない。

──あはは。手厳しいですね。にしても、おっさんのうざい投稿のうざさって、あれ、なんなんでしょうね。かつて大新聞と呼ばれた新聞の論説のうざさにも似ているかもしれませんが。

自分もいいおっさんで、そうした手合いとなんら変わらないといえばきっとそうなので、人のことをいえた義理ではないのですが、問題は語っている内容ではなく、やはり、そのスタンスなんでしょうね。難しいものですね。

──いいスタンスの人ってなかなかいないものですね。

最近、知人と千葉雅也さんのTwitterの投稿が優れているのではないかと話していたのですが、いずれにせよ、ここまでの話題は実は本題と関係していまして、そのお題というのが〈Unfriending〉というものなんです。

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──アンフレンディング?

「友だちを止める」ということです。なぜこれが特集になっているのかを理解しておくために、まずは冒頭のイントロダクションを見てみましょう。

ソーシャルメディアは、現代における街頭演説のようなものであり、パンデミックによってみなが家に閉じこもっているいま、わたしたちのニュースフィードは問題発言や暴言で溢れかえるようになった。高校の同級生が「イスラム教徒はみんなテロリストだ」とつぶやき、遠い親戚が警察の残虐行為を容認し、かつての同僚はフェミニズムを引き裂こうと躍起だ。私たちの多くは、こうした暴言をスクロールしてやり過ごすことを学び、面倒な相手であればミュートすることも覚えた。とはいえ、こうした暴言が手に負えなくなれば、さらに大胆な一手がありうる。アンフレンディングがそれだ。

喜びを与えてくれるものだけを身近に残す近藤麻理恵の教えを友人リストに適用したことで、精神的な平和を得た人もすでにいるだろう。あるいは現実世界での影響を懸念してネット上のつながりを断ち切ることに躊躇している人もいるかもしれない。その懸念ももっともだ。

──昨年はワクチンをめぐるスタンスなどが、こうしたアンフレンディングにつながりかねないようなことが身近でもありましたし、近い価値観かと思っていた人が、気づいたら真逆になっていたりといったことも、多くの人が体験したかもしれません。

今回の特集ではこうした状況がアメリカだけのものではなく、インドやブラジルでも起きていることを明かしています。インドの政治メディア『The Print』の2020年2月の記事「『BJP支持者はわたしをアンフレンドしてください』の投稿でリベラルはすでに戦いに敗れた」(With ‘please unfriend me if you support BJP’, liberals have already lost the fight)は、まさにパーティでの会話について語るところから始まっています。こんな内容です。

思い浮かべてみよう。あなたは多くの人と一緒にパーティに参加している。家族もいれば、親しい友人、同僚、友人の友人、学校や大学の友人などが参加し、さまざまな話題が飛び交う。そしてお決まりのように誰かが政治の話を始める。その政治談義を忌まわしいと感じた誰かが、マイクを手に取り「〇〇党の支持者は黙りなさい」と言い放つ。こうした場面における望ましく、品があって、建設的な振る舞いは、自分と反対の立場の人と真摯に意見交換をするか、とっととその会話から抜け出して次に進むことだろう。

このパーティのシナリオをソーシャルメディアに置き換えてみよう。あなたはマイクを持って文字通り叫ぶことはしないかもしれないが、同じように無礼で攻撃的、目立ちたがりのこうした行動を、少なからぬ人たちがFacebookやInstagram、Twitter上で行うことをまったく問題ないと考えている。そして、市民権(改正)法の抗議運動が始まってからここ数カ月の間に、「もしまだBJPとナレンドラ・モディを支持しているなら、いますぐ友達を解消してください」というFacebookの投稿を何度も目にしたことで、正直、わたしはうんざりしてしまった。

──ふむ。

そこから記事の筆者のサミーラ・スードさんは、自分の推し政党の対立政党の支持者をアンフレンドし、キャンセルしてしまうことの問題を指摘するのですが、まず第一の問題として、その行為が自分をより狭いエコーチェンバーに押し込めてしまうと書いています。さらに、それがいわゆる「美徳シグナリング」、つまり自分の美徳を世に知らしめたいだけのポーズになってしまいかねないことを指摘しています。この2点を踏まえて、筆者はこう書きます。

人がある政党に投票するのはさまざまな理由からであって、BJPの支持者やモディ・ファンをすべてキャンセルが必要なBigot(偏屈)として思い描くのは逆効果だ。「リベラル」な人たちのこのやり方の限界は、過去2回の選挙で明らかに証明されている。(中略)

