Guides:#100 感情のラビットホール:閑話休題

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週刊だえん問答

世界がいま何に注目しどう論じているのか、「世界の論点」を1つピックアップし、編集者・若林恵さんが「架空対談」形式で解題する週末ニュースレター。100通目の配信です。毎週更新している本連載のためのプレイリスト(Apple Music)もご一緒にどうぞ。

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interlude

感情のラビットホール:閑話休題

今回は100回目の記念ということで、通常の問答形式ではなく、一人称の文章で書いてみようと思う。特に何を書こうというアイデアもなく書き始めているので、まずは一区切りの閑話休題として読んでいただけたらと思う。

この「だえん問答」という連載は、2020年の4月26日に第1回が配信されている。コロナ禍がいよいよ本格化するなかにはじまり、ちょうど2年を経て100回目を迎えた。そもそもがアメリカのビジネスメディア『Quartz』の「Field Guides」という小特集を読み解く企画として始まったものだが、昨年のある時期から、その肝心の「Field Guide」が休止してしまったことで、毎回取り上げるべき対象がぴしりと特定することができないようになってしまったことから、若干迷走を重ねてきた気が自分でもしないでもない。とはいえ、それでもこうやって飽きもせず100回もやってこられたのは、自分にとってもこの連載を書く作業が面白かったからなのだと思う。

何が面白かったかといえば、端的に自分がまったく知りもしない事象や事柄について、毎回毎回「えいや」で取り組まなくてはならなかったところだと思う。自分は、そもそもが「編集者」という立場の人間であり、はなからなんの専門性ももっていない。「このことについてなら詳しく語れる」といえばプリンスかP-Funkくらいなものだが、それにしたって、自分で本を書けるほどの情報も情熱ももってはいない。ただ、そこそこランダムに情報はもっているとは思うので、「こういう観点からだったら本にしたらおもろいかもね」といったことは、少しは語れると思う。そして、まさにそれが、編集という仕事なのだ。

政治学の一般書をつくる編集者は政治学のプロパーではないし、心理学したって、ビジネスにしたって、音楽にしたって、なんにしたって一般書をつくる編集者は、それぞれの分野に多少の「勘所」はあったとしても、本が書けるような専門家ではない。自分がすでにいっぱしの専門家であるなら、とっくに自分で本を書いているだろう。残念ながら編集者にはその力量はないのだ。

本でも雑誌の記事でもいいのだが、そこには書き手が「知っていること」が書かれている。当たり前といえば当たり前だ。人は自分の知らないことを書くことはできない。その書き手が「知っていること」が紙面やウェブ上に定着され、それを読んだ人が「へえ、それは知らなかった」と思うところに、本や記事の価値は宿る。未知が既知になる。知識の伝達。そこにおいて書き手と読者との間には、否が応でも非対称性が存在する。というかその非対称性こそが、本や記事の価値が発生する場所にほかならない。というといかにも感じが悪いかもしれないが、それはそうなのだ。自分が知っていることを本や記事で読まされても面白くはなかろう。何かを読んで「面白い」と思うのは、まずはそれが「未知」のものであるからだ。

そしてそうであればこそ、自分に先んじて「それを知っていた書き手」へのリスペクトも募ることにもなり、その非対称性がいかにも硬く固定されたものであるような錯覚を与えることにもなるが、とはいえ、書き手が、本や記事において書いたことは、いったいどの程度「既知」なのかというと、それがそう思われているほどには「既知」でもないということがあるような気はする。

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もちろん、ここで世のすべての書き手を代表して語るわけにはいかないが、例えば本づくりにおいてで考えてみると、企画の成立前から十分に「既知」を溜め込んだ上で、それをドバッと吐き出すことで成り立つ企画もあるだろうけれど、実際のところ、執筆作業を進めながら企画を固めつつ、逐次そこに必要な「既知」を集めていくような場合も多いはずだ。そして後者の場合、本づくりや記事づくりは、その比重はものによって異なりこそすれ、全部が全部「100%既知」によって構成されるのではなく、本づくり・記事づくりのプロセスのなかで、未知が既知へと転換していくことが、読者にちょっとだけ先んじて起きているだけ、ということにもなる。

もちろん、その場合でも、書き手の側には「この辺を探すと自分の知らない未知」が転がっているのではないかといった「勘所」のようなものがあるはずで、それがない限り企画なんか成立しようがない。いずれにせよ「既知」は常に「未知」と接してはいるので、よりよく「既知」を得ることは、よりよく自分にとっての「未知」を把握することとなる。そして、その「未知」に、「次の本・記事」の企画の芽が宿ったりもするのだ。