生まれつきWokeな人はいないのと同様に生まれつきのBigotもいない。誰もが学びの途上にあって、ほとんどの人が努力をしている。にもかかわらず多くのリベラル(わたしもそのひとりだが)は、互いに相手を出し抜こうとするあまり完全に同じ考えをもっている人しか受け入れないことで、リベラリズムを断片化してしまっている。そして、まさにこうした断片化によって、相手側にその亀裂に付け入る隙を与え、リベラルを敗者へと追いこむことをたやすくしている。

──よその国のこととは思えないような話ですね。

おそらくこうした状況は世界的なもので、これは、代表制民主主義や、政党というものの意義やあり方、さらには現行の選挙制度が、ソーシャルメディアがデフォルト化した暮らしやそこでの人の行動と折り合っていないことからきている混乱なのではないかと思うのですが、その際の議論の多くは、現行の制度に対してどのようにソーシャルメディアを適合させるのか、という線から語られていて、それはそれでもちろん必要かつ重要なものですが、逆にソーシャルメディアがデフォルト化した人びとのあり方に適合的なシステムは何か、という逆向きの考え方があってもいいように思うんですね。

──たしかに。

それがいったい何を意味しているのか、自分で言っていながらあまりよくわかってはいないのですが、例えば今回のように「アンフレンド」の是非を問うにあたってまったく議論されていないのは、そもそも「〈友だち〉って何のことさしてる?」ということだったりするようにも思うんです。

非常につまらないことですが、自分のFacebookなりに「友だち」が何百人、何千人といたとして、そこで言う「友だち」が意味するところと、自分が実際に「友だち」だと思っている人とは当然違っているでしょうから、そこには当然濃淡もあるでしょうし、一方で「実際の友だち」と言ったところで、何をもって自分が「友だち」とみなしているかはあまり判然としませんよね。

──まあ、そうですね。

といって、「友だちとは何なのか?」という問いを発したところで、その答えは個別的、もしくはパーソナルすぎて例外だらけになりそうですから、それもあまり意味なさそうな気もします。

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──とするなら、どういった問いが有効なんでしょうね。

わたしが漠然と思ったりするのは、そもそも現在の社会において、なんでこんなに「友だち」というものが重要視されているのか、ということだったりします。子どもの頃から、友だちは大事だと言われて育ちますし、たしかに友だちは一緒にいて楽しいものですので多いに越したことはないのかもしれませんが、それがなぜ大事なのかは取り立てて明かされることもないですよね。

──友だちがいないと寂しいじゃないですか。

これは極めて個人的なことなのですが、自分は子どもの頃に引っ越しが多かったせいで、友人関係というのがバサッと絶たれるということをずっと体験してきたたんですね。そうやってつどつどバサッと友人関係が切れてしまうのは、そのときはもちろん辛いのですが、といって移った先で知り合いもできてくると過去の友だちのことはあっという間に忘れていってしまうものでして、そのことにちょっとやましさを感じることもあったりはしても、どうしたってプライオリティは「現在の環境」の方へとシフトしてしまうんです。

で、だんだんそれに慣れてきますと、「友だち」と言ったところで、それってあくまでもテンポラリーな一時的な存在だと考えるようになってくるんです。そんな経験をしてきたせいか、自分としては「友だち」ということばには、ある種の警戒感や違和感がありまして、いまでも仲のいい人はいますが、友だちかと言われたら「別にそう言わなくてもいい」という感じがあるんですね。

──ある環境のなかでたまたまうまくフィットした知り合い、くらいの感じですか。

そうですね。おそらく、友だちということばが内包していると少なくとも自分が感じている「全人格的な付き合い」といったニュアンスに違和感があるのかな、と思ったりします。というのも、環境の変化によって付き合う人も変わってくれば、そのなかで相手のプライオリティも自分のプライオリティも当然変化するわけで、基本「それでよくない?」と思っているところがあるんだと思います。ですから、自分がなんとなく同士だと感じていた人が、突然付き合いきれない感じになったとして、そのことがストレスなのであればしれっと離れるしかないのではないかと思うんです。

──まあ、そうなのかもしれませんが、それには結構な冷淡さが必要ではありますよね。

たしかにそうだとは思うのですが、そもそもここに来て「アンフレンド」という行為が問題になっていることの背景には、前提として、友だちの人格や価値観には一貫性があり、しかもそこでは時間による変化というものが想定されることなく、人格や価値観が極めて静的で無時間なものだという認識・理解が、ある種自明のこととしてあるからなんじゃないかと思うんです。

──人は常に変わる、という前提でいれば腹も立たない、と。

昨年編集を担当させていただいた『働くことの人類学』という本のなかで、文化人類学者の小川さやかさんが、タンザニアの零細商人について語っておられたことが、自分はとても印象に残っています。小川さんは、こんなことをおっしゃっています

『チョンキンマンションのボスは知っている』にも書いたんですが、彼らは「この人を信頼している」「この人は信頼していない」っていう区別を、あまり明確にしないんです。(中略)

どんな人間でもその時々の状況によって信頼できるかどうかは変わると言います。(中略)インフォーマル経済は不安定なので、1カ月前には羽振りが良かった人が病気になって商売も立ち行かなくなるという事態は珍しくない。逆に3日前は売り上げをごまかした小売商が、上客をつかまえて突然羽振りが良くなることもある。なので、彼らからすると「信頼できる人間」と「信頼できない人間」がいるわけではないんです。(中略)

状況に応じて、信頼できるときもあるしできないときもある。だから嘘をつかれても、自身の状況によっては騙されたフリをしてあげてもいいし、関係を切るしかないときもあるし、また関係を復活させてもいい、みたいな感じなんです。(中略)

一人ひとりが約束や期待を必ず遂行すること自体には過度な信頼はないです。といって、全員を信じていないわけでもなくて、「誰か」のことは信じているんです。(中略)特定の誰かは信じないけど、彼らが生きているネットワークのことは信じているのではないでしょうか。

──属性において人を見たり評価するのではなく、お互いの状況においてつど関係性が発動するという感じがとても面白いですよね。

まさに、わたしたちは、ある状況下におけるある行動やある思考を、その人の「属性」として理解することにあまりに慣れすぎてしまっていて、それが「アンフレンド」という行為、ひいてはソーシャルメディアそのものを厄介なものにしてしまっているような気がするんです。

一方で、これは小川さんに聞いてみないといけないことではありますが、こうした対人関係が前提とされている空間においては、「アンフレンド」という行為も、わたしたちが感じるほどのストレスはないのかもしれませんし、仮にそうなのだとすると、そちらの方がソーシャルメディアのネイチャーにより適合的なのかもしれません。

先ほどソーシャルメディアを現行の制度に寄せていくのではなく、むしろ制度の方をソーシャルメディアに寄せていくべきなのではないかと言ったのは、まさにそういうことでして、それをいきなり全社会的に変えるのは不可能ですが、少なくともわたしたちが気づかずに保持している「友だち」をめぐる当たり前を検証してみることは大事なことだと思います。

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──結局、アンフレンドすべきかどうかを悩まなくてはならないという状況自体が、「友だちかくあるべし」という観念や期待と摩擦を起こしているということの現れなわけですから、すでに「友だちをめぐる当たり前」が揺らいじゃっているということなんですよね。

それこそこの年末年始に忘年会や新年会的なものが少ないながらもいくつかはありまして、といっても多くて3〜4人くらいでの会食で、しかも全部が全部仕事関係だったりしましたので、つくづく自分には友だちがいないなと残念な気持ちにはなったのですが、とはいえわざわざ休暇のタイミングで会っていますので、基本そこで会った人たちは、仕事仲間といってもわざわざ会いたい人たちではあるので、自分にとっては心を許している人たちではあるんですよね。とはいえ仕事仲間ではあるので、友だちと言うのは違和感もあって、「仲間」ということばの方がしっくりと来る感じなんです。

──「仲間」にはネットワークの感覚もありますね。

雑誌や書籍の仕事は、個人のフリーランサーも多く、言ってみれば全員がフリーランサーとして動いているような業界ですので、たしかにネットワークの感覚は強くありまして、そのなかで、気があったり価値観の近い人たちがふんわりとつながったりしているのは、それこそ小川さんが語ったタンザニアの商人たちの「ネットワークのことを信じる」感覚とも通じ合っているのかもしれません。というのも、そうしたネットワークのなかで仕事が融通されあったりしますので、ネットワークは一種の互助会として機能するものでもあるからです。