ということを考えていくと、編集者、つまり「次の企画を考える者」の仕事は、自分にとっての「既知」ではなく「未知」にフォーカスするところにあると言える。「専門家」は「既知」の量と質とでその価値が決まるのであれば、編集者は到底それにはなれない。しかし「未知」ということに関しては「量」や「質」として測ることはできない。そこでは、「未知」を察知する嗅覚と勘所がものをいうのだ。

とはいえ、「未知」を扱うというのは、それを企画に落とそうと思えば、なかなかバランスが難しいものだ。自分には未知だけれども、世間では「既知」のことなんていくらでもあるだろうし、ある特定の人たちの間では「既知」だが、自分も世間も「未知」のようなものもいくらでもある。「未知」を扱うためには「既知」がそれなりに把握されていなくてはならない。そのためには、自分の「未知」「既知」が、世間並みのそれとどの程度重なっていたり重なっていなかったりするのかを、だいたいでいいので、当たりをつけておかなくてはならない。

そうでないと、企画はひとりよがりなものとなったり、おそろしく愚鈍なものとなったりしてしまう。本や記事は、全部が「未知」でも、全部が「既知」でも成り立たない。結局はそのバランスをどう取るのか、ということになるが、とはいえ、本や記事の面白さは、結局のところ、どれだけフレッシュな「未知」をどう配合できるかということにかかっている。

というわけで、編集者は常に「自分が知らないこと」に注意を向けているということになろうかとも思うのだが(まあ、少なくとも自分はそうだ)、そうしたくせをもつものからすると、例えば、この連載で取り上げた「豊尻手術」や「」や「タングステン」や「缶詰」や「ビジネスクラス」といった、およそそれが取り上げられる文脈も背景もわからないようなお題は、実に面白いものとなる。

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毎回「さて書くか」となってから「どれどれ今回のお題は何かな?」と、いきなりそれについて読み始め、考え始めるのが通例だが、ひとつの記事から次々と関連リンクを開いていき、多いときには50ものタブを行き来しながら、「へえ」とか「ほお」と感心しながら、何を書こうかを考えるのはいつだって面白い作業だ。それが面白いのは、ついさっきまで「未知」だったものを、自分のこれまでの「既知」と結び合わせていくような作業だからだ。そこが結びつかない限り、「未知」はただ宙にぽかぽかと浮かんだただの「未知」にしかならず、「自分にとって面白いもの」とはならない。この連載のどこかで書いたことがある気もするが、ここでは「面白い」と感じる感覚こそが「既知」と「未知」をつなげるインターフェイスとなる。あるいは「既知」と「未知」がうまく接続されたとき、そこに「面白い」という感覚が立ち現れるということなのかもしれないが、まあ、それはどっちでもいい。

いずれにせよ、そうやって「面白い!」が見出されたときの感覚は曰く言いがたいスリリングなもので、「未知」が「既知」へとダイナミックに転換した際に感じるのは、ジリジリと傾斜を登っていったジェットコースターが坂の頂点に達し、急降下へと転じるときのように「落ちていく」感覚だ。いささか大げさかもしれないが、それを「知的興奮」と呼ぶことができるなら、その興奮は、実際に身体的なものだという感覚が抜き難くある。そしてそこには名状しがたい快感もきっとある。

しかし、その知的急降下の快感は、いまのご時世であれば「ラビットホール」と呼ぶべきものでもありうる。毎週ある話題を掘り下げながら、自分の「既知」と「未知」とをつなぎ合わせながら、短時間であれズブズブと対象に埋没していく行為が、YouTubeを観ているうちにズブズブと陰謀論へとはまっていくようなこととどこが違うのかと言えば、さして違いはないような気がしなくもない。

それこそお題が「葛」や「豊尻手術」「タングステン」なんていうものであれば、そもそも自分は当事者性が薄く、そこに政治性があったとしてもそれなりの距離から把握することもできるので、比較的安心して踏み込んでいくことができるが、それがちょっとでも当事者性/政治性を帯びてくるものとなると、知的ジェットコースターは、危険なラビットホールへと姿を変えていくことにもなる。

それを分かつものが何であるかを特定するのは実際難しい。であればこそ、うっかりラビットホールへと落ちこんだ人を「情弱」と呼ぶような言説が自分は好きではないし、それがいかに愚かに思える説や物語への埋没・傾斜であったとしても、それがその人なりの知的探求であるの結果であることを否定すべきでもないと思う。ただし、そこになんらかの違いがあるのだとすると、その知的探求の燃料として、いつしか「感情」というものが関与し始めるところなのかもしれない、とみに最近強く感じる。しかも、その燃料が何かに対して「ムキになる」ような感情であるとき、知的探求は、おそらく悪い方向へと作用しはじめるのではないか。