──いいですね。

そうした人の集まり方を、編集の大先輩である津野海太郎さんは、「星座」ということばをもって説明しておられています。児童文学者で、かつては編集者でもあった今江祥智さんについて書かれた文章に、この「星座」ということばは登場するのですが、これは河合隼雄さんが今江さんを論じた際に使われたもので、元々は心理療法の世界で用いられることばなのだそうです。津野さんはこう書いています。

ここでの星座という考え方を私なりに拡張して使わせてもらうと、おそらく今江さんは、どうせなら自分で納得のゆく環境のうちで仕事をしたい、じぶんが気もちいいと感じられる星座のかたち、星々の配置をつくって、じぶんもそれらの星々の一つとして生きてみたいと考えてきたのだとおもう。そこにかれにとっての一九六二年のもつ意味がある。以来、今江さんにとって編集は星座をつくる技術になった。星をえらび星を配置する技術としての編集。(「編集者というくせのゆくえ」『読書欲・編集欲』より)

──かっこいいですね。

あるいは、思想家の東浩紀さんも、2021年10月に公開されたインタビューで「星座」という語を使われていまして、これはベンヤミンの因む概念だとしていますが、これも編集について論じた箇所で使われています。

『ゲンロン12』にはちょっとした達成感があります。この号の目次では、かつてウィトゲンシュタインが「家族的類似性」と呼び、ベンヤミンが「星座」と呼んだような、つながりがあるようなないような、かんたんには言葉では表現しがたい一体性が実現できている。そしてそれこそが「訂正可能性の哲学」で論じたような公共性の体現なんです。

雑誌って、企画を一個立てて、面白そうな人を詰め込めばいいというものじゃないんですよね。それをやっても、編集長がいま面白いと思っているものが並ぶだけになる。ゲンロンも第一期はそういう限界を抱えていたんですが、第二期からは方針を変えて、意図的に星座のような豊かさを目指すようになりました。そこから三号で、ようやくその理想に近づけた感じです。そしてその背景には、ゲンロンやその関連サービスでつながっている人たちのコミュニティが豊かになったことが大きい。(中略)

ゲンロンを創業してこの11年で感じ続けているのは、その昔、論壇なるものが成立していたのは、誰かが雑誌に紐付くコミュニティをきちんと作っていたからだということです。「話題の人を連れてきました」と、まとめサイトみたいな発想で論壇誌や論壇サイトを立ち上げてもだめで、コミュニティを作るところから始めなきゃいけない。そういう地味な下積みがきちんとできて、コミュニティが成熟したときに始めて、新しいメンバーを加えることができる。「なんでこの人が来たんだろう、」「この人はいままでのコミュニティとどう関係してるんだろう」と読者が考えてくれる。そんなふうに人が考えることで、初めて啓蒙は機能するんです。

新しい人、それまでと違った人を入れることも大事です。そうでないとコミュニティは持続しない。いまの保守論壇がそうなっていますが、いつも同じメンバーで、同じことばっかり言っている集団というのは、安心感があるけれど結局は持続しないと思う。成功してる企業やコミュニティは、みんなそういうダイナミズムを持っています。

──コミュニティ論としても興味深いですし、編集論としてそうしたことが語られるのも面白いですね。

ベンヤミンの「星座」の概念は、鹿島徹編・評注『歴史の概念について』によると、「互いに時間も空間も相異なるところに存在する星が、意想外のしかたで結びつくところに成立するもの」を意味するのだそうです

──「時間も空間も相異なる」というところが、いいですね。

ちなみにですが、こうしたことを踏まえて、ビヨンセが2016年に政治的なステートメントを強く打ち出し女性に向けて共闘を呼びかけた際に、連帯といったことばを使わずに「フォーメーション」という語を使ったのは改めて意義深い気もします。

──「配置」ということですよね。

ここで紹介した「星座」の語は、英語でいうと「Constellation」、ドイツ語では「Konstellation」ですが、ここには「配置」の意味も含まれます。ビヨンセの「Formation」では、この語は使われてはおらず、「配置=Formation」というといかにも軍隊的な「配備」の印象を受けますし、曲調からもそうしたニュアンスが汲み取れなくもないのですが、でも、そこで実際にイメージされているのは時空を超えた「星座的配置」なんじゃないかと、個人的には思いたいところです。

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Image: VIA YOUTUBE

若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。


꩜ 「だえん問答」は毎週日曜配信。次回は2022年1月23日(日)配信予定です。本連載のアーカイブはすべてこちらからお読みいただけます(要ログイン)。

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