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「面白い」ものを「面白い」と感じるとき、それが純粋に知的なものあるのか、あるいはそこになんらかの「感情」が混じっているのかを特定することは案外難しい。扱う対象が「葛」であれば、それに対して自分が感情的になっているかそうでないかを測ることはさほど難しくない。少なくとも、自分には葛をめぐってパーソナルな体験と呼べるようなものはないし、それをめぐる情報を「面白いなあ」と思ったとしても、そこでなんらかの感情が発動する感覚はない。けれども、扱う対象が、それこそ日本政府のコロナ対策であったりオリンピックのようなものとなれば、行きがかり上、多少はムキにならざるを得ない。となってくると、否応なく自分が「面白い」と感じるものにも偏りが生まれてくることともなる。

さらに悪いことに、デジタルテクノロジーが浸透していくに連れて、報道機関、メディア企業から個人までもが、そこでお金を稼ぐためには何よりも人の感情に訴えることが肝要であることを学んできたため、ウェブ世界やソーシャルメディア世界に身を投じることが、すなわちエモーショナルなサーフィンとなってしまう。そのなかで感情が翻弄されないよう自制することは、実際相当に難しい。

幸いこの連載は、主に海外メディア(ほとんど英語ですが)の記事なり言説を紹介するという主旨を根幹にもっているため、自分にとって一番当事者性の高い日本国内の感情的アップダウンにさほど影響されずにすむスタンスを取っているが、それでもうっかり感情まかせに書かなくていいことを書き連ねてしまう危険性がないわけではない(ほとんどの原稿を夜中に執筆をして、ろくに推敲もせずに担当編集に渡してしまうので、実際、配信されてからヒヤヒヤすることは多い)。

情報というのは、知識の媒介でもあると同時に「感情」の媒介でもある。そして、現在のメディア企業は、後者の役割をひたすら肥大化させることで、その命脈を保っている。そしてそこに読者も書き手も否応なく巻き込まれていく。そしてそのなかで、誰しもがひたすら闘争的になっていく。

そうした状況からどうやって逃れ、少しでも闘争的になっているお題のフレーミング/建て付けをどうやったら変え、どうやってずらすことができるのか、というのはおそらく連載のスタート当初からあった問題意識だったのだとも思う。海外の記事に触れることは、同じ事象であったとしても、それが日本とは異なる現実のなかで語られているものであればこそ違った論点や、違った角度からそれに光をあててくれるだけでも有効だし、感情の渦巻から一歩距離をおいて、事象を眺めることを可能にしてくれる。そして、そこでは必然的に、とにかく日本で語られていそうなこととは違う「未知」や「面白い」を探すこととなるのだが、そのことも精神衛生上、大きな助けにもなってくれた。そして実際、海外メディアを見ていると、あるお題に対してユニークな視点や論点を提供してくれる「面白い」ものが、たしかにあるのだ。

(英語記事は世界中から発信されるので、ウェブ上の読み物において英語のものが最も多様性をもつのも当然といえば当然なのだが、そうやって翻って日本のメディア環境を見回してみると、ジャーナリズムと呼ばれるはずの分野における仕事の貧相ぶりには目を覆ってしまうことは多い。ひとつの記事の文字量からして、日本のメディア企業の記事はとにかく貧相だ。記事が長けりゃいいのかと言えばもちろんそんなことはないが、文字量の制限がなくなったことで、複雑な事象をたっぷりと報じたり論じたりすることができるようになったというデジタルメディアの恩恵を、なぜこうまで有用化できていないのか不思議でならない。長い記事は読者が読まないと勝手に決めてかかっているからだと察するが、経験上、ちゃんと面白い記事は長くてもちゃんと読まれるものだ。)

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そうやってこの連載は、ややもすると感情的に固着し、闇雲に論争的であることから逃れることを可能にするような「未知」の情報を求め、膠着を抜け出す別の抜け道を探すようなことをやってきたつもりではあるのだが、気持ちとしてはそうであれ、それが実際の成果となっているかどうかは定かではない。おそらくは誰も興味ないであろう「葛」や「タングステン」をめぐる問題を延々と読まされることに、なんの意味があるのかと問われたら、「まあ、こういうご時世だし、そういうものがあってもいいじゃないですか」とでも答えるしかないのだが、とはいえ、そんな言い逃れができないような問題として立ち現れたのが自分にとっては、ウクライナの問題だった。

この間、そもそもの連載の建て付けを無視するかたちで、7回にわたってひたすらウクライナでの紛争について「自由研究」を重ねてきたことの自分の動機が実際どこにあったのかは、いまだによくはわからないが、やりながら自分のなかで「知的なジェットコースター」と「ラビットホール」の境界がどんどん曖昧になっていることには気づいていた。中毒状態のようにひたすら情報を掘り続け、面白いテキストを見つけては貪るように読み漁った時間のなかには、当然、かなりの知的興奮もあったが、とはいえ、そのなかで自分のなかで、何かしらあまりよろしく感情がときに動いていることを意識することもあった。そして、感情は感情というものの本性として制御することが難しい。

その感情が、いったい何に向けて発動されたものであるかを特定するのは自分でも困難だが、そこに一種の防衛本能が作動していたように感じなくもない。そこにはおそらく自分がムキになって守らなくては何かが隠されているようにも思えるのだが、それが何なのかは自分にはよくわからない。とはいえ、この体験が、ラビットホールというものの誘引力や、情報というものがもつ動員力の怖さを悟らせてはくれたようには思う。そして、ことが厄介であるのは、この紛争そのものが、ラビットホールへの誘引や情報・メディア動員をテーマとしたものでもあるからだ。

そこで何かを語ることがすなわち戦争への動員となる、というハイブリッド戦争の力学のなかで、何か違う視点、違う論点、その闘争の力学を違うやり方で、自分なりにフレーミングしなおそうともがいてはみたものの、それは実際とても困難だったし首尾よくできたとももちろん思わない。情報戦というものの怖さを、この戦争ほど自分ごととして感じたことは恥ずかしながらこれまでなかった。

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そしてそれは必然的にメディアというものへの不信を、掻き立てることともなる。とりわけ欧米のMSM(メインストリームメディア)の不安定さ、脆弱さを知ることとなったのは、例えばBBCであったり、『The New York Times』といったメディアを、それなりに信頼してきた身からすると、それなりにしんどいことでもあった。とはいえ、そのおかげで、どこのメディアがどういった経歴のスタッフを抱えていて、どこから資金提供を受けているのかといったことにまでだいぶ詳しくなった。そして自分なりに、この人の言うことなら大丈夫かな、と思える人が誰なのかといったことのアタリもつくようになった。

とはいえ、その人たちの語っていることが「真実」であるかを特定するすべは残念ながらない。その人たちも、別の人から見ればきっと「ロシアの手先」でしかないかもしれない。だとすれば、結局のところ、自分もまた自分が親しみを感じる人に共感しているだけで、結局は、感情に大きく動かされていることにもなるだろう。たしかに、この情報戦のなかで出会った記事やその執筆者には、それこそ友だちのような親しみを感じていることは白状しよう。この人は、と思う何人かのジャーナリストやリサーチャーや元軍人の人に会ってじっくり話を聞いてみたいと思う気持ちはとても強い。

そうやって、ともに話せそうな誰か(相手がこっちをそう思うかはまた別の話だが)を見つけ出したことを喜ぶべきなのか、それともむしろ警戒すべきなのかはよくわからない。未知の情報を探すという行為が、どうしたって、どこかで自分の感情にしっくりくる何か、親しみを感じる何かを探すことであるなら、それは誰しもが抱える内なる孤独にも関わりそうな、極めて人間的な行為だということになるのかもしれない。けれども、そのことにあまりにも強く身を委ねてしまえば「真実」というものからは遠ざからざるをえない。あるいは、わたしたちは、ただひたすら、自分にしっくりくるものだけを都合よく「真実」として選び取っているだけなのだろうか。

なんにせよ、ウクライナをめぐる自由研究には、色んな意味で疲労困憊させられた。けれども、戦争はまだ続いている。とはいえ、それにずっとこれまでと同じように粘着し続けることは危険なことでもある。実際滞っている仕事もたんまりある。たまたま100回目という節目があったことで、今回少し目先を変えることができたことはありがたいことだった。そろそろ目先を変えないと、とは思うものの、この戦争がもたらしていることの影響は、メディアやメディアテクノロジーに関わる人間に、長く暗い影を落とすことになるだろうという予感もある。今後、どういったスタンスで「未知」の「面白い」ことを探すことが可能なのか、正直先行きがまったく見えず、気も重ければ、頭も、体も重い。どうしたもんかな。

休んだからといって、すっきりするわけでもないとは思いつつ、ちょうど区切りもいいので、ひと月ほどお休みをいただいて、ゴールデンウィークが開けたあとにでも改めて連載を再開することにできたらと思う。それまで、ひとまず、みなさんごきげんよう。


若林恵(わかばやし・けい) 1971年生まれ。『WIRED』日本版編集長(2012〜17年)を務めたのち、2018年、黒鳥社設立。


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